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ANGEL 天使の傷が癒えるまで  作者: 法華京
第1章

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第2話

「……ん」

 夜中に目が覚めた。もともとぐっすり眠れるほうではないが、ソファで寝ているせいもあるだろう。

「いや、古賀様がベッドを使ってください。私は居させていただいてる身ですから」

「怪我人が無理すんな」

「……じゃあ、一緒に寝ます?」

「馬鹿いえ」

 思い返しても不安になる。天使に人間の基準を当てはめても仕方ないことは分かっているが、彼女はあまりに無防備すぎてこの空間に似つかわしくない。

 トイレに行って、再びソファに戻る。このソファで寝るのはいつぶりだろうか。ひとり暮らしには過ぎた代物だ。

 寝息は聞こえないが、ベッドの方に気配は感じる。

「天使……か」

 疑うわけじゃない。疑いようがない。

 けれど、信じたくなかった。この世に、そんな都合のいい存在がいて、皆を幸福にしてくれていて。

 そんな平和で美しい世界から、自分があぶれてしまっているということが。


「あ、お帰りなさい!」

「ああ、ただいま……って」

 古賀は唖然として、その場に立ち尽くした。

「ほら、見てください!一日で見違えるくらい綺麗になったでしょ?」

 ゴミ袋や要らないものに大部分を占領されていた部屋が、すっかり様相を変えていた。ゴミは消えてなくなり、ものは綺麗に整頓されて収納され、部屋は二回りも広くなり、何年かぶりに姿を見せた床は埃ひとつ纏っていない。おまけに、部屋中に古賀の知らない香りが漂っていた。

「お買い物行こうと思ったんですけど、苦手なものとか聞いてないし、古賀様のお金に勝手に手を付けるのも気が引けて。先にこっち済ませちゃおうと思って」

 得意げに語る天使を見たくなくて、俺は眼を強く瞑った。

「……余計なことを」

「へっ?」

「余計なことしやがって! 誰が頼んだ!? こんな……あぁ、もう!」

 どん、と壁が叩かれる。衝動的にうるせえ、と叫んで叩き返した。額のあたりがかっと熱くなる。

「古賀様……?」

 天使は困惑している、というより、今にも泣き出しそうな感じだ。まずい、と思う反面、身体の震えが収まってくれない。

「あぁくそ、どうすんだよこれ!」

 言いたくもない悪態が口から飛び出してくる。落ち着こうとしても、血液は反対に頭に昇る。

 またひとつ言葉が口をついて出そうになったところで、やけに高い電子音が鳴った。

「……お客様、ですか?」

 急激に体温が冷えるのを感じる。天使が目に涙を浮かべながら、少しほっとしたように聞くのを、しっ、と制する。彼女はなぜか直立不動で、素直に口を閉じた。

 もう一度、インターホンが部屋に鳴り響く。

「すいませぇん! 古賀くん、いますかぁ?」

 玄関先で、古賀の名を呼ぶ男の声がする。古賀は人差し指を口元で立てたまま、息をひそめる。

「居留守かなぁ。困るなぁ」

 わざと聞こえるような大声をあげる。それでも黙っていると、諦めたのかその場を立ち去る物音がした。

 そのあと、たっぷり一分は間を空けてから。古賀はようやくはああ、と大きなため息をついた。

「もういいぞ」

「……今のは?」

 どう答えようか悩んだ後、古賀は短く言う。

「借金取り」

「えっ……」

「うん。どこから話そうかな」

 古賀は頭を掻いた。ごくりと唾を飲む天使の涙はすでに引っ込んでいて、古賀は少し救われた気がした。

「この家には、ほんとはもう一人住人がいるんだ。……俺の、母親なんだが」

 綺麗になった部屋をじっくり眺める。八畳の部屋は、高校生の一人暮らしにはどう見たって広すぎる。二人掛けのソファは、一人で座るには大きすぎる。わざわざマグカップを二種類も買う必要もない。そもそも古賀が通っているのは私服可なだけの公立高校で、一人暮らしなど認められていない。

「子供の父親が誰かすらわからない、馬鹿な母親でね。ガキの頃から、家にはほとんど帰ってこなかった。たまに帰ってきたと思えば、その度に借金を増やしてきて。……母親が、怒るんだよ、部屋を片付けると。そんなに大事なものがあるんなら、もっと帰って来ればいいのにな」

「……」

「でも。……でも、今まではな。二ヶ月とか、三ヶ月にいっぺんは、うちに帰ってきてたんだ。酒飲んで暴れて、ベッドを一人で占領して、俺はしょうがないから、ソファで寝てたよ。でも、最後にあいつが帰ってきてから、もう一年半になる。……もしかしたら、もしかしたら、もう母親は……帰ってこないかもしれない」

 自分の声が震えるのを感じる。無理して笑うけれど、口から漏れるのは湿った息だけ。視界がぼやけるのが嫌で、目を乱暴に拭った。

「……怒鳴って悪かった。本当は分かってるんだ。もうあいつが帰ってこないことも、万が一帰ってきたとしても、そもそもどうしようもない母親だってことも。片付けてくれて、ありがとな」

 最後の方は、ちゃんと言えなかった。目元が赤くなりそうなくらい強く、目を拭う。その腕に、温かい掌がそっと触れた。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」

「……やめてくれ。あんたが謝ることじゃない」

「違います。違うんです。私たち、天使なのに。人間様を幸せにしなきゃいけないのに。それなのに、こんなに長い間、古賀様をひとりにしてしまった。悲しい思いをさせてしまった。私はそれが、悔しくてたまらないんです」

 彼女は古賀の腕をそっと下ろすと、両手で顔を優しく包んで、たぶん真っ赤になっているだろう眼を、潤んだ蒼い瞳でじっと見つめた。

「この顔を、私は忘れてはいけない気がするんです」

 真面目な顔でそう言う天使のその純粋さが、刃物のように胸に深く突き刺さり、古賀は力なく呻いた。


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