四 双重の返却
四 双重の返却
名簿は紙でできているはずなのに、心臓みたいな音を立てた。
どく、どく、と薄い鼓膜で世界を叩く。ページの端が息で揺れ、インクの線が汗を滲ませる。
《楡原 返却》
《本郷 返却》
黒い二行が天井へ、壁へ、床へとにじみ広がり、部屋の形を返却窓口の形に変質させていく。
空気が薄くなる。薄くなるのに重い。喉の奥に名前の粉が溜まっていく感じがした。
「二人まとめて返す気ね」
莉理香─茉莉香の身体に宿る冷たい人格─が、名簿を斜めに睨んだ。視線は線をまっすぐに追わない。線の縒りを見る。
「修正の代償。二重返却」と、莉理香。
「俺は構わない」と、本郷が言った。顔は蒼白、声は硬い。「子どもを守れない教師に、残る資格はない」
「俺も行く」楡原は膝が震えているのを隠さずに、一歩前に出た。「俺が名乗った。だから…」
「黙って」莉理香はそっと指を立てた。
名簿のページが、彼女の指の動きに合わせて呼吸の間隔を変える。ページは紙じゃない。手順だ。
「行く/行かないは選択肢じゃない。これはルールの問題。ルールは食べ物。こちらの胃袋に合うように調理すればいい」
冴子が縋るように顔を上げる。「調理…できるの?」
「できる。名称を切り分けるの。返すのは人じゃなくて項目にする」
あくまでも莉理香は冷静に答える。
影山の喉仏が上下する。「…役職だけ返すと?」
「そう。まずは先生から。人としての本郷ではなく、夜間巡回責任者の任を返却する。役割は借り物。返すのに、骨はいらない」
本郷の目が見開かれ、すぐに伏せられた。
「俺は責任から逃げるのか」
「違う。責任の衣を一度脱ぐの。返却の刃が皮を探す前に、皮を自分で脱ぐ。裸の人間は、返されにくい」
莉理香がそう言うと、部屋のどこかで、返却窓口が舌打ちをした。薄く乾いた金属の音。
天井の角がすっと深くなり、見えない口がこちらを覗き込む。
* * *
影山が机の引き出しに駆け寄り、先ほど持ち出した白い細長い紙束―交換券を取り出す。片端だけミシン目が入っている。
「これを使うんだな」と影山が言うと、莉理香が、
「ええ。ただし、そのまま切っちゃダメ」
彼女は交換券を名簿の余白にぴたりと当て、指先でミシン目のひと粒ひと粒をゆっくり揉みほぐした。
ミシン目が柔らかくなる。線が線でいられることを諦めかける。
「切るときの言葉、決めるわ」
莉理香は短い息で詩形を作った。
> かりものは、かえす。
> からだではなく、名から。
> いのちは、貸出不可。
ぽん、と軽い破裂音。交換券が、まるで自分で切られたい位置を探していたみたいに、きれいに割けた。
「先生、ここに署名を」と、莉理香が言うと、本郷が不思議そうに、
「署名?」
「名前は危険。でも癖は安全。先生の鍵束の順番でサインして」
本郷は頷き、机上の紙に、鍵束を触る順で点を打つ―小さな点が五つ、間隔が不揃いに並ぶ。それは彼だけの見えない譜面になった。
紙が微かに温度を持ち、名簿の《本郷 返却》の「返」の字が薄くゆらいだ。
返却窓口が不満げに、もう一度舌打ちをする。
天井の角の口にヒダが増え、そこから湿った風が降りる。紙の端がざわりと立つ。
* * *
「役だけ返す儀式、始める」
莉理香は、名簿の行と交換券の切り口を重ね、声を落として読み上げた。
> 記載事項の移送:夜間巡回責任者/記録係。
> 当該項目、返却処理。
> 当該人、在留。
> 理由:安全維持上の正当事由(一次)。
読むたびに、文字が湿度を変える。
《本郷 返却》の本が薄紙の裏へ裏へと透けはじめ、返却の二文字が返却(項)と小さく割れた。
「まだだ。押すものが要る」影山が言う。
「印?」と、冴子が頷く。「印鑑は呪具だよ」
花森がいつの間にか、赤いスタンプ台を持ってきていた。
「見つけた。職員室にあったよ」
小さな丸印には回覧の文字。
「ちょうどいいわ。回覧=戻ってくる」と、莉理香。
回覧の赤が、返却(項)の上にそっと重なる。丸の輪郭が、返却の文字の歯を滑らせる。
名簿の行が―二行に割れた。
《本郷(人) 在留》
《夜間巡回責任者(項) 返却済》
本郷が、肩を落として笑った。
「…軽くなった」
それは逃避ではなく、身ぐるみの再定義だった。
彼は自分の掌を開いて見せる。そこに、昨日から残っていた「守」の字が、ほんの少し薄くなっていた。
返却窓口の口はすぼまり、別の位置へ滑っていく。
だが、まだもう一行、黒く濃い文字が残っている。
《楡原 返却》
* * *
「次は俺だな」楡原が笑う。無理な笑いだったが、笑いは笑いだ。「俺も役だけ返せるか?」
「あなたの役は、まだここで決まっていない」
と、莉理香は彼の影を見た。軽い影。先ほど代物弁済に使ったときから、質量の半分を置いてきている。
「けど、影は返せる。影が先に帰る。本体は遅延を得る」
「遅延って、どのくらい?」と、冴子。
「わたしたちのいまを、最低でももう一単元延長できるくらい」
「授業、続けられるのね」本郷が微笑む。笑みには、教師の顔が戻っていた。
準備は早かった。
床に光源。影が長く伸びる。
莉理香は交換券のもう半分を楡原の影の縁に沿わせ、さきほどと同じ詩形で切り込みを入れた。
> かえすのは、うすいほう。
> のこすのは、こいほう。
> いのちは、貸出不可。
影がかすかに身じろぎする。影が身じろぎ? おかしな言い方だけど、見えたのだから仕方がない。
足元の黒が、薄氷のように割れ、その一枚がひらりと名簿へ吸い込まれていく。
《楡原 返却》の行が、返却(影)へと変わり、括弧の内側だけが祓われた。
楡原が額を押さえた。「う…」
膝が崩れる。冴子が抱きとめる。
「痛む?」
「いや、…頭の中に遅刻届を書いた感じ」
「届けは受理された」莉理香は淡々と言った。「本体の出頭は延期になった。影だけ先に向こうへ。」
返却窓口の口が不満そうに歯を鳴らす。
「まだ足りない」という音。
二重返却は二つ分のカロリーを求める。項目と影では足りない、と言っている。
* * *
「なら、もう一皿出す」莉理香は振り向き、丸く寄せた椅子に座る面々を見渡した。「歌を返す」
「歌?」と、」影山。
「返却窓口の胃袋は意味を好む。意味の濃い肉は柔らかく噛める。意味のない歌は、胃袋を疲れさせる。皿として出し、食べ残しにしてやる」
本郷がすぐに頷く。「授業の続きだ。点呼の代わりに、歌」
冴子が息を吸い、吐く。「歌う。言葉を、意味から外して」
最初は小さかった声が、二人、三人、四人と足されて、無意味の合唱になった。
「ららら」「ねねね」「ぽぽぽ」「すいすい」「ままま」
音節がリズムを持ち、壁の食欲から外れていく。
返却窓口の口が、ぐらりと揺れた。むせたのだ。
「いまだ」
莉理香は名簿の《楡原 返却(影)》の返の字を、指先の爪で横に倒す。
返は 返 に変わる。
かえるのは影だけという文法が、名簿の中で採用された。
天井が、今度は満足のないため息を吐いた。
口は薄くなり、部屋の角へ、ふすまの隙間へ、配電盤の裏へと散っていく。
二重返却は不完全に処理され、胃の底に消化不良を残した。
* * *
ひと息、部屋は静かになった。
時計の秒針が「いま」を指し、針の先がほんのわずかに笑う。
楡原は床に座り込み、膝を抱えた。「…変な感じ。足が半歩、遅れてついてくる」
「それが遅延の歯型。あとで疼くけど、命には関わらない」と、莉理香。
「命には…」楡原は頷き、顔を覆う。「ありがとう」
本郷が鍵束を握り直した。金属の束は彼の手の中で、ただの道具へ戻る。
「俺の役は返した。だからこそ、仕事はできる」
「そう。役ではなく仕事。名簿に食べられない働き方を覚えて」と、莉理香。
彼は生徒たちを見渡し、言葉を選ぶ。「授業を続ける。…いまを長くする授業だ」
花森が目を細め、爪先で床を叩いた。ぽん、ぽん。
「ね、莉理香ちゃん。返却窓口はさ、怒ってるの?それとも、嬉しがってるの?」
「どちらでもない。学習している」と、莉理香が冷静に言うと、花森は、
「学ぶんだ、あれ」
「ええ。あれは人間じゃないけど、習慣にはなる」
そのときだった。廊下の先―虚無の回廊へと続く折れ目の向こうで、紙の裂ける音がした。
歌の余韻が壊れないよう、音は遠慮がちに部屋に届く。
影山が立ち上がる。「様子を見てくる」
「三人以上で」と、本郷が自然に言う。教師の声だった。
影山、冴子、花森、そして莉理香がドアへ向かう。
* * *
廊下は二重に重なり、ガラス越しのもう一枚が、こちらと少し違う角度で走っていた。
緑の非常灯が半拍遅れて点滅する。
足音を半足分ずらして進む。ずれないと、向こうの自分に噛まれる。
曲がり角の壁に、四角い窓。昨日見た返却窓口の一つ。だが、今夜はその奥にカウンターが立ち上がっていた。
木製の台。古いベル。札束。
そして、誰もいないはずのカウンターに、黒い腕が一本だけ載っていた。肘から先だけ。墨で塗りつぶしたみたいな腕。細い。
ベルの横で、その指が、とん、とんと台を叩く。
「待ってたのよ、窓口」
莉理香は窓の格子へ近づき、息を吹きかける。格子が五線譜にほどける。
昨日と同じだが、譜は一音高い。窓口は一晩で音程を上げた。
「奥付へ行く」
彼女は交換券の切れ端を五線に滑り込ませ、無意味な休符をまた挿す。窓口がむせ、隙間が生まれる。
四人は身をくねらせて潜り抜けた。
奥は狭い事務室のようで、実際には索引の裏側だった。
棚。札。紐。
紐は名簿の項目に結ばれ、棚の奥で別の棚へ渡され、さらに向こうの棚へ。棚は無限に続くようで、きっぱりと途切れている。切断=完了の印だ。
彼らが踏み入れると、床がひゃくいちと数えてから黙った。基準のない数え方。ここでは、それが正しい。
壁の小さな窪みに、細いレバー。
プレートに刻字。
《返却方向切替 役/影/本体》
「あるじゃないの、切替」と、冴子が呆れた声を出す。
「ありふれた装置よ」と、莉理香は言う。「いつだって切替は一人じゃできない。だから窓口がいる」
黒い肘から先の腕が、遠慮がちにレバーへ伸びた。
「触るな」
そう言う莉理香の声は、刃の背で打つみたいな平らな力を持っていた。
腕はぴたりと止まる。
彼女はレバーの根元に紙片を差し込み、先端をほんの一目盛だけ役へ戻す。
返却場全体が、咳き込み、棚の札が一斉に震えた。
影山が周囲を見回す。
「…先生の役が、完全に向こうへ流れた。代わりに、帳簿の白が増えた」
「白は余白。余白は選択肢」
莉理香はその白に、短く書いた。
《返却一時停止(学級運営上の特段の事情)》
窓口は、逡巡の沈黙を返した。沈黙は、受理の前に鳴る音だ。
「戻る」
彼女は踵を返す。
その瞬間―背後で、ベルが鳴った。
誰かが呼んだのではない。窓口が呼んだのだ。
黒い手がベルの上で震え、音の残響が回廊を駆け上がった。
《返却予定》の札が、また一枚、前へ滑る。
記されている名は、本郷でも楡原でもなかった。
《影山 返却予定》
「待てよ」
影山が乾いた笑いを漏らす。「今、俺、何も名乗ってないぞ」
「窓口が学習したの」と、莉理香は悔しげに舌打ちした。「異物を先に食べる。あなたの地図は向こうにとって毒。だから先に、毒を解毒しにきた」
* * *
「戻るわよ」
莉理香の言葉を受け、四人はふたたび五線譜をくぐり、二重廊下を半拍ずらしで走った。
集会室だった部屋の扉を開けると、名簿は静かに開かれていて、《影山 返却予定》の行が黒く太っていた。
黒は意思だ。紙の意思。
花森がやや楽しそうに言う。「また二人返そうとされたら、どうする?」
「二人目を歌にする。三皿目は効く。四皿目は吐かせる」
と、莉理香は息を整え、机の上に交換券、回覧印、昨夜拾った実験記録の紙片、そして授業のプリントの白紙を並べた。そして続けて、
「影山、地図を描いて」
「ここで?」と、影山。
「ここで。いまの部屋の見取り図。廊下。窓。人。影。全部、遅延を含めて」
影山は頷き、白紙に鉛筆を走らせる。線は美しいのに、紙の上で時々すべる。部屋の方が、鉛筆の速度を調整しようとする。
「歌」と、本郷が合図する。
冴子が音を置く。楡原が追う。花森が跳ねる。
言葉の意味を削ぎ落とし、音の骨だけにする。
返却窓口の口が、天井の隅で咳き込んだ。
莉理香は影山の地図の中央点に回覧印を押し、交換券の切れ端を返却予定の行に斜めに差し込む。
> かえすもの:図
> のこすもの:地
> ちずは、借り物。
名簿の黒が、ほんの少しだけ薄くなる。
《影山(図) 返却済》
《影山(人) 在留》
ふたつの行が、紙の上で入れ替わる。
「あ…」と、影山は胸に手を当てた。「俺の中の図が、少し軽くなった」
「それでいい。向こうは図を食べた。味が濃いから、しばらく満腹になる」と、莉理香が答えた。
返却窓口の口は、今度こそ本格的にむせ、部屋の角でしばらく呻いた。
梁が低く唸り、床のきしみが遠のく。
双重の返却は、分割払いのまま、どうにか中断された。
* * *
静けさが戻った。
戻った静けさは、さっきより厚い。
いまが、薄紙から画用紙くらいになった。
本郷は名簿を閉じ、深く息を吸った。
「授業を再開する。今日は名前を使わない自己紹介。―さっきの続きだ」
冴子が笑う。「癖で名乗るやつね」
「そうだ。癖は返却できない。自分でしか持てないから」
楡原は自分の膝を叩いてリズムを作り、「俺はいつも、何かを数えるとき、二から始める」と告げた。
花森は空気を撫で、「私は、空気がいい匂いをしてるときだけ、本気で笑う」と言った。
影山は鉛筆を握り、「線を引くとき、呼吸を止める癖がある」と言った。
本郷は鍵束を鳴らし、「鍵を触る順番が、迷った順になる」と言った。
莉理香は、「わたしは、推理を呼吸する癖がある」と言った。
笑いが、薄く、しかし確かに漂った。
返却窓口は、遠くで唸り、不味そうにしていた。
と、そのとき。
天井の、昨日職員室の扉が現れた場所の上あたりで、紙の裂ける音がもう一度した。
新しい裂け目。
そこから、薄い手紙がひらりと落ちてくる。
本郷が拾い上げ、読み上げる。
《通知:双重返却 一時停止/再検査。
対象:夜間巡回責任者(項)、図(影山、図項)、影(楡原、影項)。
備考:監査来訪。》
「監査…」と、影山が眉間を押さえる。「向こうの世界にも、いるのかよ」
「いるわ」と、莉理香の声が硬くなる。「向こうは合理的よ。だから、今から来る。人の形で」
花森が嬉しそうに目を輝かせた。
「やっとキャストが出てくるね」
「冗談を言ってる場合じゃない」と、冴子が花森の腕をつねる。
花森は、それでも笑った。「だって、舞台は役者がいないと退屈だもん」
床下が、もはや床下でない場所から、低く固い足音を上げはじめる。
一歩ごとに、部屋の形が半ミリずつ変わる。
扉の位置。窓の高さ。名簿の厚み。
監査が、こっちの語彙に合わせて、服を選んでいる。
「迎えよう」
莉理香は立ち上がり、交換券と回覧印と白紙を、すばやく一つに束ねた。
「こちらのルールで話す準備を」
と、本郷は頷き、鍵束を握る。
影山は鉛筆を削る。
冴子はペンの芯を替える。
楡原は影の濃さを確かめる。
花森は手を振る練習をする。陽気という名の刃だ。
ドアが、コン、コン、と二度叩かれた。
礼儀正しい音。こちら側の作法だ。
双重返却の牙はひとまず退けた―が、今度は監査という名の歯医者がやって来た。
莉理香の口元に、薄い笑いが宿る。
「さあ、交渉の時間」




