第1話
ある日ドアを開けたら、天使がいた。
神々しくも、美しくもなかった。目の前に倒れている彼女の白い羽は赤黒い血で染まり、青白い肌の上で、上気した頬だけが赤らんでいた。
けれど、苦しそうに表情を歪ませる彼女から溢れる、赤子のような純粋さを、俺はただ、ただひたすらに。
羨ましいと、心から思ったんだ。
「……気がついたか」
古賀は、ベッドで眠っていた少女のまぶたが開き切るのを待って声をかけた。それから、飲みかけのアイスコーヒーにまた口をつける。夏休みが明けても、円月町には蒸し暑さが残る。
八畳ほどの部屋に二人分の体温がこもるとなおさらだ。
「んっ……。あれ、私は……」
少女は数秒呆けた表情で辺りを見回すと、急にがばっと飛び起きた。
「こ、ここはっ!? まさか、私……っ」
「おい」
怯えた声色で瞳を揺らす彼女に話しかけると、びくりと身体を大きく震わせる。布団を身を守るかのように身体の前に掛けて、そこで初めて、目が合った。
「落ち着け。俺ん家の玄関前で倒れてたお前を、俺が、ベッドに寝かせたんだ。俺はお前に何もしてないし、する気もない」
声を荒げないように気を付けて言い含めると、少女は徐々に落ち着きを取り戻し、もう一度、今度はゆっくりと辺りを見回した。ものやゴミ袋、袋にすら入っていないゴミの山が雑然と散らばる部屋を警戒しながら観察されると、若干気まずくなる。
「……ごめんなさい、その」
少女は力なく頭を下げ、続いて痛っ、と小さく悲鳴をあげた。
「無理するな。それで……説明してもらおうか。お前はいったい何者だ?」
問うと、俯く。その背後で、替えたばかりのシーツに、少量だが赤い血が付いている。純白のワンピースの、大きく開いた背中から生えた、無残にも傷つけられた羽。白い髪の上に浮かぶ、控えめな光の輪。日本人離れした蒼い瞳。彼女はどこからどう見ても、普通の人間ではなかった。
逡巡ののちに、彼女は意を決したかのように、顔をあげた。
「助けていただきありがとうございます、人間様。私は、天使です。名前はありません」
郵便受けの中に入っていた町報の一面だけを斜め読みして、床に投げ捨てる。強引な開発、しょっちゅうネットで炎上する地元出身の漫才師のインタビュー、最近出没するようになった変質者。今日もこの町は平和だ。
「コーヒー、飲む?」
いただきます、と返事がある。古賀はキッチンに行くと、インスタントコーヒーの瓶を開ける。さっきまで自分が飲んでいた無地のマグカップと、もうひとつ、ラスベガスの街並みがプリントされたマグカップに匙で粉末を入れ、水で溶かす。それから冷凍庫から氷を何個か手掴みで取り出し、カップに放り込む。
「はい、どうぞ」
どうも、と礼を言い、天使を名乗る少女は、マグカップを口に運ぶ。ひと口飲んで、ちょっと顔をしかめた。
「にがぁい」
「……初めて飲むなら、そうだろうな。こりゃそういう飲み物だ。ミルク要るか?」
「苦いだけで、コーヒー豆の風味や深みが全然感じられない。これ、インスタントの中でも相当粗悪なやつ……激安スーパーとかで買ってきたでしょ。あ、ミルクはください」
「……ずいぶんお詳しいようで」
古賀は下ろしかけた腰を再び上げると、キッチンから牛乳パックを持ってくる。
「天界で、こっちの常識や慣習は一通り勉強しました。座学は得意なんですよ?」
牛乳を慎重に注ぐ天使を横目に、古賀はソファに座ると、自分のコーヒーをぐいっと呷る。
「天使、ねぇ。その見た目じゃまぁ、疑えないけどさ」
「あ、羽、邪魔ですよね。しまいます」
彼女はこともなげにそう言うと、横に大きく広がった羽がみるみる萎んでいった。ソファの端に座っていた古賀は、少しだけ尻をずらす。
「ちょっと長くなるんですけど、お話、聞いていただけますか」
「……なるべく簡潔に頼む」
彼女はうなずくと、話し始めた。
「えっと、私たち天使の仕事は、『ジャシン』を祓うことです」
「……もう少しわかりやすく頼む」
「うーん……この下界には、二つのエネルギーが存在します。正のエネルギーと、負のエネルギーです。人間様でもなんとなくお分かりいただけるのでは」
「思いやりとかが正のエネルギーで、暴力とかが負のエネルギー?」
「そうですが、もう少し広い概念です。犬を見てかわいいと思う感情も正のエネルギーですし、単なるストレスなども負のエネルギーに含みます」
古賀は眉をひそめて、コーヒーを一口すすった。苦みが脳に伝わる。
「……で?」」
「続けますね。現代において人間様は、負のエネルギーを非常に溜め込みやすい状況にあります。もちろん、すべての生き物は正負のエネルギーをともに持ち合わせているものです。しかし、負のエネルギーが過剰に溜まると……時折、生み出されるのです。『ジャシン』が」
「『ジャシン』」
「ええ。よく『魔が差した』というでしょう?『ジャシン』とは、『魔』です。人間の悪意を増幅させ、悪事を働かせる。そうして得た負のエネルギーを喰らい、さらに膨れ上がる。放置すれば、『ジャシン』は際限なく成長し続けてしまう」
「そりゃまずい」
「そうならないように、陰ながら正のエネルギーによって『ジャシン』を祓うのが、天使の仕
事です。……しかし、この辺りを担当していた天使が、『天使狩り』に遭ってしまいまして。交
代要員が私だったのですが、私もまた『天使狩り』に」
「『天使狩り』?」
また未知の単語が出てくる。古賀は残りのコーヒーを飲み干した。
「尋常でない量の負のエネルギーを喰らい続け、宿主と一体化し、天使の存在をも知覚できる
ようになった『ジャシン』のことです。こうなってしまうと、いくら天使といえども、そうそ
う手が付けられません」
「……そんなヤバいのが、この辺にいるってこと?」
「今もいるかどうかは定かではありませんが、私が襲われたのは事実です」
天使は、先ほどまで羽が生えていた背中のあたりを気にするそぶりをした。古賀は一つため息をつく。
「オーケー、大体分かった。あんたも人間のためにいろいろ頑張ってるんだな。……で、いつここを出て行ってくれるんだ?」
天使は、申し訳なさそうに首を振る。
「私の前任は、羽の損傷が浅かったので自力で天界に帰ることができましたが……。私の場合は、思いのほか大怪我なので。治らないことには人間様の前から姿を隠すこともできませんし、天界に帰ることも」
「いつ治る?」
「……帰れるようになるまでに、一年とか」
古賀はソファに背中を預け、がっくりと項垂れる。
「冗談じゃない。今すぐ出て行ってくれ」
「それは……一度は助けてくれたじゃないですか」
「よく考えてみろ。俺ん家の前でそんな格好して倒れてるのを放置しようもんなら、警察は来る、マスコミはぞろぞろ、町中の注目の的だ。仕方なくだよ、仕方なく。その羽しまえるんなら、頭の輪っかも消せるんじゃないか?そしたら、ひとりでも何とか生きていけるだろ」
「そんな殺生な。置いていただけたら、役に立ちますよ。料理とか洗濯とか。お一人暮らしですよね?」
天使の声が大きくなる。隣からどん、と、壁を叩く音が聞こえてきた。彼女の身体がびくっと跳ねる。
「……まぁ、そうだが。そのぶん、食費も二人分だ」
「私、天使なんで食べなくても平気です。ね、お得ですよ。可愛いですよ」
先ほどよりトーンの下がった声で囁きながら、顔をずいっとこちらに近づけてくる。男一人暮らしの部屋では嗅いだことのない、柔軟剤のような柔らかい匂いが鼻腔に触れる。
「やめろやめろ。気色悪い」
俺は大げさに身体ごと顔を遠ざける。
「分かったよ。そんな調子で放り出しても、危ない目に遭いそうで目覚めが悪い」
やった、と無邪気に喜ぶ天使に、毒気が抜かれる。
「……古賀だ。古賀と呼んでくれ」
「古賀様、ですね。よろしくお願いします!」
にこやかに微笑む天使に、肩をすくめて返す。部屋の照明が、ほんの少しだけ明るくなったような気がした。
「そういえば、古賀様は学生さんですか?」
「見ての通り、高校二年生だ」
身長の伸びは止まって久しいが、古賀が年齢より上に見られることはほとんどない。ファストファッションの安い服に、床屋代をケチって自分で切っているざく切りの頭を見れば、洒落た大学生でないことは一目瞭然だからだ。
「今日、平日ですよね。学校は大丈夫なんですか?」
「あー……。創立記念日って、わかるかな」
「……貴重なお休みの日に、ほんとにごめんなさい」
別にいいよ、と返す。どうせゲーセンで時間をつぶすだけだったので、これは本当だ。
「……それで、もうひとつお願いがあるのですが」
「図々しいな。なんだ?」
「さっきも言いましたが、私は『ジャシン』を祓うためにここに来ました。ですが、この身体では……。よかったら、手伝っては」
「断る」
「いや、しかし……私が祓わなければ、『ジャシン』が町中に」
「そっちの面倒ごとに、俺を巻き込まないでくれ。俺は、この部屋を貸してやるだけだ」
「……わかりました。無理を言ってごめんなさい」
悲しそうに目を伏せる天使に、まったく心を動かされないわけではない。だが、気に食わなかった。人間の悪意の元凶が、「ジャシン」とかいうよくわからないもので、それを祓えば万事解決、なんて都合のいい考えが。
「それじゃ、そういうことで。もう夕飯の時間だ」
「あ、何か作りますよ」
「食材が何もねぇよ。普段これしか食ってないし」
キッチンの棚の、カップラーメンの山からひとつ取り出す。
「……明日、お買い物行ってきますね。ちゃんと作った方が安上がりですよ」
天使が、呆れたように微笑んだ。




