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トランキライザー莉理香 最初の事件 ー亜空間の檻ー  作者: Futahiro Tada
第四章:虚無の回廊

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三 歪む名簿

三 歪む名簿


 歌で延長されたいまの静けさは、長くは続かなかった。

 集会室だった部屋の天井が微かに鳴った。梁が折れるのではなく、梁の名前が折れる音だった。

 秒針は刻んでいるのに、時針は顔を背けている。時間が動いているのに進んでいない、いや、進まないことを進められている。

 本郷が手にした名簿をめくる。ページの紙は一晩で重くなり、めくるたびに湿った呼吸を漏らした。

「…もう一度、点呼だ」

 声が掠れている。守るべき数を数える声が、守れなかった数を思い出す声に似ているからだ。

 影山が横から覗き込む。

「字が…ずれてないか」

「ずれてる?」冴子が眉を寄せる。

 ページの行は横に並んでいる。けれど、視線を落とすたびに縦へ歩き出す。

 名前が列から外れて、列車の脱線事故のようにあちこちへ散らばっていく。

「冴子」「楡原」「花森」「影山」—順に読めば確かにそこにある。だが、次に目を戻すと順番が変わっている。

「名簿が編集中なんだ」と、莉理香が低く言った。

「編集?」と、影山。

「書き換えじゃない。編集中。決定されてない状態。存在が保存されてない」

 と、莉理香は淡々と告げる。

 すると冴子が血の気を失った顔で叫ぶ。

「じゃあ…わたしたち、消される?」

「いいえ。消されるんじゃない。返却されるのよ」

 返却あの言葉が再び、部屋を重くする。


* * *


 照明が一度落ちた。真っ暗闇の間に、誰かが息を吸った。

 再び点いたとき、床に落ちる影が一つ、多い。

「…誰だ」

 影山が声を震わせる。

 影は人の形をしていた。けれど、誰の背後にも接続していない。床に直接、影だけが生えている。

 動かない。動かないのに、見ている。

 本郷が反射的に庇うように前に立った。

「下がれ!」

 影は本郷の足元へ近づき、ゆっくりと伸びる。影と影が触れ合う寸前、莉理香が前に出る。

「対称を崩せ!」

 叫ぶと同時に、彼女は片足で横跳びした。

 他の三人も思わず同じ方向に飛ぶ。

 影は対象を見失い、ぶるりと震えて縮んだ。

「やっぱり…」莉理香が睨む。「影は名簿の余白から漏れ出してる。記録されていない分が、こうして形を欲しがっているのよ」


* * *


 本郷は額の汗を拭った。だがその仕草が途中で止まる。

 手の甲に、昨日ついた「守」の字がまだ残っていた。インクではなく痣のように沈んでいる。

 本郷は視線を落としたまま呟いた。

「…俺は知っていたのかもしれない。夜の巡回の時、名簿を更新する手順があった。子どもたちの安全を守るためだと、そう説明された。…でも、実際は—」

「返却作業」と、莉理香が代わりに言う。

「そうだ。俺は判子を押して、ページをめくって、それを安全確認だと思い込んでいた。…それが返す作業だと知らずに」

 沈黙。冴子の手が震える。

「じゃあ、先生が—飛鳥も、六郎も、大沼も—」

「違う!」本郷が声を荒げた。「俺は俺はただ、守ろうとして」

 声が掠れ、崩れる。涙は出ない。ただ、言葉が涙みたいに床に落ちる。

 影山が口を開いた。

「先生が知らなかったなら、罪はない。でも、知らないふりをしていたなら、罪はある」

 本郷は答えられなかった。答えは、喉の奥で石のように固まっていた。


* * *


 その時、花森が唐突に笑った。

「でもさ、返却って楽だよね」

 皆が凍りつく。

「なに言ってんの」冴子が睨む。

「だって、考えなくていいんだもん。誰が生きて、誰が消えるか、向こうが決めてくれる。あたしたちは返されるか残るかのサイコロ。ほら、面白いじゃん」

「お前…狂ってるのか」と、影山が吐き捨てる。

「狂ってる?違うよ。わたしはただ、楽しんでる。だって、林間学校でこんな体験できるなんて、奇跡でしょ」

 冴子が立ち上がり、花森の肩を揺さぶった。

「ふざけないで!あんたは何も怖くないの?誰かが消えてるのに!」

 花森の瞳は無邪気だった。だが、その奥に映る影は、誰のものでもない影だった。


* * *


 その瞬間、名簿のページが風もないのに勝手にめくれた。

 新しい行が、そこに浮かび上がる。

《本郷 返却予定》

「…嘘だ」

 本郷の顔色が消えた。

 冴子が叫ぶ。「やめて!やめてよ!」

 影山がページを押さえるが、紙の文字は指をすり抜け、壁に映り込んだ。

《返却予定》の文字が天井にまで滲み広がる。

「まだ決定じゃない」莉理香が冷静に言った。「予定は、今の行動で書き換えられる」

 彼女の目は鋭い。「だから今は動く」


* * *


 床下から低い唸り。まるで大きな心臓が真下で打っているような音。

 壁の隅から黒い染みが滲み出す。

 染みはゆっくりと机の脚を伝い、名簿の端に触れた瞬間、ページ全体が呼吸を始めた。

「次の返却が、来る」と、莉理香が囁く。

「誰?」と、冴子。

「名簿に予定と書かれた者」

 本郷が硬直する。

 その時、楡原が突然、立ち上がった。

「俺だ!」

 声は震えていた。

「返却されるのは、俺だ!さっきだって影が軽かったんだ!俺が代わりになる!」

「違う!」冴子が叫ぶ。「予定に書かれてるのは先生よ!」

「俺が代わる!」楡原は机を叩いた。「そうすれば、帳簿は書き換わるはずだろ!」

 莉理香は目を細めた。

「…名簿は選んだ相手を返す。でも、誰かが自分から名乗れば、帳簿は修正と解釈する。ただし」

「ただし?」と、影山。

「修正は、二人分を請求する」


* * *


 天井が大きく軋んだ。

 名簿の文字が一斉に浮かび上がり、名前が次々と光った。

《楡原 返却》

《本郷 返却》

「二人」冴子の声が掠れる。

 机の上の名簿が震え、黒い染みが広がる。

 莉理香が歯を食いしばる。「…これが修正の代償」

 本郷は立ち上がり、叫んだ。

「いい!それでいい!俺は子どもを守るためにここにいる!なら、一緒に返されるなら本望だ!」

「先生!」冴子の悲鳴。

 影山が唇を噛み切った。

 花森は笑い続けていた。

 楡原は震える足で前へ進み出る。

 そして、床下から虚無の回廊の呼吸が響いた。

 返却窓口が、二人の名前を呑み込む準備をしている。

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