三 歪む名簿
三 歪む名簿
歌で延長されたいまの静けさは、長くは続かなかった。
集会室だった部屋の天井が微かに鳴った。梁が折れるのではなく、梁の名前が折れる音だった。
秒針は刻んでいるのに、時針は顔を背けている。時間が動いているのに進んでいない、いや、進まないことを進められている。
本郷が手にした名簿をめくる。ページの紙は一晩で重くなり、めくるたびに湿った呼吸を漏らした。
「…もう一度、点呼だ」
声が掠れている。守るべき数を数える声が、守れなかった数を思い出す声に似ているからだ。
影山が横から覗き込む。
「字が…ずれてないか」
「ずれてる?」冴子が眉を寄せる。
ページの行は横に並んでいる。けれど、視線を落とすたびに縦へ歩き出す。
名前が列から外れて、列車の脱線事故のようにあちこちへ散らばっていく。
「冴子」「楡原」「花森」「影山」—順に読めば確かにそこにある。だが、次に目を戻すと順番が変わっている。
「名簿が編集中なんだ」と、莉理香が低く言った。
「編集?」と、影山。
「書き換えじゃない。編集中。決定されてない状態。存在が保存されてない」
と、莉理香は淡々と告げる。
すると冴子が血の気を失った顔で叫ぶ。
「じゃあ…わたしたち、消される?」
「いいえ。消されるんじゃない。返却されるのよ」
返却あの言葉が再び、部屋を重くする。
* * *
照明が一度落ちた。真っ暗闇の間に、誰かが息を吸った。
再び点いたとき、床に落ちる影が一つ、多い。
「…誰だ」
影山が声を震わせる。
影は人の形をしていた。けれど、誰の背後にも接続していない。床に直接、影だけが生えている。
動かない。動かないのに、見ている。
本郷が反射的に庇うように前に立った。
「下がれ!」
影は本郷の足元へ近づき、ゆっくりと伸びる。影と影が触れ合う寸前、莉理香が前に出る。
「対称を崩せ!」
叫ぶと同時に、彼女は片足で横跳びした。
他の三人も思わず同じ方向に飛ぶ。
影は対象を見失い、ぶるりと震えて縮んだ。
「やっぱり…」莉理香が睨む。「影は名簿の余白から漏れ出してる。記録されていない分が、こうして形を欲しがっているのよ」
* * *
本郷は額の汗を拭った。だがその仕草が途中で止まる。
手の甲に、昨日ついた「守」の字がまだ残っていた。インクではなく痣のように沈んでいる。
本郷は視線を落としたまま呟いた。
「…俺は知っていたのかもしれない。夜の巡回の時、名簿を更新する手順があった。子どもたちの安全を守るためだと、そう説明された。…でも、実際は—」
「返却作業」と、莉理香が代わりに言う。
「そうだ。俺は判子を押して、ページをめくって、それを安全確認だと思い込んでいた。…それが返す作業だと知らずに」
沈黙。冴子の手が震える。
「じゃあ、先生が—飛鳥も、六郎も、大沼も—」
「違う!」本郷が声を荒げた。「俺は俺はただ、守ろうとして」
声が掠れ、崩れる。涙は出ない。ただ、言葉が涙みたいに床に落ちる。
影山が口を開いた。
「先生が知らなかったなら、罪はない。でも、知らないふりをしていたなら、罪はある」
本郷は答えられなかった。答えは、喉の奥で石のように固まっていた。
* * *
その時、花森が唐突に笑った。
「でもさ、返却って楽だよね」
皆が凍りつく。
「なに言ってんの」冴子が睨む。
「だって、考えなくていいんだもん。誰が生きて、誰が消えるか、向こうが決めてくれる。あたしたちは返されるか残るかのサイコロ。ほら、面白いじゃん」
「お前…狂ってるのか」と、影山が吐き捨てる。
「狂ってる?違うよ。わたしはただ、楽しんでる。だって、林間学校でこんな体験できるなんて、奇跡でしょ」
冴子が立ち上がり、花森の肩を揺さぶった。
「ふざけないで!あんたは何も怖くないの?誰かが消えてるのに!」
花森の瞳は無邪気だった。だが、その奥に映る影は、誰のものでもない影だった。
* * *
その瞬間、名簿のページが風もないのに勝手にめくれた。
新しい行が、そこに浮かび上がる。
《本郷 返却予定》
「…嘘だ」
本郷の顔色が消えた。
冴子が叫ぶ。「やめて!やめてよ!」
影山がページを押さえるが、紙の文字は指をすり抜け、壁に映り込んだ。
《返却予定》の文字が天井にまで滲み広がる。
「まだ決定じゃない」莉理香が冷静に言った。「予定は、今の行動で書き換えられる」
彼女の目は鋭い。「だから今は動く」
* * *
床下から低い唸り。まるで大きな心臓が真下で打っているような音。
壁の隅から黒い染みが滲み出す。
染みはゆっくりと机の脚を伝い、名簿の端に触れた瞬間、ページ全体が呼吸を始めた。
「次の返却が、来る」と、莉理香が囁く。
「誰?」と、冴子。
「名簿に予定と書かれた者」
本郷が硬直する。
その時、楡原が突然、立ち上がった。
「俺だ!」
声は震えていた。
「返却されるのは、俺だ!さっきだって影が軽かったんだ!俺が代わりになる!」
「違う!」冴子が叫ぶ。「予定に書かれてるのは先生よ!」
「俺が代わる!」楡原は机を叩いた。「そうすれば、帳簿は書き換わるはずだろ!」
莉理香は目を細めた。
「…名簿は選んだ相手を返す。でも、誰かが自分から名乗れば、帳簿は修正と解釈する。ただし」
「ただし?」と、影山。
「修正は、二人分を請求する」
* * *
天井が大きく軋んだ。
名簿の文字が一斉に浮かび上がり、名前が次々と光った。
《楡原 返却》
《本郷 返却》
「二人」冴子の声が掠れる。
机の上の名簿が震え、黒い染みが広がる。
莉理香が歯を食いしばる。「…これが修正の代償」
本郷は立ち上がり、叫んだ。
「いい!それでいい!俺は子どもを守るためにここにいる!なら、一緒に返されるなら本望だ!」
「先生!」冴子の悲鳴。
影山が唇を噛み切った。
花森は笑い続けていた。
楡原は震える足で前へ進み出る。
そして、床下から虚無の回廊の呼吸が響いた。
返却窓口が、二人の名前を呑み込む準備をしている。




