第10話
「ふふふん。今日のお夕飯は、カレーにしましょうかね」
天羽は駅前のスーパーで、パック詰めされた豚肉を物色する。古賀につけられた偽名は既にその役割を終えていたが、すっかり彼女のものとして馴染んでいた。
いっぱいの買い物袋を持って、本屋「バンディ」の横を通りかかる。一ヶ月ほど前にこの店の周りで起きたことを思うと、顔が曇ってしまう。天使には救えない、追い詰められている人々がこの世界にはたくさんいることを、天羽は学んだ。いや、教えられたのだ。古賀という、彼らと同じ暗い眼をした青年に。
「……あれ」
駅の構内から歩いてくる人影に既視感を覚えて立ち止まる。あれは、その古賀ではないか。
しかし、今日は木曜日。いつも通り学校に行くと言って、制服で出て行ったはずだ。今は午後三時過ぎ、確かに下校時刻ではあるが、駅から出てくるのはおかしい。
見間違いかな、ともう一度確認するが、制服姿のその青年は、やはりどう見ても古賀にしか見えない。天羽が訝しみながらも声をかけようとしたその時、彼の前に同じ制服を着た、別の青年が立ち塞がった。
「あれ?これはこれは、デビルくんじゃん。こんなとこで何してんの?」
見下している感情が漏れ出している彼の顔は、天羽からはうかがい知ることができない。ただ、彼の身体に、かすかにだが「ジャシン」が纏わりついているのは分かった。
「……佐藤」
「なに、制服なんて着ちゃって。学校、今日も来てないだろ?」
「いいだろ、ほっといてくれよ」
「いやあ、そういう訳にもいかねぇよ。そっちはゲーセン三昧でお気楽かもしれねぇけど、こっちはお前がいなくなって、退屈してんだわ。また学校来てくれよ、一緒に遊ぼうぜ?」
誰が、と古賀は吐き捨てる。しかし、明らかにいつもの調子が出ていない。瞳孔が揺れ、忙しなく身体を左右に揺らしていて、動揺、あるいは、怯えているように見えた。天羽はただならぬ事情を感じ取って、物陰に隠れて息を潜める。
「……ま、そういうことで。じゃな、デビルくん」
佐藤と呼ばれた青年は、古賀の肩を強く叩いてその場を去る。細い身体はその衝撃に耐えられずに、古賀はアスファルトに尻餅をついた。
「あっ……!」
駆け寄りたくなるのをぐっと堪える。今のは、おそらく天羽が見てはいけないものであるような気がした。天羽は古賀に見つからないように、小走りで帰路につく。
今の光景は、一体何を意味しているのだろう。
見なかったことにするのが一番賢い選択だし、それを古賀も望んでいると思う。でも、天羽にはどうしてもそれができなかった。表面上は冷たく見えても、古賀の体内にはまだ、温かく優しい血液が流れている。それを知った今、彼が抱えているものに見て見ぬふりをするのは、天羽に生まれた瞬間から刻み込まれている良心が許さないのだ。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
古賀は眉をひそめた。いつも底抜けに明るい天羽が、なんだか元気がない。
「どうした? 具合でも悪いのか」
「……いえ、その」
言い淀む天羽に、古賀は不安感を覚える。
「何かやらかしたか? 隠さず言えよ」
「そうではなくて」
天羽はやけに歯切れが悪い。まさか。身体を寒気が駆け巡る。まさか、見られた?
「……その、見てしまったんです。駅で、古賀様と誰かが、話しているところ」
悪い予感は的中した。古賀の口から、は、と息が漏れる。苦笑しながら、その場にぺたん、と座り込んだ。
「あの、あれはいったい」
その時、玄関のチャイムが鳴った。扉がどんどんと叩かれる。
「あ、借金取りの……」
天羽が小声で言う。そういえば、そんな嘘をついたっけ。
何度かチャイムが鳴り、扉が叩かれる。今日はどうやら、見逃してくれる気はないらしい。
やがて、大きく俺の名前を呼ぶ声が部屋の中まで響き渡った。
「古賀出日留! 担任の田島だけど、お前、そろそろまた学校来いよ! じゃないと、次にこのドア叩くのは児相だからな!」




