五 監査人の影
五 監査人の影
コン、コン。
その二度のノックは、規律の音だった。暴風も影も、返却窓口の唸りも、その瞬間だけ沈黙した。
集会室だった部屋の扉は、誰も手をかけていないのに、きちんと蝶番の順序を守って開いた。
そこに立っていたのは、人間の形をしている何かだった。
背丈は本郷より少し高く、顔は書類の余白みたいに白く、輪郭は修正液で塗りつぶしたみたいに平ら。
目鼻の位置は曖昧で、黒い点が並んでいるようにも、ただの汚れにも見える。
着ているのは教師のスーツに似た衣服。ただし、縫い目が横書きされていた。
誰も声を出せなかった。
空気が硬直するなかで、ただ一人、莉理香が口を開く。
「…やっぱり来たわね。監査人」
* * *
その存在はゆっくり部屋に入る。
歩くたび、床の板がページめくりの音を立てた。
机の上に置かれた名簿が勝手に開き、黒い行が震え始める。
「対象確認」
声は、空洞を通すような無機質な音だった。
《夜間巡回責任者(項)》返却済。
《影山(図)》返却済。
《楡原(影)》返却済。
そしてページの余白に、新たな行が書き込まれる。
《監査人 臨時在留》
「…在留?」と、影山が呻く。
「こいつ自体が、こっちに入ったってこと」と、莉理香が冷ややかに言う。
監査人は頷きもしない。ただ机の横に立ち、机上の交換券や回覧印を無遠慮に触った。紙がきしみ、印が赤黒く染まる。
* * *
本郷が歯を食いしばり、一歩前へ。
「俺は教師だ。お前が何者だろうと、生徒を返却させはしない」
監査人はゆっくりと顔を向ける。その顔には、表情という概念が存在しなかった。ただ正解か不正解かの枠だけが貼りついている。
「反論:不服申立て受理」
声が響くと同時に、本郷の肩が重く沈む。言葉が身体に鉛を載せたみたいに。
冴子が震えながら叫ぶ。
「やめて!先生に何するの!」
「心配するな」本郷は苦しい笑みを浮かべた。「これは…手続きの一部だ」
しかし、誰もが気づいていた。これは手続きじゃない。裁きだった。
* * *
そのとき、花森がにこにこと監査人に近づいた。
「ねえ、あなた、楽しい?」
誰もが凍りついた。
「やめろ花森!」冴子が叫ぶ。
だが彼女は止まらなかった。
「だって、こんな舞台で演じられるなんて、最高でしょ?返却だの監査だの、全部物語みたいじゃない」
監査人は無言。だが、部屋の影が花森の足元に集まり、彼女の影を舐めるように揺れた。
莉理香が鋭く声を飛ばす。
「離れなさい!それ以上近づけば、あなたが次の対象になる!」
花森は首を傾げ、笑いながら下がった。だがその瞳の奥に、一瞬だけ飲み込まれたい欲望が見えた。
* * *
莉理香は机に手を置き、監査人を真っ直ぐ見据えた。
「…監査人。あなたたちは規則で動く。なら、規則を見せて」
監査人は動かない。
その代わりに、机上の名簿が勝手にページをめくり、最終ページが開かれた。
そこに赤黒い文字が浮かび上がる。
《返却規則:臨時在留は監査人の判断に従う。異議申し立ては合議制により再審可能。》
「合議制…」と、影山が呟く。
「つまり、複数の意思が揃えば抗えるってこと」と、莉理香が解釈する。
本郷が立ち上がる。「なら俺は異議を唱える!」
冴子も続いた。「私も!」
楡原も震えながら声を出した。「…俺もだ!」
花森は、少し遅れて微笑んだ。「じゃあ、私も」
莉理香はゆっくり頷いた。
「五対一。これが合議よ」
* * *
監査人は無言で名簿に触れる。
ページの余白が揺らぎ、新しい文字が滲む。
《返却反転:一時停止/再審》
その瞬間、部屋全体の影がざわめき、虚無の回廊が遠のいた。
返却窓口の口が奥へ押し戻され、部屋は一瞬だけただの教室のように戻った。
誰もが息を吐いた。
本郷は机に手をつき、声を絞る。「…勝てたのか」
莉理香は首を横に振る。
「いいえ。これは延長戦。返却は止まったけど、監査人は残った。次は監査そのものが始まる」
監査人はページの上に指を置き、ゆっくりと行をなぞった。
《次回審理:虚無の回廊における実地調査》
影山が呻く。「つまり…俺たち自身が、虚無に出向いて調査されるってことか」
莉理香は冷ややかに笑った。
「そう。私たちが証拠になる。逃げ場はもうない」
* * *
嵐が少しだけ弱まった。
窓の外にはまだ雨が降っているが、雷鳴は遠ざかっている。
だが安心はなかった。むしろ、静けさが恐ろしかった。
冴子が小さな声で問う。
「…どうして私たちなの?どうして、こんなことに巻き込まれるの?」
莉理香は少し黙ってから答えた。
「理由は簡単。ここが返却のための実験場だから。あなたたちは、その被験者」
冴子は涙をこぼした。
本郷は唇を噛んだ。
楡原は影の軽さを抱えながら座り込んだ。
花森は楽しげに天井を眺めていた。
影山は鉛筆を折り、芯の破片を握りしめていた。
莉理香は一人、監査人を見据えていた。
「…ここからが本番。虚無の回廊の心臓部に入る。返却の正体を暴いて、すべてを壊す」
監査人は答えない。ただ、名簿のページに沈黙を残した。
その沈黙が、次の章への扉になっていた。




