第9話
彼は鞄のファスナーを開き、中から文庫本を二冊取り出し、地面にそっと置く。鞄の中には、もう何冊かの本が入っているのが見えた。古賀は、静かに項垂れる。
「どうして、こんな」
「……まぁ、簡単に言えば、金が欲しかったんだよな」
「本を愛してるって。本屋を愛してるって言っておいて、金のために万引きを?」
「あぁ、そうだよ。あんなもん、口先だけさ。欲に目が眩んだ」
嘘だ。古賀は直感した。
欲に駆られての犯行だったなら、天羽が「ジャシン」を察知しているはず。それ以上に、郡山の絞り出すような言葉が本心だとはどうしても思えなかった。
「金は、何のために使うつもりだったんですか」
「……さぁな」
「郡山さん。この期に及んで、悪人ぶるのはやめませんか。俺は、俺たちは、あなたが見た目と違って真面目で、本のことに一生懸命なことなんて、ずっと昔から知ってるんです。もう、騙し合いはいいでしょう」
郡山の瞳がわずかに揺れると、彼はひとつ大きく息をついた。
「……大学に、行きたかったんだ。死んだ親父が、必死こいて働いてまで、行かせたがってたから」
「親父さん、亡くなってたんですか?」
「慣れない現場仕事で体壊して、あっけなく。万引きで本屋が潰れて、母親は家出てって、それでも息子を大学に行かせたかったんだと。俺は高卒で働くつもりだったのに。自分のせいで、息子の人生まで滅茶苦茶にしたくなかったんだと。結局、医療費でしょっぱい稼ぎは全部飛んじまったよ」
郡山の声に湿った音が混じる。
「俺は、奨学金を借りて大学に行ったんだ。それだけじゃ全然足りないから、昼も夜も必死に働いて生活費を稼いだよ。俺、馬鹿だから、勉強についていくのも大変でよ。それでも、どうにか食らいついてきたんだ。でも」
今年23になる郡山は、未だ大学を卒業できていない。
「血は争えないよな。過労でぶっ倒れて、自律神経がああだこうだで入院。働きづめって言っても、俺より睡眠時間削って働いてる奴だっていっぱいいるぜ。何で俺だけ、って、自分の弱さを呪ったね。気づいたら、留年が決まってた。奨学金は打ち切りだ。そこで、諦めればよかったんだよな。今なら、俺だってそう思うよ」
「……諦められなかったんですね」
「親父の顔が、浮かんじまった。大学は休学扱いにして、学費を貯めようと思った。でも、一度壊れた身体は、簡単には戻らない。あの店長は、俺の事情を知ってて、シフトを調整しながら働かせてくれたけど、どの道もう無茶はできなかった。そして、無茶しなけりゃ、学費なんて一生貯まらない」
「だからって」
「……そうだな。だからって、万引きは駄目だ。でも、時間ばっかり過ぎて、増えも減りもしない通帳と睨めっこしているうちに、頭がおかしくなってきて、つい。一度やっちまったら、二回も三回も一緒だった。あの店長は、この店が潰れてもどうとでもなる人だって、自分を納得させて。バイト代が全部生活費で消えて、丁度ぴったり、盗んだ本を売った金だけが手元に残った。でも、そんな金で大学に行って、誰が喜ぶってんだ。笑っちまうよな」
古賀は何か言おうとして、やめた。古賀が思いつくような説教は、もう、郡山自身が自分に対して散々浴びせているのだ。
「……なんで俺が、文庫の小説ばっかり盗んでるかわかるか?読んでるんだよ。売る前に読んで、それを糧に、自分の小説を書いてるんだ。小説が売れたら、もうこんなことしなくて済むって思いながら。泥棒が、本なんて書けるわけねぇだろうが!」
郡山は路上に、唾と一緒に言葉を吐き捨てた。
万引きのせいで貧困に陥り、両親を失い、それなのにいつの間にか、万引き犯に身をやつしていた。自己矛盾と自己否定の果てに、自分のやっていることの目的も意味も見失って、それでも皆を騙して、罪を重ね続けてきた。理不尽と絶望に打ちのめされた彼には、それが罪だとわかっていても、何より自分をひどく傷つけるとわかっていても、そうするしかなかった。
彼に憑いているのは。ちゃちな悪意なんかじゃない。「ジャシン」なんかじゃない。それより、ずっとどす黒いものだ。
「……店長は。あの人は、気づいてます。店長だけじゃない。俺も、多分朝野さんも、ずっと前から、薄々あなたの様子がおかしいことには気づいてた。でも、深く追及することも、対策することもしなかったんです。あなたに、自分から言い出してほしかったから」
俺が、天羽をバンディに連れてきたのは。
郡山の罪が、得体のしれない「ジャシン」のせいだったらいい。それを祓いさえすれば、郡山が、やる気はないけど優しくて、実は本が大好きな、本来の姿に戻ればいいと、そう期待したからだ。でも、天羽は、「ジャシン」を察知できなかった。
「店長に、全部話してください。あの人は、あなたを警察に突き出したりなんてしない。きっと、うまくやってくれるはずだから」
「……わり。そりゃ、無理だ」
「なんで!」
郡山はゆっくりと起き上がると、鞄の中から本を一冊一冊丁寧に出して、古賀に手渡した。
「……駄目だ。これは、郡山さんが直接、返さなきゃ駄目だ」
「わかるだろ、古賀っち。俺は……俺はもう、戻れねぇ」
「郡山さん!」
「古賀っち。……ありがとな。ようやく、ようやく、辞められる」
郡山は肩の荷が下りたように、やけに小さな背中をこちらに向けて、よろよろと歩き出した。
古賀はそれ以上、彼を引き留めることができなかった。
その日以来、彼の姿を古賀が見ることも、話を聞くことすら、ただの一度もなかった。




