第4話
埃を被っていたフライパンが、数年ぶりに熱を帯びる。自信たっぷりだっただけあって、エプロン代わりにTシャツを着けた天使の手際は確かによかった。
「はい、できました」
皿に盛られた肉じゃがと野菜炒めが古賀の前に運ばれてきた。生温かい湯気が顔に張り付く。
手を合わせてからじゃが芋を箸でつつくと、ほろほろと崩れた。そのまま口に運ぶ。
「いかがですか?」
「うまいよ。泣きそうなほど」
嘘ではなかった。学校の給食や外食ならまだしも、家でまともな料理を食べたことなんてほとんどなかった古賀にとっては、ただの野菜炒めや肉じゃがですら、ある意味で暴力的な食べ物だった。
天使は満足そうに何度か頷いて、古賀が食べ終わるのを何も言わずに待っていた。作りたての温かさが失われるのを惜しむかのように、古賀はあっという間に皿を空にする。
「ごちそうさま。……うまかった」
天使はにこりと笑うと、皿を持って台所へと向かう。皿を洗いながら、さも何でもない独り言のように、彼女はちょっと高い声で言った。
「……『ジャシン』、祓えましたね」
「ああ、そうだな」
「古賀様が助けてくれたおかげです」
「俺は突っ立ってただけだけどな」
「……それで。よかったら、また」
「駄目だ。これっきりにしてくれ」
天使はがっくりと肩を落とす。
「勘弁してくれ。今回はたまたまどうにかなったが、危険だし、何より面倒だろ。今回は警察とはち合わせないように逃げてきたけど、毎回そんなことしてりゃ怪しまれるのはこっちだぞ」
「そうですよね……。でも、でも!身近にいる『ジャシン』だけでいいんです。何かお困り事はありませんか?きっと古賀様のお役にも立てると思いますよ」
「……ないよ。役に立てることなんて」
そんなぁ、と言いながら天使は蛇口を閉め、古賀の隣に座る。
「何か思い当たること、ありませんか?通ってらっしゃる高校とか」
「……まぁ、そう言われてみれば」
古賀は大きくため息をつくと、尻を浮かしながら渋々ひとつの心当たりを口にした。
JRの急行が停まる駅、円月駅。町民にとってなくてはならない足であり、この町の物件の家賃は、この駅からどれだけ離れているかでほとんどが決まってしまう。
そんな駅の真向かいのビルの一階という超好立地に位置するのが、本屋「バンディ」。古賀家の家計を支える唯一の収入源である、アルバイト先だ。
「こんにちは」
自動ドアをくぐり、ちょっと大きめに挨拶する。開店前の午前九時、照明は一部しかついていないし、店内に客の姿はない。
「はい、はーい」
奥からぱたぱたと足音が聞こえてくる。やがて、本棚の陰からぬっと長身の男性が出てきた。
頭頂部まで金色に染まった髪は35歳という年齢としてはかなり攻めた色だが、眼鏡の奥の糸目が知的な雰囲気を醸し出し、バランスを取っている。
「おはようございます、店長」
「おはよう。……こちらが、昨日言ってた?」
「はい。従姉の、古賀天羽です」
俺が紹介するのに合わせて、天羽がぺこりと頭を下げる。人に会わせるには名前が必要だろうと、昨夜適当に考えた名前だが、意外としっくりくるものだ。
「こちらが、『バンディ』の店長。俺の母親の友達で、母親がいなくなってからもお世話になっ
てる人」
「あ……天羽です。里帰り中です。よろしくお願いします」
「店長をやってる、花峰です。こちらこそよろしく」
天羽は、母親の普段着のTシャツとズボンに、行きに買った安物のカーディガンといった出で立ちだ。店長はそんな天羽を意味深に眺めた後、にこりと笑って躊躇いなく手を差し出す。
天羽は遠慮がちにその手を握り返した。
「……それで、例の件だけど」
「はい。従姉は、万引きGメンをやってて。事情を話したら、協力してくれるって」
「もうちょっと厳つい人が来るのかと思ってたから、びっくりしたけど。手伝ってくれるなら助かるよ。ちょっと最近は、洒落にならなくてね」
我ながら無理な設定だとは思う。今まで一度も店長に従姉の話などしたことないし、若い女性の万引きGメンが、たまたま里帰り。勘のいい店長なら違和感くらいは覚えるだろうが、古賀にはそのあたりも含めて色々と気を利かせてくれるだろうという信頼があった。
そもそも、友人とはいえ問題だらけのシングルマザーである母親に、事故物件だけど安くていいマンションがある、と不動産屋を紹介してくれたのも彼だったし、高校生である古賀に、定休日である金曜以外は、土日を含めてぎりぎりまでシフトを組んでくれたのもありがたかった。何を考えているのか読みづらいところはあったが、古賀のいつ帰ってくるかわからない母親を一人で待つという我儘が許されているのは、彼のおかげであることは間違いない。
「おはようございます」
遠慮がちな声とともに、女性が中に入ってくる。化粧っ気はないが整った顔立ち、洒落たブラウスにパンツルック。後ろで髪を結んだ、まだ大学生なのにいかにも「仕事ができる」風な見た目の彼女は、古賀もよく見知った顔だった。
「朝野さん、おはよう」
「店長。そちらは……?」
「古賀くんの従姉で、万引きGメンをやってるんだって」
「Gメン!?へええ、すごいですね。お若いのに」
「い、いえいえ。天羽です、よろしくお願いします」
「朝野萌です、大学生で、ここでアルバイトをしてます。古賀くんとはシフトが被ることが多くて、いつもお世話になってます」
朝野はほら、あの駅の最寄りの、と県内ではそこそこ賢い女子大の名前を挙げたが、天羽にはそのあたりの知識もあるのだろうか。
「朝野さん、『古賀くん』はないでしょう。いつも俺のこと、そんな風に呼んでないくせに」
「ちょっと、バラさないでよ」
しいっと朝野が自分の口元に指を添える。
「そうだぜ、『オキニくん』ってちゃんと呼べよ。普段呼んでるみたいにさ」
背後から、低い男性の声がした。こちらも、聞き馴染みのある声だ。
「はじめまして、古賀天羽さん。話は大体聞いたよ」
黒い長髪を垂らし、いつも何が入っているかわからない馬鹿みたいに大きな肩掛け鞄を掛けている、ちょっとだけヒッピー風の男。怪しさ全開の彼もまた、土日によくシフトに入っているアルバイトだった。
「郡山夕、小説家志望。こんなナリだけどまだ23だから、そこんとこよろしく。あと、俺は古賀っちのことそんな呼び方してないからな」
「は、はあ」
自然に握手を求める郡山に、天羽は恐縮しながら手をそっと握る。
「なーにが小説家志望よ、大学サボる言い訳のくせに。天羽さん、この人、実際のところただのフリーターですからね。気をつけてください」
「馬鹿、俺は小説は真面目に書いてるんだよ。大学もサボってるんじゃなくて、ちょっとモチベーションがなくなっちゃったの。退屈な講義しかしないあっちにも問題があるわけ」
言い訳がましい郡山の話を、はいはい、と呆れたように朝野が打ち切る。店長は困ったようにこちらに笑いかけながら、ぱん、とひとつ手を叩いた。
「全員揃ったね。それじゃ、本日の仕事を始めよう。着替えておいで」
着替えるといっても、荷物をロッカーに入れて店名のロゴが入ったエプロンを上から掛けるだけ。だから、いつも同じ派手な柄シャツを着ている郡山などは客からの受けがめっぽう悪い。
「じゃあ、開店前に新刊の陳列と、棚の整理だけやっちゃおうか」
店長の指示で、古賀たち三人はてきぱきと動き始める。土曜日の朝から晩まで働いているだけあって、三人ともここでのバイト歴は比較的長い。唯一おろおろとしている天羽を見かねて、店長が声をかけた。
「どこまで聞いてるんだっけ?」
「あっ……。えっと、古賀くん、の働いてるところが、万引き被害に遭ってて大変だって、それだけで」
「あぁ……。その話も、そうなんだけど。ほら、彼の事情について」
「そのあたりは、だいたい」
店長は、安心したようににこりと笑った。
「よかった。隠し事があると、息が詰まるからね。……いつまでこっちにいるかわからないですけど、よかったら彼の話し相手になってあげてください。僕はほら、しょせん他人だから」
はい、と天羽は小さく頷く。店長は細い目をさらに細めて、口角を上げた。それから真面目な顔になって、切り出す。
「さて、万引きの方なんだけどね。これが、相当深刻でね。……最初に売上記録と在庫の数が違うことに気づいたのは半年前。小説の文庫本ばかり、一週間に一回、数冊とかのペースで、少しづつ。監視カメラとかの確認もしたんだけど、犯人は分からなかった。その時点で結構被害は出ていたんだけれど、いつまで経っても捕まらずに味を占めたのか、ここ一ヶ月くらいはもっと狭い間隔で、よち単価の高い漫画とか新書とかにも手を出し始めてる。……うちはご覧の通り立地が良くて、幸いなことに売上には困ってなかったんだけれど、このままだと、ちょっと続けていくのは難しいかもしれないね」
「そんなに、被害が出てるんですか」
驚く天羽の背後から、ぬっと郡山が顔を出した。
「たかが万引きで、って、そう思ったか?」
ひっ、と天羽は飛びのく。その仕草に少し傷ついた様子で、彼は長い髪を弄った。
「一冊本が盗まれた損失を補填するには、同じ本を三十冊も余計に売らなきゃいけないんだぜ。それを万引き犯は、十冊も十五冊も平気で盗んでいきやがる。一人の万引き犯のせいで店が潰れるなんて、珍しい話でもないさ」
「は、はい。すみません」
店長が困ったように苦笑いしながら、郡山を諫める。
「あんまり天羽さんを脅かさない。それに、彼女は万引きGメンですよ。そんなことは百も承知でしょう」
それもそうか、と郡山は肩をすくめる。
「仕事は終わったの?そろそろ開店時間だけど」
「ああ、ばっちりだ。いつでも開けていいぜ」
「ふむ……じゃあ天羽さん、一日よろしくお願いします」
店長はそう言うと、店の前の札を「OPEN」に裏返した。午前十時、開店時刻ぴったりだった。




