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トランキライザー莉理香 最初の事件 ー亜空間の檻ー  作者: Futahiro Tada
第五章:回廊の心臓

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二 心臓の書

二 心臓の書


* * *


 空洞の中心に置かれていたのは、巨大な書物だった。

 表紙は革に似ているが、呼吸をしている。膨らみ、しぼみ、まるで人間の胸郭。

 書物は机の上にあるわけではない。地面そのものが表紙になり、彼らはその上に立っている。つまり今、彼らは「本の上でページをめくっている登場人物」だった。

 冴子が息を呑む。

「これ…名簿じゃない。もっと…大きい」

「そう、心臓の書よ」莉理香の目は鋭かった。「返却規則をすべて記した根源の帳簿。ここに名前が載れば、存在ごと飲み込まれる」

 心臓の書は勝手にページをめくる。紙が擦れる音が、血管の鼓動と同じリズムを刻む。

 そして、彼らの名前が浮かび上がった。

《類巣茉莉香(在留)/莉理香(仮人格扱い)》

《本郷(在留)/夜間巡回責任者(返却済)》

《影山(在留)/図(返却済)》

《楡原(在留)/影(返却済)》

《花森(在留)》

 黒いインクが脈打ち、今まさに「次」の対象を選ぼうとしていた。


* * *


 背後で監査人の影が揺れる。

「審理開始。対象:人間五名。人格一名。状態:仮在留」

 声が響くたび、壁の影がざわめいた。吊るされた影たちが呻き声を上げ、拍手のような音を立てる。

 本郷が拳を握る。

「やめろ!子どもを実験材料にするなんて…!」

「反論、記録」監査人は機械のように答える。「だが、記録は判決を覆さない」

 影山が口を開いた。

「なら…俺たちが書き換える」

「書き換えは違反」と、監査人が即答する。

「違反じゃない。俺たちはここに在留している。在留者には発言権がある。それが規則に書かれていたはずだ!」

 書物が脈打ち、ページに余白が広がる。そこに細い文字が浮かび上がった。

《在留者発言権:心臓の書に対して証言可能。ただし合議制により成立》

 莉理香が鋭く頷く。

「証言で書き換えるのよ。五人のいまを賭けて」


* * *


 最初に立ったのは冴子だった。

 震える声で、それでも真っ直ぐに言葉を紡ぐ。

「私は…友達を失いたくない。飛鳥も六郎も大沼も、もう返却されてしまった。これ以上は嫌。私は返却の規則に従わない。わたしは、ここに生きる!」

 ページに小さな線が刻まれる。《拒否》の文字。

 次に楡原。

「俺は…自分の影を返した。だから半分はもういない。でも、残りの半分はここにいる。俺の言葉はここに残る。返却に抗って、遅延をもっと伸ばす!」

 ページが脈打ち、《遅延》の印が追加された。

 影山は紙を広げ、震える手で地図を描く。

「この回廊は二重に重なっている。現実と虚無の地図を重ねたら、齟齬が生じた。齟齬はルールの抜け穴だ。俺はそれを記録する!」

 地図の線がページに吸い込まれ、《齟齬》の文字が黒く滲んだ。

 本郷は唇を噛み、叫んだ。

「俺は教師だ!役は返したが、子どもたちを守る責任は返していない!返却されるのは役割だけで十分だ!人間は返させない!」

《責任在留》の四文字が刻まれた。

 花森は笑いながら前に出る。

「私は楽しい。恐怖も返却も、全部物語だと思える。だから、最後まで見届けたい。この物語の結末を。だから、私はここにいる!」

 ページに《観客》の一字が浮かんだ。

 そして最後に、莉理香。

「私は類巣茉莉香の中に生まれた探偵人格。存在自体が仮の貸し出し。けれど、私がいる限り、この虚無は完成できない。私はあなたたちのエラー。だから、私は証言する―返却そのものが無効である!」

 書物が大きく震えた。血のようなインクが飛び散り、壁に染み広がる。


* * *


 空洞全体が揺れた。

 心臓の書が呻き、吊るされた影たちが一斉に悲鳴を上げる。

 監査人の影が揺れ、声を上げる。

「証言記録。合議制成立。…判定保留」

 冴子が息を呑む。

「保留って…どういうこと?」

「つまり」と、莉理香は冷たく言う。「まだ決着していない。心臓は動揺している。でも、返却を止めるにはもう一押し必要」

 本郷が拳を握る。

「その一押しってのは…?」

 影山が名簿を見て、目を細めた。

「最後のページ…まだ空いてる。そこに、誰かの名を刻ませる必要がある」

 楡原が顔を上げた。

「じゃあ、俺が―」

「違う」と、莉理香が遮る。「最後に刻むのはエラーでなければならない。つまり…私」

 沈黙が落ちた。

 冴子が涙声で叫ぶ。

「ダメだよ!消えちゃうじゃない!」

「消えなきゃ壊せない」と、莉理香は微笑んだ。「わたしは仮の存在。消えることで、心臓の書を上書きできる」


* * *


 監査人の声が響いた。

「選択の時。記録を求む」

 心臓の書が大きく開き、最後のページが彼らの前に現れる。

 余白は白く光り、誰かの名前を待っていた。

 莉理香が一歩踏み出す。

「このページにトランキライザー莉理香と刻まれれば、私は返却される。でも同時に、この規則そのものが矛盾を起こす。返却規則を、返却で無効にする」

 本郷が叫ぶ。

「待て!お前は茉莉香の中にいるんだろ!消えたら茉莉香はどうなる!」

「大丈夫」莉理香は静かに答える。「彼女は強い。私が消えても、彼女は生き残る」

 冴子が涙をこぼし、首を振った。

「そんなの…そんなの嫌だ…!」

 影山は唇を噛みしめた。

「でも…それしかない」

 花森が笑った。

「いいじゃん。探偵が最後に消える。完璧な物語の結末だよ」

 莉理香は笑った。その笑みは冷たくも暖かくもなく、ただ「真実」を照らす光のようだった。

 そして彼女は最後のページに指を置いた。


* * *


 指先が白い余白に触れた瞬間、黒いインクが滲み出す。

 その文字は―

《トランキライザー莉理香 返却》

 同時に、空洞全体が大きく揺れた。

 吊られていた影たちが叫び声を上げ、心臓の書が苦しげに脈打つ。

 規則そのものが自壊を始めたのだ。

 莉理香の姿が淡く揺らぎ始める。

「これでいい…これで、返却の連鎖は止まる…」

 冴子が叫んだ。

「莉理香ぁぁぁぁ!!」

 本郷が拳を握り、唇を噛み切った。

 楡原が膝をつき、影山が顔を覆い、花森がただ笑って見ていた。

 光が弾け、心臓の書が裂ける。

 裂け目から溢れ出す光が、虚無の回廊全体を包み込んだ。

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