第26話
「ごめんね、中で待たせてもらって」
「気にしないでください。もう少しで、古賀くんも帰ってくると思います」
古賀のただならぬ様子を見て、急ピッチで不動産屋から話を聞いてきたという店長が、散らかった部屋をしげしげと眺めるのにはらはらしながら、天羽は何となく気まずさを覚える。
「……コーヒーでも淹れましょうか」
「あ、僕にやらせて。インスタントでも、淹れ方で味が全然変わるから」
彼は台所に立ち、鼻歌交じりにコップを取り出すと、お湯を沸かし始める。しばらくして沸騰したお湯を。火を止めたまましばらく見つめた後、粉末をカップの中に入れて湯を注ぎ、口をつける。
「……うーん、失敗。もうちょっとお湯を冷まさないと駄目なんだよね」
彼は苦笑いすると、コップを持ってテーブルに戻った。もうひと口飲んで、やはり不服そうな顔をする。
「いつもこうなんだ。味にはこだわりたい、最高の状態で味わいたいと思うんだけど、どうしても、あとちょっとが待てないんだよね」
「……はぁ」
独特のペースで話す人だな、と天羽は思った。書店で働いている時は優しい上司という印象だったけど、こうして二人きりになってみると、ゆっくり静かに話しているはずなのに、言葉のどこかに興奮を感じる。
彼は時計を見て、何かを考えるように俯いた。
「んー……。やっぱり、駄目かな。もう待てないや」
「え、何がですか?」
「そもそも、あそこで焦ってやっちゃったのがいけなかったんだよな。家に帰らないのって何度も言ったんだけどね。帰ると、あの子に酷いことを言っちゃうから、帰れないんだって」
「……何の話を」
「ん? 古賀くんのお母さんの話」
事もなげに言う店長に、そこで初めて天羽はそこはかとない恐怖を感じた。彼から「ジャシン」は感じない。感じないのに、なんだか身体が震え出す。
「なんだかよく分かんないよね。息子にあんな名前つけて、たまに帰ったら暴れて、怒鳴って。でも、そんな息子のために昼も夜も働いて、息子に迷惑かからないように借金の利子だけは欠かさず返してんの。ま、それが母親ってものなんだろうけどね」
「……すみません、何が何だか」
「いいのいいの、分かんなくて。天羽さん? には感謝してるんだ。我慢できずに母親だけ先に殺しちゃって、息子の方はどうしようかと思ってたところに、君たちがやってきた。一匹目は加減が分からずに逃がしちゃったけど、君はうまくやれた。僕の思惑通り、見事古賀くんを、絶望の淵から救ってみせた。これで、今度こそ美味しくいただける……と、思ったんだけど」
はっきりと、殺した、と聞こえた。それなのに、「ジャシン」は見えない。異常な状況に、天羽の脳は理解を拒んでいた。ただ、金縛りにあったかのようにその場に縛り付けられていた。
「ごめん、もう待てないよ。先に君をいただいて、君の亡骸を見て古賀くんがどういう反応をするか、楽しむことにする。悔しいけど、そう決めた」
「あの、いったい何を……」
「さっきからそればっかりだね。……ま、要するに、こういうことだよ」
刹那、彼の全身から黒い霧が一斉に噴き出す。
あっという間に部屋中が真っ黒に染まり、その闇の中で、歪な二つの眼光だけがゆらめいている。身体中に泥のように纏わりつく「ジャシン」と、びりびりと痺れるほどの強烈な威圧感に、天羽は嘔気を覚えた。
「……これは」
完全に、「ジャシン」と一体化している。というより、「ジャシン」そのものといっていい。
それも、ここが密室でなかったら、きっと町中を覆いつくすほどの。
――確かに「天使狩り」ともなれば、「ジャシン」が表に出ないように隠しておくことも不可能ではありません。でも、人を殺すくらいのとても凶悪な罪を何件も犯さないと、「ジャシン」がそんなに成長することはないんです。
何件、どころの話じゃない。これほど大きく育つまでに、いったいいくつの命が。
「普段自分の子供をさんざん痛めつけてるはずの母親が、僕の前ではどうしてか、子供を必死で庇うんだ。それで痛めつけられてるはずの子供も、ママを殺さないでって、泣いて懇願するんだぜ。僕はね、その様を見るのが滑稽で、楽しくて楽しくてしょうがないんだ」
ゆらめく二つの眼が、三日月みたいに細くなる。
「君と古賀くんも、似たようなもんじゃないか。こんなクソみたいな世界を作った天使さまを、古賀くんは何故か愛してしまっている。君の亡骸を見た時、彼はいったいどんな顔をするんだろうね」
あぁ楽しみだ、と笑う「ジャシン」に合わせて、闇が天羽の身体を舐るように揺れる。こらえられず、天羽は闇の中のテーブルに身体を突っ伏してしまう。
「いいね。治りかけのその羽ごと、背中からぐさりと刺してあげよう。大丈夫、古賀くんも死ねば、この世界に悲しむ人はもう誰もいない」
駄目だ。
古賀様、来てはいけない。
こんな、こんな怪物に出会ってしまったら。
「痛いよ。泣いたり叫んだりしてもいいから。もう、この町にいるつもりないし」
彼が何をしているのか、まるで分からない。ただ、自分の命がここで終わるということだけは、はっきりと分かった。
これが、天使が決して抱いてはいけない願いを抱いてしまったことの報いだとするなら、天羽は受け入れられる。でも、これは、天罰なんかじゃない。古賀様は何も悪くない。こんな世界で、必死に生きてきたのに。皆に傷つけられても、誰も傷つけようとしなかったのに。
「天羽!」
「古賀様、だめ!」
玄関の扉が勢いよく開き、黒い霧が外へ殺到する。
「ベストタイミングだ、古賀くん! ちょうど今から君の愛する天使をこの手で殺すところだ、しかと見ていてくれ!」
刃物が振り下ろされる音がする。直後に、ぐちゅ、と、肉に突き刺さる音。
それなのに、痛みがいつまで経ってもやって来ない。代わりに背中に感じるのは、ずっしりとした、温かい重みだけ。
「古賀様……!?」
「……なるほど、そう来たか! 古賀くんが天使を庇うとは、予想外だよ」
ぐう、と弱々しいう呻き声が、耳の近くから聞こえる。古賀が天羽の背中の上から覆いかぶさるようにして、天羽を守ったのだとわかった。
「そんな、どうして!」
「……なんでだろうな。自分ばっかりで、他人のことなんかこれっぽっちも考えたことなかったのに」
ぐちゅぐちゅ、と音がして、古賀が呻く。店長の皮を被った「ジャシン」が、古賀の背中からナイフを抜こうとしているのだ。
「誰かさんが、他人のこと気にする余裕をくれたからさ。俺、好きになっちまったよ」
言った直後に、古賀は声にならない声を発する。天羽は涙をぼろぼろこぼしながら、悲鳴に近い声で逃げて、と訴えるが、どうやっても単なる絶叫になってしまう。
「抜けたよ。お話の途中で悪いけど、とどめを刺していいかい」
このままじゃ、みんな死ぬ。古賀様のことも、誰も救えずに、殺されてしまう。私のせいで、みんな――。
「……古賀様」
「ん?」
「私も、古賀様のことが、大好きです。できるなら、ずっと一緒にいたい」
「……そうか」
だから、もう一度だけ。
「力を、貸してください」
天羽は、ぶらんと垂れ下がった古賀の手を、包み込むようにそっと握った。
その瞬間、眩い閃光が闇を払うように広がっていく。
「何だと!?」
溢れる光の中で、古賀の手を握ったまま、天羽は立ち上がった。散らかった部屋、古賀が母親の帰りを待ち続けた部屋の中で、全身にわずかな黒いもやを纏った花峰京の姿がはっきりと見える。
「天羽、お前、その羽……!」
言われてみれば、背中の羽は完全に治癒していた。むしろ、以前よりも大きく広がっている。
「古賀様。この手、一生離さないでいてくれますか」
「……もちろん」
「自分でもよくわからないですけど、それなら……古賀様が手を握っていてくれるなら、私、何でもできる気がするんです」
身体中を温かいものが駆け巡っていくのを感じる。それを光にして、悶える「ジャシン」に向ける。
「なんだ……この、圧倒的な正のエネルギーは!」
「ごめんなさい。ここまで育ってしまう前に、誰かが祓わなければならなかった。今更祓ったところで、いくつもの命を奪った罪は消えません」
それでも。
これから先、世界中の誰も不幸にならないように。
「『ジャシン』、滅せよ」
光が、もやを包み込んで。
一瞬のうちに、消し去った。




