第21話
十二月。天羽が玄関前で倒れているのを見つけてから、三ヶ月ほどが経とうとしていた。
「オキニ君、それ取って」
「了解っす」
バンディでは、「クリスマス・ミステリー・フェア」と称して、月初めから店内を装飾し、クリスマスや冬をテーマにしたミステリー小説を特集する予定で、古賀たちは閉店後にその準備をしていた。
「それにしても、何でクリスマスにミステリー?」
「さあ。店長の発案なんで」
朝野から手渡されたPOPを平積みされた本の奥に置きながら古賀は生返事する。最近の古賀の頭の中は、専ら天羽のことで占有されていた。
この三ヶ月の間に、古賀を取り巻く環境は一変した。
感情が何度もぐちゃぐちゃにかき乱されて、奥底の熱いものを掘り返されて、これまでの自分とは全く異なる存在になってしまったのではないか、と、そう思うことすらあった。
けれど、天羽はいつか、いなくなる。
最初に出会ったあの日から、古賀は天羽の翼を見ていない。治りは順調か、もう治っているのか、それも聞けていない。聞いたらその瞬間、天羽が空の彼方に帰ってしまうような気がして。
古賀の天羽に対する想いは、日に日に強まっていった。この想いをどうするべきか。古賀は未だ、結論を出せていない。
「なにか悩み事?」
朝野が顔を覗き込んでくる。びく、と身体を仰け反らせると、彼女は愉快そうに笑った。何しろ初めてのことで、古賀一人で抱え込むには荷が重いことは薄々わかっている。とはいえ、恋愛にトラウマを抱えた彼女に相談するわけにはいかない。適当にはぐらかして、古賀は作業に戻る。
だがそうなると、もはや古賀は、たった一人しか頼るべき相手を知らない。ただあの糸目がぐにゃりと歪み、興味深そうに微笑む顔を想像すると、どうにも、この手のことで彼の力を借りるのは気が引けてしまうのだった。
「……ん? 僕に何か用かな」
仕事が終わり、朝野が帰るのを見計らって、古賀は店長のところへ向かった。何を考えているかまるで分からない不気味な笑顔を見ると、古賀はどうにも緊張してしまう。
「ちょっと、相談が」
「何だい? 時給は、ちょっとこれ以上は」
そうじゃないか、と店長は笑う。つくづく人の調子を狂わせるのが上手い。
「……俺、どうやら、恋してるみたいなんです」
放っておくと店長がまた冗談を言ってきそうだったから、自然と言葉にすることができた。そこまでが店長の思惑だったような、そんな気さえしてしまう。
「そりゃあ、おめでとう。恋愛相談なんて久しぶりだから、ぜひ乗ってあげたいところだけどね。もう三十五だし、ちょっと僕じゃ力不足かも……」
「店長」
古賀は再び店長の言葉を遮る。眼を閉じ、息を吸う。
ずっと、眼を背けてきた。でも、いつか来る別れの時に、後悔しないようにするためには、腹を括るしかない。
「俺に、母のことを教えてください。そうじゃないと、俺は前に進めない」
店長の顔を見るとどうしても気後れしてしまうのは、変化の乏しい表情のせいだけじゃない。友人だという彼の口から、古賀の知らない母親の話を聞くのが怖かった。
「そうか……。そうだね。君にとっては、大事な話だ。春香さんの血が、君にも流れてるんだから」
店長は表情を変えないまま、バックヤードの椅子に腰かけた。古賀も隣の椅子に尻を乗せる。
「……春香さん、君のお母さんは、スナックで働いててね。僕は、その客の一人だった。彼女自身、いろいろ問題のある家庭に生まれて苦労したみたいだけど、気丈で快活な女性だった。少なくとも、僕にはそう見えたよ」
店長は、古賀の顔の向こうの、遠くの壁を見つめていた。年齢不詳の彼の皮膚に、ほんの少しだけ皴が入る。
「僕は、彼女が突然店にも、君の前にも姿を現さなくなった一年半前まで、ずっとただの客の一人だった。恋愛関係になったことも、肉体関係を持ったこともない。君の父親がどこの誰かも、本当に知らないんだ。僕が店に通い始めた時には、君はもう小学生だった。一人でも立派に育てるんだ、って笑ってたよ」
「……育てられなかったくせに」
ぼそりと呟く。店長は困ったように鼻から息を吐いたが、何も言わなかった。
「とにかく、彼女は子供を、君を育てながらスナックで働いていた。名前に関しては……当時も、客の皆で止めたらしいんだけどね。これくらいぶっ飛んだ名前の方が、大物になるんだって聞かなかったみたいだよ。君を産んだ時はまだ二十一とか、そんな歳だった。若すぎたんだ」
店長はそう言うが、二十一歳は立派な成人だ。中卒で、十五から働いて六年の社会経験があってなお、息子に「出日留」なんて名前をつけておいて、若かったと言い訳をするのはあまりにも無理筋に思えた。
「言いたいことは分かるよ。彼女の君に対する態度や行動が、母親として十分だった、だなんて、もちろん思ってない。でも、僕の目には、彼女がそんなに悪い人には見えなかった。酔いが回るといつもいつも、君の話ばかりしているような、そんな女性だったよ。だから、あの家を紹介したんだ」
店長が真面目に話すのを見るのは新鮮だ、だなんて、どうでもいいことを考えてしまう。彼は嘘をついてる訳でも、過剰に庇いだてしているつもりでもないのだろう。彼にとって、古賀の母親——古賀春香という女性は、そういう人物像だ、というだけの話だ。
でも、古賀にとっては違う。
「だから、何が言いたいかというとね。……少なくとも、春香さんは、春香さんなりに、君のことを愛してはいたと思う。だから、君が春香さんと血が繋がってるから、誰かをうまく愛せない、なんてことは、ないんじゃないかな」
結論ありきの論理だ、と思った。愛していたなら、まだ高校生の息子を放っておいて、一年半もどこかに行ったりするものか。
彼女は、息子よりも大切なものを、愛を注げるものを見つけて、そちらを選んだのだろう。
何をどう言い換えたとて、その事実は厳然と古賀の前に立ちはだかっている。
その日の夜、夢を見た。
古賀がまだ小学生だったころ、母親の誕生日に何かプレゼントをあげたくて。でもお小遣いなんて貰えなかったから、自販機の下を漁ったり、友達の宿題を代わりにやったりして集めた百五円で、百均の、おもちゃみたいな赤い石がついた金色の指輪を買った。いつも機嫌が悪い母親が、あれを渡した時だけは、泣きそうになりながら笑っていた。
「ママ。プレゼント」
「ええっ。ほんとに? ませた子だねぇ。……ありがとう。絶対、外さないよ。約束」
そんな約束、しなくてよかった。ずっと一緒にいるって、もう黙って家を空けないって、約束するならそう言ってほしかった。
それでも嬉しくて、小指を差し出した。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。
そういえば、母親は古賀に、嘘をついたことはなかったな、と思った。授業参観も、運動会も、行くと言ったのに来なかったことは一度もなかった。来なかったときは、古賀がどんなにお願いしても、終わった後でなじっても、不機嫌な顔で黙っていた、というだけの話だが。
そこで、目が覚めた。
なんで急に、こんなことを思い出したのだろう。水を飲みながら考えていると、ある仮説に行き着く。
夢とは、過去の記憶の再構成だという。だとしたら、古賀は今、母親の記憶を、再構成しているのではないか。古賀を捨てた最低な母親から、本当は古賀のことを愛していた、薄幸の母親に。
天羽に対する自分の気持ちを、正当化するために。
くだらない、と古賀はソファに戻る。ベッドの上では、天羽がすやすやと寝息を立てている。
古賀の希望で、部屋は今でも一定の雑然さを残している。いつ母親が帰ってきてもいいように。
「俺は、あの人をどうしたいんだ……」
それは、覚醒を拒むように痛む頭で考えるには、あまりに難問だった。




