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トランキライザー莉理香 最初の事件 ー亜空間の檻ー  作者: Futahiro Tada
第五章:回廊の心臓

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三 崩壊の鼓動

三 崩壊の鼓動


 光が弾けた瞬間、虚無の回廊は悲鳴を上げた。

 黒と赤に染まっていた壁がひび割れ、吊るされていた影たちが一斉に叫び声を上げる。

 その叫びは苦悶ではなく、歓喜にも似ていた。返却の鎖から解かれた者たちの最期の声。

 冴子は両耳を塞ぎ、床に膝をついた。

「やだ…やだ…壊れる…!」

 本郷は彼女の肩を掴み、必死に支える。

「落ち着け!ここはもう限界だ、踏みとどまれ!」

 心臓の書が裂け目から光を撒き散らすたび、空洞全体が波打つように揺れた。

 揺れは建物の崩壊ではない。空間そのものが畳まれていく感覚だった。


* * *


 その中心で、莉理香の姿は淡く揺らいでいた。

 白いページに記された名前が、彼女をひと文字ずつ切り離していく。

 輪郭は残っているのに、中身はインクの粒となって空気に溶けていく。

 冴子が泣き叫ぶ。

「いやだ!消えないで!莉理香!」

 莉理香は微笑んだ。冷たさと温かさが同居した笑みだった。

「いいの。これは必然。探偵は事件が終われば去るものよ」

 影山が震える声で問う。

「じゃあ…茉莉香はどうなるんだ?お前が消えたら…」

「彼女は残る。わたしは仮の人格。消えれば、茉莉香が本物としてここに立つ」

 莉理香の言葉が終わると同時に、彼女の身体は光に飲み込まれた。

 残ったのは茉莉香の小さな影だけ。

 彼女は膝をつき、頭を抱え、涙を流していた。


* * *


 心臓の書が苦しげに脈打ち、最後の鼓動を上げた。

 ドクン、ドクン、ドクン―

 その音は次第に速くなり、やがて爆発のような轟音となって空洞全体を満たした。

 壁に吊るされていた影が次々と燃え尽き、黒い灰となって散る。

 鎖は切れ、天井の裂け目から光が溢れ落ちる。

 楡原が顔を上げ、呆然と呟いた。

「これが…崩壊の鼓動…」

 本郷は叫ぶ。

「立て!ここにいたら巻き込まれる!」

 しかし、どこに逃げればいいのか誰も分からなかった。

 出口も入口も消え、あるのは心臓の書が崩壊していく光景だけだった。


* * *


 冴子は泣きじゃくりながら本郷の手を掴む。

「先生…もう無理…死にたくない!」

「大丈夫だ。俺が守る」と、本郷は彼女の背中を支え、必死に周囲を見渡した。

 影山は紙を握りしめ、震える手で地図を描き続けていた。

「空間は折り畳まれている…なら…出口は裏側にあるはずだ…」

 鉛筆が折れそうになりながらも、彼は紙に必死で線を刻む。

 楡原は自分の影を見つめていた。

 半分しか残っていない影が揺れ、床に吸い込まれそうになっている。

「俺…もう消えるのかな…」

 その声には恐怖と諦めが混じっていた。

 花森だけが、相変わらず笑っていた。

「きれいだね。舞台の幕が下りる瞬間みたい」

 誰も彼女を止められなかった。笑みの裏にあるものが、恐怖か狂気か、それとも本物の愉悦なのか、誰にもわからなかった。


* * *


 心臓の書が完全に裂けた瞬間、空洞の床が崩れ落ちた。

 下には底の見えない光の渦。

 その渦は吸い込むでもなく、押し出すでもなく、存在そのものを選別する。

 監査人の影が最後に声を発した。

「審理終了。結果:崩壊。対象:自由判定」

 その言葉を残し、影は渦に吸い込まれて消えた。

 冴子が絶叫した。

「どうすればいいの!?」

 影山が叫ぶ。

「飛び込むしかない! 渦に―!」

 本郷は唇を噛み、冴子を抱き寄せた。

「信じるしかない…!」

 茉莉香は涙で濡れた顔を上げた。

 その瞳には、莉理香が残した光がまだ燃えていた。


* * *


 全員が光の渦を見つめる。

 崩壊の鼓動が最高潮に達し、空間そのものが震える。

 楡原が小さく笑った。

「じゃあ、行こうか…遅延の終わりに」

 影山が叫ぶ。

「行くぞ!」

 本郷が冴子を抱き寄せ、花森は笑いながら両手を広げた。

 茉莉香は最後に一度、虚空を見上げた。

「…ありがとう、莉理香」

 そして五人は同時に光の渦へと飛び込んだ。


* * *


 渦の中は、音も色も区別できなかった。

 すべてが混じり合い、存在が曖昧になり、個と全体の境界が崩れていく。

 冴子の涙は光に変わり、本郷の叫びは鐘の音になった。

 影山の地図は線を離れ、楡原の影は星の破片となった。

 花森の笑い声は、舞台の幕を閉じる音になった。

 茉莉香だけは、心の奥に莉理香の残響を感じていた。

 探偵の声。冷たく、しかし確かに支えてくれる声。

「推理は終わった。あとは、生きろ」

 その言葉を胸に、茉莉香は光の中へと沈んでいった。

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