一 虚無への下降
一 虚無への下降
翌朝という概念は、ここでは機能していなかった。
窓の外はまだ暗く、嵐が去ったはずの空は黒と灰の渦に覆われ、時間を測る基準は完全に崩壊していた。時計の針だけが律儀に動いていたが、それも「時」ではなく「回廊の鼓動」に合わせて回っている。
集会室だった部屋に沈黙が満ちていた。
机の上には名簿と交換券の切れ端と、赤黒く染まった回覧印。そしてその横に、昨夜落ちてきた通知文。
《次回審理:虚無の回廊における実地調査》
つまり、彼らはこの先に進まなければならない。進んで、自分自身を証拠として差し出さなければならない。
冴子が震える声で呟いた。
「…本当に行くの?」
「行かない選択肢はない」莉理香の声は冷たかった。「ここで留まれば、返却は自動執行される」
本郷は重い息を吐いた。
「行こう。俺はもう役を返した。だからこそ、まだ教師でいられる。子どもたちの前で黙って見ていることはできない」
影山は唇を噛んだ。
「俺の地図が狙われた。つまり、俺の頭の中そのものが毒だ。なら、その毒を持って、心臓部に突きつけるしかない」
楡原は影を気にするように床を見た。
「影を返した俺は、半分はもう向こうにいる。でも…残りの半分がここにいるなら、それを使って戦う」
花森は無邪気に笑った。
「面白そうじゃない。やっと舞台のラストシーンだもん。私は観客でも演者でも、どっちでも楽しめる」
莉理香は全員を見渡し、最後に小さく頷いた。
「いいわ。じゃあ、回廊の心臓へ行く」
* * *
廊下に出ると、壁が呼吸していた。
薄い壁紙が膨らみ、しぼみ、吐息のたびに灰色の粉が舞った。
粉は光を吸い込み、視界を曖昧にする。
「気を抜くな。これからの道は空間の胃袋だ。歩けば歩くほど、嚙まれやすくなる」莉理香の警告に、皆はうなずいた。
廊下の床は二重に割れていた。
片方は現実の木の床、もう片方は透けるガラスの床。足をどちらに置くかで、時間の流れが変わる。
冴子が怖々と尋ねた。
「…どっちに乗ればいいの?」
「交互に」莉理香が即答した。「同じ側に寄りすぎると、遅延が噛み合わずに崩れる」
一歩ごとに左右を入れ替える。現実と虚無を交互に踏む。
その歩みは、まるで舞台のステップのようにぎこちなく、しかしリズムを持っていた。
* * *
やがて廊下は広がり、巨大な空洞へと続いた。
そこはまるで地下聖堂のようだった。
柱はなく、代わりに吊るされた鎖が天井から垂れ下がり、無数の影を吊っている。
影はゆらゆらと揺れ、時折呻き声を漏らす。
「…人の影だ」と、影山が息を呑む。
「返却された者たちの影」と、莉理香が淡々と言う。「ここに吊るされ、少しずつ削がれ、最後は無になる」
冴子が顔を覆った。
「飛鳥も…六郎も…ここにいるの?」
「名前を言うな」と、莉理香が冷たく遮った。「呼べば、影が応える。応えれば、向こうに引き込まれる」
冴子は唇を噛み、涙を堪えた。
中央には巨大な鼓動の塊があった。
黒と赤が混じった有機的な物体が、脈打つたびに空間全体を震わせる。
それこそが、虚無の回廊の心臓だった。
* * *
鼓動に合わせて、監査人の声が響いた。
「調査開始。対象、発言せよ」
声は全員の頭に直接響く。耳ではなく、脳に刻みつけられる声。
影山が鉛筆を握りしめ、立ち上がった。
「俺は…俺は、地図を描いた。空間が二重に重なっていることを証明した。もしそれが虚無の設計だというなら、それを暴くのが俺の役目だ」
監査人は答えない。心臓が一度、大きく鳴った。
黒い液体が滴り、床に染み広がる。
本郷が続いた。
「俺は教師だ。返却の役を渡した。だが、俺はまだ子どもを守る責任を持っている。俺を消すなら、この責任ごと持って行け。それができるならな!」
心臓が再び鳴った。今度は部屋の空気そのものが震え、冴子が膝をつく。
冴子は震えながらも叫んだ。
「私は…私は生きたい!でも、誰かを犠牲にしては生きたくない!それが…私の証言!」
花森が微笑む。
「私は…楽しいよ。だって、これは物語だもん。返却されても残っても、最後に拍手があればいい」
その無邪気な言葉に、空気がざわりと揺れた。
監査人は、彼女の影を一瞬だけ撫でるように照らした。
* * *
最後に、莉理香が前へ出た。
「わたしは類巣茉莉香の人格の一つ、トランキライザー莉理香。わたしの存在は、本来貸し出された仮の探偵にすぎない。だが、わたしがいる限り、この虚無は完全に完成しない。わたしこそが、あなたたちのエラー」
心臓が大きく脈打った。
壁の影が一斉に震え、吊られている無数の影たちが呻き声を上げる。
それは悲鳴でもあり、歓声でもあった。
「返却規則を暴く」莉理香の声は鋭かった。「人ではなく、役だけを返す。名ではなく、癖だけを返す。魂ではなく、影だけを返す。そうして残った核こそ、虚無の心臓を壊す鍵になる!」
冴子、本郷、影山、楡原、そして花森―全員が息を呑んだ。
その瞬間、心臓が大きく跳ね、床が裂け、空洞全体が揺れ動く。
* * *
床が沈み、彼らは心臓の真下へと落ちていった。
落下ではない。下降だった。
重力がなく、ただ空間そのものに吸い込まれていく感覚。
暗闇の中、莉理香の声だけが響く。
「ここから先が最後よ。回廊の心臓―返却の正体がある場所」
そして全員の足が、柔らかな床に触れた。
そこは黒い血管に覆われた空洞で、中心には巨大な名簿のような書物が脈打っていた。
その書物が、ゆっくりとページを開いた。
そこに記されていたのは―彼ら自身の未来。




