第2話
「……ん」
夜中に目が覚めた。もともとぐっすり眠れるほうではないが、ソファで寝ているせいもあるだろう。
「いや、古賀様がベッドを使ってください。私は居させていただいてる身ですから」
「怪我人が無理すんな」
「……じゃあ、一緒に寝ます?」
「馬鹿いえ」
思い返しても不安になる。天使に人間の基準を当てはめても仕方ないことは分かっているが、彼女はあまりに無防備すぎてこの空間に似つかわしくない。
トイレに行って、再びソファに戻る。このソファで寝るのはいつぶりだろうか。ひとり暮らしには過ぎた代物だ。
寝息は聞こえないが、ベッドの方に気配は感じる。
「天使……か」
疑うわけじゃない。疑いようがない。
けれど、信じたくなかった。この世に、そんな都合のいい存在がいて、皆を幸福にしてくれていて。
そんな平和で美しい世界から、自分があぶれてしまっているということが。
「あ、お帰りなさい!」
「ああ、ただいま……って」
古賀は唖然として、その場に立ち尽くした。
「ほら、見てください!一日で見違えるくらい綺麗になったでしょ?」
ゴミ袋や要らないものに大部分を占領されていた部屋が、すっかり様相を変えていた。ゴミは消えてなくなり、ものは綺麗に整頓されて収納され、部屋は二回りも広くなり、何年かぶりに姿を見せた床は埃ひとつ纏っていない。おまけに、部屋中に古賀の知らない香りが漂っていた。
「お買い物行こうと思ったんですけど、苦手なものとか聞いてないし、古賀様のお金に勝手に手を付けるのも気が引けて。先にこっち済ませちゃおうと思って」
得意げに語る天使を見たくなくて、俺は眼を強く瞑った。
「……余計なことを」
「へっ?」
「余計なことしやがって! 誰が頼んだ!? こんな……あぁ、もう!」
どん、と壁が叩かれる。衝動的にうるせえ、と叫んで叩き返した。額のあたりがかっと熱くなる。
「古賀様……?」
天使は困惑している、というより、今にも泣き出しそうな感じだ。まずい、と思う反面、身体の震えが収まってくれない。
「あぁくそ、どうすんだよこれ!」
言いたくもない悪態が口から飛び出してくる。落ち着こうとしても、血液は反対に頭に昇る。
またひとつ言葉が口をついて出そうになったところで、やけに高い電子音が鳴った。
「……お客様、ですか?」
急激に体温が冷えるのを感じる。天使が目に涙を浮かべながら、少しほっとしたように聞くのを、しっ、と制する。彼女はなぜか直立不動で、素直に口を閉じた。
もう一度、インターホンが部屋に鳴り響く。
「すいませぇん! 古賀くん、いますかぁ?」
玄関先で、古賀の名を呼ぶ男の声がする。古賀は人差し指を口元で立てたまま、息をひそめる。
「居留守かなぁ。困るなぁ」
わざと聞こえるような大声をあげる。それでも黙っていると、諦めたのかその場を立ち去る物音がした。
そのあと、たっぷり一分は間を空けてから。古賀はようやくはああ、と大きなため息をついた。
「もういいぞ」
「……今のは?」
どう答えようか悩んだ後、古賀は短く言う。
「借金取り」
「えっ……」
「うん。どこから話そうかな」
古賀は頭を掻いた。ごくりと唾を飲む天使の涙はすでに引っ込んでいて、古賀は少し救われた気がした。
「この家には、ほんとはもう一人住人がいるんだ。……俺の、母親なんだが」
綺麗になった部屋をじっくり眺める。八畳の部屋は、高校生の一人暮らしにはどう見たって広すぎる。二人掛けのソファは、一人で座るには大きすぎる。わざわざマグカップを二種類も買う必要もない。そもそも古賀が通っているのは私服可なだけの公立高校で、一人暮らしなど認められていない。
「子供の父親が誰かすらわからない、馬鹿な母親でね。ガキの頃から、家にはほとんど帰ってこなかった。たまに帰ってきたと思えば、その度に借金を増やしてきて。……母親が、怒るんだよ、部屋を片付けると。そんなに大事なものがあるんなら、もっと帰って来ればいいのにな」
「……」
「でも。……でも、今まではな。二ヶ月とか、三ヶ月にいっぺんは、うちに帰ってきてたんだ。酒飲んで暴れて、ベッドを一人で占領して、俺はしょうがないから、ソファで寝てたよ。でも、最後にあいつが帰ってきてから、もう一年半になる。……もしかしたら、もしかしたら、もう母親は……帰ってこないかもしれない」
自分の声が震えるのを感じる。無理して笑うけれど、口から漏れるのは湿った息だけ。視界がぼやけるのが嫌で、目を乱暴に拭った。
「……怒鳴って悪かった。本当は分かってるんだ。もうあいつが帰ってこないことも、万が一帰ってきたとしても、そもそもどうしようもない母親だってことも。片付けてくれて、ありがとな」
最後の方は、ちゃんと言えなかった。目元が赤くなりそうなくらい強く、目を拭う。その腕に、温かい掌がそっと触れた。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「……やめてくれ。あんたが謝ることじゃない」
「違います。違うんです。私たち、天使なのに。人間様を幸せにしなきゃいけないのに。それなのに、こんなに長い間、古賀様をひとりにしてしまった。悲しい思いをさせてしまった。私はそれが、悔しくてたまらないんです」
彼女は古賀の腕をそっと下ろすと、両手で顔を優しく包んで、たぶん真っ赤になっているだろう眼を、潤んだ蒼い瞳でじっと見つめた。
「この顔を、私は忘れてはいけない気がするんです」
真面目な顔でそう言う天使のその純粋さが、刃物のように胸に深く突き刺さり、古賀は力なく呻いた。




