第3話
「すっかり遅くなっちゃいましたね」
日が短くなった円月町の夜道を、二人は手にいっぱいのレジ袋を提げて歩いていた。住宅街の狭い道路には街灯や家の明かりはあるが、人通りは少ない。天使は大きな羽も、頭の光輪も消していた。それでも見た目の異質さは誤魔化せてはいないが、ぎりぎり外国人に見えなくもない。
「夜は苦手です。お化けが出そうで」
「いるの? お化け」
知りません、と天使は肩をすくめた。知らないから怖いんじゃないですか。古賀は拍子抜けするが、すぐに意地悪なことを思いつく。
「……おかしいと思わなかったか? 俺の家、貧困に喘ぐひとり親家庭が暮らすにしては贅沢すぎるだろ。駅から徒歩八分、築三十年ちょっとの二階建ての角部屋って」
「あぁ……言われてみれば」
「あそこな。事故物件なんだよ。俺らが住み始めたのが三年前。そのさらに半年前に、あの部屋で親子三人が殺されたんだ。しかも、犯人はいまだに捕まってない」
「えっ……」
「話はここからだ。俺らは知り合いのツテで貸してもらったんだが、普通そんな部屋の隣も、住みたくはないよな。だから、ほら、よく壁叩かれるだろ。……ほんとは隣、誰も住んでないんだぜ」
ひっ、と、天使が三歩古賀から離れた。まるで古賀自身が恐ろしいものであるかのように、目を背けている。
「……なんてな、冗談だよ。事故物件なのは本当だけど、隣は細身のおっさんだよ。たまに顔合わせた時は何にも言ってこない卑怯者だから、あんまり気にしなくていい。そもそもあの部屋、けっこう壁分厚いしな」
「な、なぁんだ。からかわないでくださいよ」
大げさにほっとした素振りを見せながら、しかし彼女の足取りは確実に重くなっていた。なんで急に彼女に意地悪をしたくなったのかわからない。先ほどのやり取りの照れ隠しか、意趣返しか。とにかく、わかりやすく動揺する彼女を見て、少し気分は晴れた。
「お腹空きました? 料理、自信あるんですよ。期待しててくださいね」
話題を変えようとしたのか、やや唐突に天使が笑う。ああ、と古賀は相槌を打ったが、その続きは返ってこなかった。
「……?」
天使が、険しい顔で黙りこくっている。何かを言おうか言うまいか、逡巡しているのが古賀にはわかった。
「どうした?」
「……いや、それが」
彼女はなお迷った様子を見せていたが、おもむろに目を瞑り、決心したように開いて言った。
「近くで、『ジャシン』の気配がします」
古賀は、聞かなきゃよかった、と内心で後悔した。おそらく露骨に嫌な顔をしていただろう、天使も少し申し訳なさそうな表情をしている。しかし、声には力があった。
「行きましょう。このまま見過ごせません」
「勘弁してくれ。言っただろ、俺はあんたらの問題には関わらない」
「……ごめんなさい。でも、ここで逃したら、次に見つけられる時にはずっと大きく成長しているかもしれない。その間に、他の人に危害が及ぶかも」
「俺には関係ない。俺は聖人でも天使でもないんでね」
「今頼れるのは、古賀様しかいないんです。『ジャシン』を探しに行くのを手伝えとは、もう言いません。でも、たまたま見つけてしまったものを見なかったことにするなんて、私にはどうしてもできないんです」
古賀は頭を抱える。正しいことを言っているのは、どう考えたって彼女の方だ。だが古賀は、正しいからといって自らの危険や面倒を顧みず行動できるような人間ではなかった。
「お願いします。すぐ終わらせますから!」
天使はそう言うと、古賀の手を取って、家とは違う方向に勝手に走り出した。手を引く力はそれほど強くがなく、引き剥がそうとすれば古賀の腕力でも十分できるはずだった。
「……あぁ、くそっ!」
しかし、古賀はそうしなかった。いや、できなかった。
あまりに眩しかったのだ。
天使の正しさは、古賀のこれまでの人生で、はじめて見る輝きだった。
「この辺りのはず……」
二分ほど走って、曲がり角を二、三回曲がったところで、彼女は立ち止った。首を左右に振り、一点で静止する。
「いました。あの人です」
小さく囁いて、古賀の手を握る反対の手で、五十メートルほど先でスマホを弄っている黒いロングコートの男を指さす。夜の暗さとマスクのせいで、顔はほとんどわからない。
「よく目を凝らせば、古賀様にも見えるはず」
という言葉に従って目を細めると、確かに遠めからでも、男の周りに黒いもやのようなものが纏わりついているのが分かった。
「もっと近づかないと」
彼女はずんずん進んでいく。俺は引っ張られながら、「ジャシン」に取り憑かれた人間に不用意に近づくのは危ないのでは、と考えていると、男もこちらに気付いて目を逸らした。
「すみません、ちょっと……」
天使が男に声をかけた、その時だった。ばっ、と音を立てて、ロングコートのボタンが解放される。中から出てきたのは、何も身に着けていない、汚らしい裸体そのものだった。
「うわっ……!」
「き、きゃあああっ!」
古賀たちがたじろぐ隙に、男は一目散に走り去る。
「おい、追いかけなくていいのかよ!」
顔を真っ赤にして立ち竦んでいる天使に、古賀は男を指さして叫ぶ。天使はたっぷり二秒は沈黙した後、ようやく我に返って走り出した。
「男の人のアレ、初めて見た……」
走りながらもうわ言のように呟く天使に呆れながら、古賀は後を追う。男と二人の距離はだいぶ開いていたが、向こうも動揺しているのか、興奮でそれどころではないのか、男の走りは遅かった。
路地をしばらく追いかけて、逃げきれないと悟ったか、男は立ち止まった。息を整えた後、こちらに向かって突進しようとしてくる。
「……それで、どうしたらいいんだ?」
「えっ?」
「しっかりしろ。俺はどうすればいい?」
未だ頬を赤らめて呆けている天使の頭を軽く叩く。彼女は頭をさすりながら、反対の手で古賀の右手を取った。
「天使の羽は、大気中の正のエネルギーを集める働きがあります。ですが、今の私にはそれができない。だから、代わりに古賀様のエネルギーをもらいます」
古賀の五指に、指を絡ませる。天使の体温が掌全体に伝わる。古賀は気恥ずかしくなって彼女から目を背けた。
「……乙女の純情を弄ぶ所業、断じて許しません。『ジャシン』、滅せよ!」
刹那、眩い閃光が辺りを覆った。今にも飛びかかろうとしていた男が、大きくたじろぐ。古賀は開けた細目から、彼の全身に纏われた黒いもやが、霧散していくのを見た。閃光はすぐに消え、道端に倒れる男だけが残されていた。天使は、哀しそうな瞳で男を見ていた。
「……警察に通報しなきゃ」
古賀はスマートフォンを取り出し、110を呼び出す。コールの間に、天使はぽつりと呟いた。
「彼の『ジャシン』は、かなり成長してしまっていました。もっと早く見つけられていたら、この方が罪を犯してしまうこともなかった。……ごめんなさい」
電話の向こうのオペレーターに状況を伝えながら、古賀はそんな彼女を横目で眺めた。被害に遭っても、加害者の男ではなく自分を責める。その態度は、確かに「天使」という名前に相応しいくらい真っ直ぐだ。
でも、古賀は、どうしてもそれを肯定的に受け止めることができなかった。彼が彼女を見ていて感じるのは、苛つかせるような、心配になるような、どうしようもない危うさだけだった。




