第11話
「……ようやく行ったか」
古賀は玄関の扉に耳をつけて、ため息をつく。あのヤクザまがいの教師のざらついた声が、どうにも不快でたまらない。
「ま、こういうことだ」
言ってみるが、天羽はもちろん納得してはくれない。どういうことですか、と言わんばかりに、こちらに厳しい目を向けてくる。
「そうだな、まず……改めまして、古賀出日留だ。姓は古賀、名が出日留。言っとくが、よくある名前じゃないぜ」
よくある名前ではないが、よくある話ではある。付き合ってもいない男の子供を産んだ若い女が、勢いで変な名前を子供につける。その後、持て余して虐待か育児放棄に至るまでが様式美のようなものだ。
「いわゆる、キラキラネームってやつさ。俺の場合は、全く輝いていないが」
バイトしているバンディの面々は、当然古賀の名前を知っている。その上で、彼らは決して古賀の名前を呼ばなかった。同僚のことを名前で呼ぶ習慣がある朝野は、わざわざあだ名をつけてくれたくらいだ。まぁ、「オキニ君」はどうかと思うが。
けれど、彼らのような大人はともかく、まだ子供である同級生は、そうはいかない。苗字が「ゴミ」と読めるから、という理由だけで目をつけられるのだから、貧相で片親で、名前がデビルだなんて、格好の獲物でしかないだろう。
「高一までは、それでも何とかやれてたんだけどな。二年になってからやけに当たりがきつくなって、とても通えなくなっちまった。……けど、あの担任、俺ん家の事情に気づいてて、たまにああやって催促してくるんだ。不登校の生徒の相談に乗って、少しづつ登校できるようにしている、ってことにすれば、評価が上がるんだとよ」
いじめが激化した要因のひとつは、間違いなくあの担任だろう。もっと割のいい仕事は他にいくらでもはあるだろうに、どうしてわざわざ高校教師なんて職を選んだのか聞いてみたくなる。
「お母様の借金、っていうのは」
「嘘。借金はあったと思うけど、借金取りが家まで来たことはない。元々そんなにヤバい所からは借りてなかったか、借りてた闇金が潰れでもしたか」
「……事情はわかりました。でも、納得できません」
天羽は、こちらにずいっと顔を近づける。怒っているような、泣いているような表情が視界いっぱいに広がって、古賀はたじろいだ。
「なんで、私に隠してたんですか。わざわざ制服なんか着て、名前も言わないようにして。教えてくれたってよかったじゃないですか!」
天羽の言い分はもっともだ。
彼女は古賀の名前を絶対に笑ったりしないし、話をちゃんと聞いて、力になろうとしてくれるだろう。彼女の真っ直ぐな気持ちに嘘をつき続ける必要はなかったと思う。
伝えるタイミングを逃した。自分の問題に、立ち入ってほしくなかった。いくつか理由の候補を思い浮かべてみるが、どれも違う気がする。
「……たぶん」
天羽が少し眼を細めた。
「たぶん、お前に、情けないところを見せたくなかったんだ。お前が、俺のことを、あんまりきらきらした目で見るもんだから、がっかりさせたくないって、思っちまった。ちっちゃなプライドを、守りたくなっちまったんだな、きっと」
天羽は何も言わず目を伏せると、ぎゅっと瞑った。しばらくそうした後、急にこちらに身体を近づけ、そのまま古賀の背中に腕を回す。
「お、おい!」
温かい息が首筋にかかり、頬と頬が触れる。触れたところに、生温い水滴が流れ落ちてくるのを感じた。
「……今まで、よく頑張りました。もう、古賀様は一人じゃありません。私が、必ずあなたを笑顔にしてみせます」
「お前、なんで」
「……悔しいんです。天使だから、って以上に、短い時間だけど古賀様と一緒に過ごしてきて、苦しい気持ちに気づけてあげられなかったのが、悔しくてたまらないんです」
なんで。俺なんかに、なんでそこまで。そういう奴なんだってわかっていても、古賀の脳はすんなりと受け入れることができない。到底受け止められない重さの愛情が、天羽の身体を伝って、古賀の心に流れ込んできていた。
そっと、自分の腕を持ち上げる。肯定するように、天羽が抱きしめる力を強めた。
彼女の背中にそっと触れる。どこか懐かしい感情が、身体中に満ちていく。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。ただ互いの温もりを確かめ合いながら、時間が過ぎるのを待っていた。




