第24話
部屋に入り、天羽が落ち着くのをじっくり待って、古賀は恐る恐る訊ねた。
「『異常』って……。何かの間違いじゃないのか?」
「……いいえ。間違えるはずがない。あんなの、今までここで見たことがありません」
「でも、ずっと壁一枚挟んだ隣で生活してきたんだぞ。今まで気づかないなんてこと」
天羽は脂汗をかきながら、ゆっくりと首を横に振った。
「私たち天使は、ジャシンの気配を黒いもやとして視覚的に感知します。だから、壁が一枚隔たっているだけで、全く感じ取れなくなる。もしかしたら、扉の隙間などから漏れ出ていたかもしれませんが、不覚でした」
「……あいつが、何したっていうんだ」
「あの『ジャシン』の強さは、はっきり言って……まず間違いなく、人を殺めている。あるいは、殺めようとしている者のソレです」
「なっ……」
人殺し。その言葉を聞くと、嫌が応にも思い出されることがある。今古賀たちが住んでいるこの部屋では、三年半前に、親子三人が殺された。日頃は至って平和な円月町で起きた、数少ない殺人事件。
「あいつは、俺たちが引っ越してくる時には、もう隣に住んでた。いつから居るのか、どんな奴なのか、俺は知らない」
壁が厚く、隣人の生活音などほとんど響いてこないこのアパートで、しょっちゅう壁を叩く暴力性。まさか、と一笑に付すには、無視できない要素が多すぎる。
「もしかしたら。前任や私を襲った『天使狩り』も、あの人かもしれません」
『天使狩り』。異常な負のエネルギーを喰らい、天使を襲う『ジャシン』。三人を殺した殺人鬼なら、条件は満たしうる。そして、天羽がどうして古賀の部屋の前で倒れていたのか、という疑問も、一応は説明できる。
「……だとしたら、天羽、危ないんじゃ」
つい先ほど、天羽は隣人に姿を見られた。仕留め損なった天使が、隣にいると知られたら。古賀の背筋に寒気が走る。
「大丈夫です。前回私がやられたのは、油断していたからで。相手が誰かわかっていれば、そうそうやられはしません。それに、傷ももう、ほとんど治っていますし」
天羽はそう笑ったが、古賀の目には痛々しい空元気にしか映らなかった。
古賀は夕飯を無言で食べ終え、押し黙ったまま床についてしまった。天羽はベッドに座って、震える自分の身体を抱きしめる。
「……どうして、嘘をつくの」
赤毛の天使が、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「『天使狩り』は、熟練の天使もたくさん被害に遭ってる。あんたの前任だって、油断しててやられたわけじゃない。……それに、その羽の傷。まだ全然癒えてないじゃない」
天羽は質問には答えず、優しく背中を撫でる。
「もういいでしょ。危険を冒してまで、これ以上この世界にとどまる理由なんてないわ。どうせ、もうすぐ帰らなきゃいけないことに変わりはないんだから」
「……わかってる。わかってるけど、もうちょっとだけ」
「どうして。悪いけど、私にはあんたの気持ちがわからない」
赤毛の天使は呆れたように目を伏せると、一枚の紙を取り出す。
「本当は天界で直接聞くべきなんだけど、特別に教えてあげる。ここに来る直前に受けた試験、あなただけ結果をまだ受け取ってなかったでしょう? おめでとう、合格よ。あんたには、大天使になれる素質がある」
「……私が」
「ルール違反。もしかしたら、命を失うかもしれない。あんたはこんなところで、将来を棒に振るべきじゃない。早く帰って、傷を治して、もっとたくさんの人間を救うべきよ」
そうかもしれない。この世の秩序を円滑に維持していくためには、無茶なことはせず、自分に与えられた役割を全うするべきなんだろう。
でも、そうやって維持されてきた秩序から、古賀は取りこぼされた。
「私は、古賀様みたいな人を助ける天使になりたい。だから、まだ帰れない」
「……あんた、まさか」
「先のことは、まだ決めてない。でも、今、古賀様を置いて帰るわけにはいかない」
赤毛の天使は、困った顔でたじろいだ。
「ごめんね。ここは、引いてほしい。あなたまで危険な目に遭わせるわけにはいかない」
「……あなたを連れて帰れないなら、私は先生に、あなたがしてることを報告しなくちゃいけない」
「全部、話して構いません」
彼女は目を伏せ、呻きながら考え込むと、やがて諦めたように息を吐いた。
「……わかった。できるだけ、引き留めてみる」
天羽は安堵して、彼女に深々と頭を下げた。
「ありがとう」
「……無茶して死んだら、元も子もないんだからね」
わかってる、と天羽が微笑むと、赤毛の天使は呆れたように笑って、すうっと姿を消した。ソファの上では、古賀が眉間に皴を寄せながら、息苦しそうに眠っている。天羽はそっと彼の頭を撫でると、布団にもぐり込んだ。
「古賀くんの部屋の隣かぁ。あの物件は僕が管理してる訳じゃないから、わからないなぁ」
店長は首を傾げた。隣人について何か知っていないかと、しばらくバイトを休む連絡のついでに聞いてみたが、有力な情報は持っていないようだ。
「でも、どうして急に。その件と、バイトを休む件とが関係あるの?」
「……あるというか、なんというか。詳しくは説明できないんですけど、でも、とても大事なことなんです」
そっか、と店長はあっさりした口調で言った。
「今度不動産屋さんに会った時、聞いてみるけど……。例の事件以来、皆あのアパートには関わりたくなさそうだったから、どうかな」
「すみません。知らないなら、それでいいんです」
古賀はバンディを後にすると、家に戻り、スマートフォンで三年半前に起きた事件について当時の新聞記事などを調べる。犯人の捕まっていない捜査中の事件なこともあり、定期的に続報がアップされているが、詳しいことはあまり分かっていない。
被害者は母親と未就学の小さい娘が二人。母親はシングルマザーで、普段は夜の仕事をしていたらしい。事件当日は、記録的な大雨で仕事が急にキャンセルになり、久しぶりに娘たちと夕食を食べていたところだったという。
現場の部屋の壁が厚く、雨音も合わさって物音が隣人に聞こえづらかったこと、被害者の友人関係が希薄で、急に連絡が取れなくなってもそれほど不自然ではない職種だったこともあり、事件の発覚は大きく遅れ、目撃証言も出ないまま、今に至る。
「……古賀様、お昼は」
「後で食べる」
天羽への返事がぞんざいになるのは、探偵ごっこに夢中になっているから、ではない。
天羽と話すのが、怖かった。もともと残り少ない時間が、迫る危険によってさらに短くなって、あと一言でも彼女と言葉を交わした瞬間に尽きてしまうような気がした。
そんなものは荒唐無稽な妄想で、どれだけ古賀が天羽を避けても、別れの瞬間は刻一刻と迫っているのは分かっている。それでも、逃げるように古賀は画面を見つめた。
二人の間の静寂を破るように、二度がちゃ、という音がした。普段なら気にも留めないが、隣の部屋の扉が開き、閉まる音、に聞こえた。
「古賀様?」
古賀はコートを羽織り、鞄を肩に掛ける。
「天羽は部屋にいろよ」
このまま家に籠っていても、何も解決しない。調べなければいけないのは過去の事件ではなく、あの隣人自身だ。
古賀は物音を立てずにそっと扉を開け、階下の道を歩く男を視界に捉えた。




