第16話:『健康支援委員会』の発足による恋愛フラグの完全消滅と、迫り来る人災(スタンピード)
第16話:『健康支援委員会』の発足による恋愛フラグの完全消滅と、迫り来る人災
翌日の昼下がり。
冒険者ギルドの重厚な木扉がゆっくりと開かれた瞬間、喧騒に包まれていた一階のフロアは、まるで時が止まったかのような完全な静寂に支配された。
酒の入ったジョッキを傾けていた冒険者たちは、その腕を空中で静止させ、目を限界まで見開いて入り口を凝視している。
「……おはよう、諸君。今日も労働安全衛生を遵守し、ゼロ災でいこう」
静寂の中、極めて平坦な声と共に姿を現したのは、シミ一つない清潔な作業着に身を包んだ俺だった。
だが、ギルドの冒険者たちが驚愕し、恐怖で顔を引きつらせている理由は俺の姿ではない。俺の左右にピタリと寄り添い、まるで有能な秘書のようにかしずいている二人の男――街の最高戦力であるBランク冒険者、『双牙』の存在だ。
「アニキ。本日の当班の討伐タスクですが、午前中のうちに予定の150%を達成しやした! これもすべてアニキの『全体最適化』のおかげでさぁ!」
かつては誰彼構わず牙を剥いていた狂戦士のゼノが、俺の手製バインダーを恭しく両手で抱え、満面の笑みでしっぽを振る大型犬のように報告してくる。
「ええ。前衛のゼノがヘイトを集め、私が後方から魔法で処理する。アニキの仰った『適材適所のリソース配分』を徹底した結果、私の魔力消費は従来の30%にまで削減されました。……アニキ、喉はお渇きではありませんか? いつもの白湯をご用意しております」
他人に心を開かず、常に冷酷な氷を纏っていた没落貴族のシルヴェスターが、優雅な手つきでマイ水筒の蓋に温かい白湯を注ぎ、俺に差し出してくる。
「うむ、ありがとう。二人とも、表情が良くなったな。ゼノはしっかり睡眠が取れた顔をしているし、シルヴェスターも肩の力が抜けて姿勢が改善されている。労働環境の改善は、心身の健康からだからな」
俺が白湯を受け取り、二人の労をねぎらうと、ゼノとシルヴェスターは「おおお……!」「アニキ……ッ!」と感極まったように目を潤ませ、俺の言葉を一言半句も聞き漏らすまいと直立不動で頷いた。
その異様すぎる光景に、ギルド内の冒険者たちは魂が抜けかけたように震え上がった。
「お、おい……嘘だろ……。あの血も涙もねえ戦闘狂のゼノが、バインダーを抱えてスケジュール管理をしてるぞ……」
「孤高の魔法剣士シルヴェスターが、お茶汲み(白湯)をしてやがる……!」
「街のトップの二人を、たった一晩で完全に『飼い慣らし』やがった……! アニキ一家……なんて恐ろしい組織なんだ……ッ!!」
周囲の畏怖のざわめきをBGMに、俺の脳内ライブラリは、ソノママゾンで購入した『Bunkoid版・絶対にすべらない!合コンでの必勝会話術100選』の第70章を高らかに読み上げていた。
――【女性は、集団の頂点に立つ『アルファオス(ボス)』に本能的な魅力を感じる。強大なライバルや猛者を従える圧倒的な器量を見せつけることで、あなたの遺伝子レベルの優秀さが証明され、女性たちは争うようにあなたに群がるだろう】。
完璧だ。
街の最強であるBランクの二人を、完全な舎弟(秘書)として従えて歩く俺の姿。
これ以上の『アルファオス』のアピールがあるだろうか。俺のモテオーラは今、間違いなくギルドの天井を突き破って成層圏にまで到達しているはずだ。
俺は中指で眼鏡をクイッと押し上げ、カウンターの奥でこの光景を見つめている受付嬢のクロエと、たまたま納品に来ていた魔法使いのエララちゃんに向かって、大人の余裕に満ちた足取りで近づいていった。
「やあ、クロエ君、エララ君。少し騒がしくしてすまないね。こいつら(Bランク)が、どうしても俺の仕事を手伝いたいと聞かなくてね。まだまだ手のかかる連中だが、俺が責任を持って一人前に育て上げるつもりだ」
俺はカウンターに肘をつき、フッと涼しげな微笑みを向けた。
荒くれ者たちを束ねる圧倒的なボスの顔と、部下を見守る優しい指導者の顔。この究極のギャップ萌えに、彼女たちは頬を染めて「アニキさん、素敵……!」と黄色い声を上げるに違いない。
だが。
クロエとエララちゃんの反応は、俺の期待とは、一八〇度、いや、次元そのものが違う方向へと振り切れていた。
「あ、アニキさん……ううん、偉大なる『パパ』……!!」
エララちゃんが、両手を胸の前で固く組み、まるで教会で聖母マリアの彫像を見上げるような、1000%の『純粋な宗教的畏敬』の眼差しで俺を見つめてきたのだ。
「私、クロエちゃんから聞きました。あの恐ろしいゼノさんとシルヴェスターさんが、昨夜、アニキさんの対策本部で……子供のように大号泣していたって……!」
「えっ、ああ、まあ。彼らも色々と中間管理職としてのストレスが溜まっていたようだから、少し愚痴を聞いてやっただけで――」
「なんという慈悲……! なんという海よりも深い家族愛……!」
クロエが、ボロボロと大粒の涙をこぼしながらカウンターから身を乗り出した。
「誰も恐れて近づけなかったあの最強の二人を、アニキさんは『力』ではなく『無償の愛』で包み込んだんですね! 孤独だった二人の心に寄り添い、温かい白湯を与え、ついに彼らの冷え切った魂を救済した……っ!」
「違う、俺はただモテ指南書のミラーリングを試しただけで」
「私たち、昨日エララちゃんと女子会を開いて決めたんです!」
クロエは俺の弁解を完全に無視し、神聖な誓いを立てるように宣言した。
「アニキさんは、五十人の荒くれ者たちをたった一人で育て上げる、このグーテン街で一番尊くて、一番偉大な『パパ(聖人)』です! 私たちギルドの女性職員一同は、昨日をもって『アニキ一家・健康支援委員会』をひっそりと結成しました!」
「けんこうしえん、いいんかい……?」
俺が呆然とオウム返しにすると、エララちゃんが大きく頷いた。
「はい! パパ(アニキ)が少しでも育児(現場監督)の負担を減らせるように、これから討伐報酬の査定には、こっそり野菜の現物支給を上乗せします! 皆さんの『ベジファースト』の足しにしてください!」
「そして!」とクロエが続ける。
「私たち女性陣は、パパと五十人の子供たちの『美しすぎる家族の絆』を、絶対に、絶対に邪魔しません! 色恋沙汰なんていう不純なもので、パパの神聖な時間を奪うような真似は、天地神明に誓って行わないと、ギルドの女性全員で血判状を押しました!!」
「えっ」
「これからも、遠くから見守らせてください! 頑張れ、負けるな、グーテン街の偉大なるシングルファザー!!」
パチパチパチパチパチッ!!!
ギルド内にいた数名の女性冒険者と女性職員たちから、割れんばかりの温かい拍手が巻き起こった。
そこにあるのは、限界まで育児に奮闘する父親への『純度100%の応援』である。
男として、異性として見られる余地など、ミクロン単位でさえ残されてはいない。俺の『恋愛対象外』の壁は、もはや成層圏を突破し、宇宙空間の果てにまで到達してしまった。絶対零度の完全なフリーズ状態である。
「うぉぉぉぉん!! アニキィ! 街の姉ちゃんたちも、俺たち家族の絆を応援してくれてやすぜ!!」
「アニキの深い愛は、街の女たちの心まで清らかに浄化しちまったんだ……!」
ゼノとシルヴェスターが、俺の背後でまたしても感涙し、むさ苦しい熱い抱擁を交わしている。
俺は、クロエが満面の笑顔で差し出してきた『報酬の銀貨と、おまけの新鮮なキャベツ3玉』を無表情で受け取りながら、心の中でソノママゾンのアカウントを完全に削除(退会)した。
さようなら、俺の異世界ハーレム。
さようなら、甘酸っぱいモテ・ライフ。
俺はこれから一生、この五十人の屈強なオッサンたちの胃腸の心配をして生きていくしかないのだ。
*
俺がキャベツを抱え、絶望のどん底で宇宙の真理(無)と向き合っていた、その時だった。
「……アニキ。ちょっと、耳に入れておきてえ不穏な報告があるんですが」
ゼノが、不意に声のトーンを落とし、極めて真剣な顔つきで俺に耳打ちしてきた。
「どうした。誰かの体調でも悪いのか?」
「いえ、そうじゃねえんです。……東の森の様子がおかしい。俺とシルヴェスターは昨日まで森の奥で魔物狩りをしてたんですが、妙に魔物たちが『西(この街の方向)』へ向かって大移動を始めてる気配があった」
シルヴェスターも、険しい顔で頷く。
「ええ。それに、風に乗って奇妙な匂いがしました。……大量の木が切り倒され、森が焼かれるような匂いです。本来、あの森の奥は強力な魔物の生息域であり、不可侵の領域のはず。魔物たちが何かに追われるように、怯えて移動しているようでした」
その報告を聞いた瞬間。
俺の脳内で、絶望(失恋)の霧がスッと晴れ、代わりに『市役所環境部のエース』としての冷徹な公務員の血が激しく沸き立った。
「……ゼノ。この領地を治めている領主(県知事)は、最近、大規模な土木工事や開発計画を発表していなかったか?」
「へっ? ああ、そういや……領主の野郎が、森の奥の避暑地にデカい『別荘』と『新たな遊技場』を建てるってんで、ゼネコンの土建屋に莫大な予算を下ろして、強引な森林伐採を始めたって噂は聞いたことがありやすが……」
「馬鹿な」
俺は眼鏡のブリッジを強く押し上げ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「魔物の生息域である手付かずの自然を、適切な環境アセスメント(環境影響評価)も行わずに強引に乱開発したというのか。生態系の破壊は、生息地を奪われた野生動物(魔物)の『人里への異常接近』を必ず引き起こす。これは単純な自然災害ではない。明らかな『行政の怠慢による人災』だ」
俺の口から飛び出した、冷酷な怒気を孕んだ言葉。
それは、かつて悪質な不法投棄や乱開発を行う業者と戦い続けてきた、本物の『役人』の顔だった。
「ア、アニキ……?」
ゼノとシルヴェスターが、俺の纏う空気が一変したことに気づき、息を呑む。
「ギルドでの報告は後回しだ。直ちに現地対策本部に戻るぞ。五十人全員を招集しろ。……これは、近いうちに街のインフラと市民の命を脅かす、前代未聞の『大型クレーム(大規模災害)』に発展する」
俺の予想は、悲しいほどに的中することになる。
領主のずさんな乱開発によって住処を追われた、数千、数万という魔物の大群。
それが、すべてを飲み込む濁流となってこのグーテン街に迫りつつあることを、この時の市民は誰一人として知らなかった。
ただ一人。
モテることを完全に諦め、仕事(リスク管理)に全振りすることを決意した、作業着姿の元・公務員を除いて。
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