二 返却窓口の音
二 返却窓口の音
集会室だった部屋に戻ってすぐ、空気の温度がひとつ分、低くなった。数は合わない。影は合う。声が足りない。
名簿の行が波打つ。行間が広がって、中に湿った風が通る。「点呼する」と本郷は言ったが、声が喉の奥で引っかかった。「する」だけが出て「点呼」が出ない。言葉の順番が躓いて、床に散った。
影山が代わって読み上げる。「朝霧、烏田、江見—」呼ばれるたびに、返事がひとつ、ふたつ、三つ、砂利みたいに転がって床に溜まっていく。返事の粒は転がる音をしない。湿っているからだ。
「…楡原?」
返事が来ない。
もう一度呼ぶ。「楡原」
沈黙が答える。沈黙は、昨日よりも素早く答えるようになった。
部屋の奥で、毛布に包まった男子が顔を上げる。「さっきまで、いた。トイレだって言って…」
冴子が立ち上がる。「廊下、見てくる」
「待て」本郷が手を伸ばす。「行くなら三人以上だ。二人は対称になる」
花森がすっと冴子の横に立った。「三人。これでいける」
莉理香は頷く。「影山、あなたも」
ドアが開くと、廊下の空気が少し甘かった。甘さは腐敗の手前の、果物の皮が苦くなる前の、その手前にある約束の匂い。甘いが、優しくない。
非常灯の緑がまぶたの裏に残像を貼る。廊下の角がさっきより細い。曲がるたび、角は近づき、近づく角は「無言でのぞき込む」を繰り返す。
「楡原!」冴子が呼ぶ。声に棘がない。棘がないのは、棘を全部、喉の奥で飲み込んだからだ。
返事はない。
「楡原、ふざけないで」と、冴子が言い切る前に、トイレのドアがすっと開いた。誰も押していない。
白いタイル。鏡。水の跡。個室の扉は半分開き、半分閉じて、どちらでもない。
床に、細い影が一筋。影の表面に文字が浮かんで、すぐ沈む。
《い》《た》
《け》《ど》
《い》《な》《い》
「やめてよ」と、冴子が呟く。「そういうの、やめて」
鏡の前に立つ。四人分の姿が映る。映るはずのない五人目が、鏡の奥に立っている。輪郭は薄い。薄いのに、目だけが濃い。
花森が肩をすくめる。「ねえ。鏡、こっちを見てるね」
「鏡はいつも見てる」と、影山が応じる。「けど、今日は覚えてる」
「覚える鏡は、返却窓口」と、莉理香が言う。「ここから、借り物が戻される」
個室をすべて開ける。誰もいない。最後の個室の床に、水の輪。輪の中心に、小さな紙切れ。
拾い上げると、鉛筆の擦れが指先に移ってくる。紙には「楡原」のイニシャル。裏に、消えかけた自分撮り。笑って映る楡原の顔の横に、半透明の手が写り込んでいた。
「これ、いつ撮った?」と、冴子の声が細くなる。
影山が写真の余白に見えない物差しを当てるみたいに目を細める。「昨夜—いや、昨夜に似た今朝」
「返そうとしてる」と、莉理香が結論を落とす。「楡原を、どこかへ。どこへ?向こうへ」
その向こうは地理ではない。位相だ。
冴子が障子紙みたいな声で言う。「返さない。返すの嫌だ」
「拒否は引用符で囲われる」と、莉理香。「『返さない』は返す手続きの一部」
冴子は顔を覆った。言葉が凶器であることを知るには、まだ若すぎる。けれどここでは、若いことも、古いことも、免罪にならない。
* * *
戻ると、集会室だった部屋の真ん中に机がひとつ出ていた。さっきはなかった机だ。机の上に分厚い黒表紙の帳簿。角がすり減り、糸綴じの背が軋んでいる。
本郷が息を飲む。「勝手に」
「出たのよ」と、莉理香が言う。「呼ばれたものは、自分の足で出る。帳簿は呼ばれた」
表紙にスタンプ:貸出/返却管理。
めくる。インクの行。名前。日付。印。
そこに、見知った名前がいくつも並ぶ。
《飛鳥 真 夜間運用補助 仮搭乗 返却未了》
《六郎 ピラミッド 階段圧接 試験統計 返却済》
《くそったれ魂 娯楽室攪拌 試験統計 返却済》
インクが乾いて、乾いたあとで滲んでいる。滲みは呼吸だ。紙が吸って吐く。
「返却済って、どこに」と、影山。
「向こうの棚」と、莉理香は静かに答える。
「棚?」
「ええ。わたしたちは本じゃない。でも、扱いは本。分類され、並べられ、引き出される」
冴子の指が帳簿の隅で震える。「楡原は?」
ページを繰る。あった。
《楡原—返却処理中》
黒インクの「中」が、脈を打つみたいに濃さを変える。
「処理を止める方法は?」と、本郷が前に出る。
「ページを破るのは下策。帳簿が痛み、別の帳簿が呼ばれる」と、莉理香。
「じゃあ」
「帳簿に追加する。貸し借りのルールは相殺を許す。代物弁済」
本郷の喉が鳴る。「…代わりを?」
「形の代わりでいい」
莉理香が言う。その後誰も続けない。
花森だけが笑っている。「じゃあ、影でいいね」
冴子が彼女を見た。「影?」
「楡原の影、誰かが持ってて、それを」
「できるわ」莉理香は即答する。「ただし、影を扱うと本体に遅延が出る」
「遅延?」
「時間が噛む。噛まれた時間は、あとで歯型を見せる」
本郷が決めた。「やる。俺の影を使え」
全員の視線が彼に集まる。
彼は笑う。「俺は大人だ。歯型くらい、今さら怖くない」
怖くない顔を、怖い顔が裏から押している。けれど、押し返す筋力は、まだ残っていた。
照明を少し落とし、床に光源を置く。影が濃く伸びる。
楡原の席—誰もいない床へ、静かに光を振る。空席の影が薄く生まれる。
莉理香は本郷の影と空席の影の縁を、紙の上の文字のように指で揃える。「ここで重ねる」
「痛いか?」と、本郷。
「痛いのは影。あなたは、あとで痛む」と、莉理香。
影と影がかちりと噛む音はしない。代わりに、壁に掛かった時計が一秒だけ止まって、慌てて二秒進んだ。
帳簿の「返却処理中」の文字が薄まる。
戻ってくる。
ドアの向こう、廊下で足音。
楡原が、何もなかったみたいな顔で入ってきた。少し濡れている。濡れているのに、雨の匂いがしない。
冴子が駆け寄り、肩を掴む。「どこに行ってたの」
「え?」と、楡原は瞬きをする。「トイレで、順番待ってて。ずっと誰かが中に—」
言葉の端がほどける。記憶の縫い目が浅い。
影山がそっと、楡原の足元を見た。影が軽い。
遅延は始まっている。
* * *
「次の処理が来る前に、動く」と、莉理香が言う。「返却窓口は窓口に来た者を優先する。来させない。こちらから出向く」
「どこへ?」と、影山。
「帳簿の奥付へ」
「本に奥付はあるけど、帳簿の」影山が言いかけて、口を噤む。ここでの語彙は、正確であるほど危険だ。
「名を、呼ぶのはやめて」と、莉理香は部屋をぐるりと見渡す。「名指しは招待状。呼べば来る。来れば返される」
数人が口元を押さえる。さっきから、誰かの名前を呪文みたいに繰り返していたからだ。
冴子は拳を握り込む。「…じゃあ、どう呼ぶの?」
「触れ方で呼ぶ。椅子の背、机の角、筆圧。名の代わりに癖を思い出す」
莉理香がそう言うと、彼らは練習した。
影山は空中に小さな四角をいくつも描き、それを速さで並べる。彼の地図の癖。
冴子はペンを握り、二度書きの筆圧で線の端を太らせる。彼女の成績表の癖。
本郷は鍵束を鳴らし、決められた順ではなく、迷った順で鍵を触る。夜の巡回の癖。
花森は、何もしない。彼女の癖は「その場の空気に気持ちよくなる」ことで、誰の真似もしなかった。
息がそろう。
時計が一秒、戻る。
戻った秒針が、こちらを見て笑った気がして、冴子がつい笑い返した。
返さない笑いは、ここでは抵抗だ。
* * *
廊下に出ると、そこにはもうひとつの廊下が重なっていた。透明なガラスの中に、もう一枚の廊下が流れている。歩くと、自分の足音と一拍遅れの足音が重なる。
「二重廊下…」と、影山が呟く。「反射じゃない。反芻だ」
「向こうの廊下が、こっちを噛んでる」と、冴子が言う。
「噛まれる前に」と、莉理香は一歩、ずらす。幅半足分、リズム半拍分。
全員が真似をする。足音が撚り合わさらず、二筋に分かれて走る。
曲がり角の先、壁に四角い窓。
窓の向こう、狭い部屋。棚。札。貸出番号。
「これが返却窓口?」と、影山。
「一つじゃない」と、莉理香が言う。「どこからでも返せるのが返却の強み」
札のひとつに、見慣れた文字。
《R-17》
冴子が息を呑む。「ルナルナ…」
「言わない」莉理香の声が刃物になる。「言葉は呼ぶ」
窓の格子に触れると、格子が音を立ててほどけた。鉄の筋が五線譜になり、廊下の風がそこへ譜面を載せる。
莉理香は、その譜面に指先で休符を描き足す。
返却窓口の音が、咳払いをした。
「今のうちに通る」
莉理香の声に影山が反応する。
「どこへ」
「奥付。管理の管理。帳簿の帳簿」
影山がうなずく。彼はもう、抽象に足場を作るやり方を覚えた。
* * *
小部屋は狭く、しかし長い。入ると、入口と出口が入れ替わる。足が三歩で奥へ行き、四歩で手前へ戻る。
棚の背に、薄い紙。見取り図。虚無の回廊の索引。
冴子が指で辿る。「ここがさっきの教室で、ここが職員室でこの矢印、上へじゃない。奥へ」
「奥は深さ。深さは速度。速度は食欲」莉理香は舌打ちに似た笑いを洩らす。「空間の胃袋に、食べやすい順がある」
棚の最下段に、薄い箱。箱の表に「交換券」。
本郷がふたを開ける。中に、白い紙片がいくつも。片方の端に半分だけ切り込み。
「学園祭の飲食券みたいだな」
「原理は同じ」と、莉理香。「名を切るためのミシン目」
「名を」冴子が青ざめる。「誰の」
返答の代わりに、通路全体が咳をした。
壁に貼られた紙が一枚、ぺたりと剥がれ落ちる。
落ちた紙に、古いスタンプ。
《トランキライザー 仮人格扱い/貸出期限—》
期限の欄が空白。空白は無期限の別名だ。
影山が莉理香を見る。「…お前の」
「わたしの扱い」莉理香は淡々と頷く。「ここでは、わたしの存在は貸し出されている」
「誰に」
「茉莉香に」
名を言った瞬間、室内の影が一斉にこちらを向いた。
冴子が顔色を変える。「今、名前—」
「いいの。これは返さないための名付け」莉理香は交換券の束を指で整えた。「ここに記す。返却拒否・正当事由」
本郷が汗を拭いながら笑う。「そんな欄があるのか」
「作るのよ。欄は線でできてる。線なら、増やせる」と、莉理香は静かに言った。
ペン先が紙に触れる。墨は黒ではなく、深呼吸の色。
彼女は書く。
《本事案は教育安全上の緊急回収に当たらず。人格貸出は当該未成年者の安全維持装置であり、返却は重大な危険を招く。従って返却を停止。》
紙が熱を持つ。熱は脈になり、脈は棚の奥へ吸い込まれ、吸い込まれた奥が沈黙で頷いた。
「効いたのか」と、影山。
「いまは」莉理香が短く答える。「いまは勝てる。次に勝てるかは、次のいまで決める」
* * *
戻る途中、二重廊下の片方が消えた。向こうの足音が止まり、こちらの足音だけが残る。
窓の外の雨が、やっと降るふりをやめて降り始めた。降り始める音は、許しではない。延長だ。
集会室だった部屋のドアの前で、本郷が立ち止まる。「なあ…俺は、何かを起動したのか」
彼の目の奥に、自責の刃と現実の鈍器が並んでいる。
莉理香は正面から見る。「起動は手順の別名。あなたは手順を守った。守るはときに壊す」
「それで、みんなが—」
「違う。みんなはあなた一人では壊れない。ここにはみんなを壊すための設計がある。あなたは一行目を書いただけ。二行目から先は、ここが書いた」
本郷は長く息を吐いた。吐いた息は、さっきよりも軽かった。
彼は覚悟の位置を小さくずらした。自分を責める場所から、自分で立つ場所へ。
「…なら、三行目は俺が書く。守る言葉で」
* * *
部屋に入ると、楡原が毛布にくるまり、ぼんやり天井を見ていた。影は軽いまま。けれど、目の焦点がさっきよりこちらへ寄っている。
冴子はそっと毛布の端を直した。「寒い?」
「ううん。あったかい。…けど、手が、ちょっと遠い」
楡原はそう言った。自分の手を見せるしぐさが、少しだけ遅れて映る。遅延は歯型になって、のちに疼くだろう。
影山は名簿を閉じ、ペンを置いた。「次の処理の前に、もう一度虚無へ?」
「いえ」莉理香は首を横に振る。「次はここで受ける。虚無に潜るばかりが戦いじゃない。ここを虚無にとっての異物にしていく」
「異物」
「飲み込みにくい部屋。噛み切りにくい会話。消化不良になる歌」
花森が笑う。「ね、じゃあ、歌おうよ」
「歌う」冴子も同意した。声は震えていない。
本郷が頷く。「点呼の代わりに、歌を—いまを呼ぶ歌を」
最初の音は小さかった。
次の音は少し大きく、三つ目で誰かがハミングに乗り、四つ目で笑いが混ざり、五つ目で泣き声の上澄みが溶けた。
歌詞は意味を持たない。意味がないから、食べにくい。
いまが部屋の中に沈殿して、床と壁が興味を失う。
興味を失った部屋は、ただの部屋でいることに集中し始める。
そのとき、天井がひとつ、静かに息をした。
次の位置が、ほんの少しだけ遠のく。
莉理香は目を閉じ、指先で空気の温度差を撫でる。
虚無の回廊が喉の奥で鳴らす前に、こちらが先に笑う。
笑いは、返却窓口の前で最も不謹慎で有効な抵抗だ。
歌が終わると、時計の秒針がいまを指した。
「続けよう」本郷が言う。「このいまを延長する。授業を始める」
誰も笑わなかった。笑いは、別の場所で使うために取っておいた。
彼らは椅子を丸く寄せ、机の上に何も置かず、ただ、声を机に置いた。
点呼の代わりに名前でない呼び方をする。
癖。気配。笑い方。歩幅。
名指しを避けて名乗り合うことで、部屋は少しずつ、虚無にとっての食べにくい形に変わっていった。
そして、その食べにくさに、向こうが苛立つ音を立てた。
床下で、薄いナイフの背を爪で弾いたような、低いきしみ。
返却窓口が、舌打ちを覚えた。
莉理香は微笑む。
「いい兆候。こちらのいまが効いてる」
嵐は遠のき、雨は静かに続いている。
虚無の回廊は、次の呼吸を溜めながら、こちらの歌のリズムを測っていた。
次のいまが、もうすぐ、ここに重なる。




