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トランキライザー莉理香 最初の事件 ー亜空間の檻ー  作者: Futahiro Tada
第四章:虚無の回廊

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一 無音の歩幅

一 無音の歩幅


 朝だと誰かが言った。けれど、窓の向こうの空は朝というより、夜と昼の間に挟まれた湿った傷口みたいな色をしていた。

 嵐は細くなってはいたが、止んではいない。山肌に降り続ける霧雨は、建物の表面をざらりと撫で、ガラスに粘りついた灰色の膜を残している。

 時計の針は進んでいる。けれど、ここでは時間のすべてが後から思い出すためだけの飾りになっていた。

 集会室の床には、眠り損ねた夜の残骸が散らばっている。毛布。紙コップ。破れたノート。指の跡。歯型のついたプラスチックのスプーン。

 生徒たちの顔色は、紙に写した鉛筆の下書きのように薄かった。誰かがずっと泣いていて、誰かがずっと笑っていた。笑っている方は花森あゆで、泣いている方は名前を呼ばれても振り向かない男子で、その泣き声は次第に咳と同じ音になっていった。

「…生きてる」冴子が自分の手首をつかんで、脈拍を一回ずつ数えながら言った。「まだ、生きてる」

「まだなんて言葉、安堵のふりしてるけど、あれは宣告よ」窓辺に立つ茉莉香―の身体に宿った莉理香が、静かに返す。「次のまだが切れるまで、何人の影が剥がれるのか、誰も知らない」

 本郷は一夜で老人になっていた。

 無精髭が伸びたわけでも、白髪が増えたわけでもない。ただ、背中に折り目が増えた。守ると言い続ける背中が、言い終えたあとで、頼みもしないのに折り目を増やして戻ってくる。

 彼は水筒の蓋を開けるのにも苦労していて、三度目の失敗でやっとそれが自分の手ではなく水筒側の気まぐれだと受け入れた。

「電話は?」影山が訊く。声は擦り切れて低い。

「不通だ。非常線も落ちてる。発電機はまだ動くが、メインの配電がどこかで漂ってる…漂うってのも変な言い方だが、そうとしか言えない」

 本郷の言葉には、昨夜の影を喰う口を確認した者だけが共有できる震えが混じっていた。

 莉理香は窓に額を寄せ、外の視界のピントを数段階ずらす。雲、霧、森、雨粒、ガラスの汚れ、そこに映り込んだ自分の目―その順番を入れ替え、重ね、剥がし、また重ねる。

 見えたのは、一本の廊下だった。外に?違う、外じゃない。外側の内側に伸びる、存在しないはずの通路―塔の基部から地中に潜る影のような、黒い線。

「あるわ」と、莉理香。

「何が」と、影山。

「虚無の回廊。この施設の元の設計図に描かれていない、でも使われ続けている通り道。空間の裏地に縫い込まれた縫い目みたいな」

「…見えるのか、お前には」

「推理は、見えるものから始まる。見えないものを見えるに直す作業よ」

 花森が指で空中に線を引いた。なにもない場所に一本の途切れない輪郭を描くみたいに。

「ここから、降りていくの?」

 花森の言葉に莉理香が冷静に答える。

「降りるというより、厚みを潜るの。紙の束のまん中に指を差し込むように」

「待て。危険だ」本郷が間に入る。「昨日から見てろ、お前の推理は死ぬほど正確そうで、実際に死んでる。俺はこれ以上―」

「先生」莉理香は振り向かず、雨の筋に沿って言葉を落とす。「安全な推理は、推理じゃない。わたしたちはここで現象に触れなきゃならない。誰かが先に触れて、触れた分だけ―壊れる。これは順番なんです」

「順番…」冴子の唇が乾いて鳴る。「影の、順番」

「影を喰うのは、空間の空腹です」莉理香は静かに言った。「そして空腹を宥められるのは、形だけ。だから形を持つあなたたちが選ばれる。わたしは理性で喰い止める。理性は、形のない刃物だから」

 冴子は笑った。笑おうとして笑えていない笑い。「詩人ぶらないで。わたしたちは詩じゃ死なない」

「いいえ。詩で死ぬのよ。世界を言葉に束ね直すのが詩なら、世界を殺すのも詩。名付けは呪い、呪いは構造体、構造体はここで凶器になる」

 影山が短く息を吸った。「…行こう。俺も行く」

「影山」本郷の制止は弱い。

「俺は見たいんだ。動いている地図を。俺の頭の中の線が、現実の歪みに触れる瞬間を」

「冴子は?」莉理香が問う。

 冴子は唇を引き結び、頷いた。まるで納得ではなく、納税のような頷き。「…行く。行かないで残る方が、今は恐い」

「花森は」

「うん。遊べるなら、行く」

 その言葉だけは、相変わらず無垢に残酷だった。

 結局、四人と一人(本郷)が選ばれた。残った生徒たちは集会室で二人一組になり、名前を呼び合い続けることになった。呼び名は形を繋ぎ止めるロープだ。名前を呼んでも返事のない時間が増えると、ロープはほどけていく。

 廊下は濡れていた。濡れているはずがないのに濡れていた。天井から落ちる水滴が見えない。床板は湿りを拒否する材質なのに、靴裏に小さな吸盤みたいな抵抗を作る。

 非常灯は緑色の、病院の心電図の色に似た光を吐き続けている。曲がり角を曲がるたびに、角そのものが自分の方へわずかに寄ってくる。角が近づく?角が自分を嗅いでいるようだ、と冴子が呟いて、本郷がそれを聞かなかったことにした。

 階段の踊り場、壁の点検口に封緘テープ。禁止。立入禁止。危険物。注意。

「注意って誰に向かって書かれてるんだろう」花森が首を傾げる。「注意してほしい側?それとも注意されたがってる側?」

「テープが語るとしたら『もう剥がされたくない』ね」莉理香は一枚を爪で持ち上げ、剥がさずに文字の横線の太さを測るように眺める。「最近、剥がされた跡がある。剥がしたうえで、同じ角度で貼り直してる。癖のある手首…同じ人間」

 本郷が鍵束を鳴らした。がちゃん、という金属の音が廊下に落ち、すぐに音の輪郭が丸く溶けた。

「開くのか」と、影山。それを受け、本郷が、

「開ける。…俺が」

 錠前は古い。けれど、古さが時間の蓄積ではなく図面の複写の回数に由来しているように見える。複写を繰り返すうちに微細な線が太り、太った線が意味の幅を許してしまう。施錠の意味。禁止の意味。安全の意味。

 本郷は鍵を差し込み、そっと回す。鍵穴が鍵を受け入れる音が、体温を選んでいる気配をまとっていた。カチリ、と乾いた音。内側からもう一つ、胃の底で鳴るような音。

 点検口が開く。

 開いたというより、口を開けた。

 暗闇の縁が、目ではなく嗅覚で形を持つ。埃、鉄、機械油、そして―濡れた紙。濡れた紙の匂いは、人の記憶を重くし、柔らかくし、曖昧にする。

 狭い鉄梯子を降りる。足を置くバーは一段ごとにわずかに長さが違う。工事の誤差?いや、この場所では誤差そのものが設計だ。

 茉莉香―の身体は軽く、莉理香の思考は重い。重さと軽さが背骨の途中で握手して、すぐに別れた。

 底に着くと、音が消えた。耳の中の鼓膜が、ある角度でぴたりと世界を遮断する。呼吸の音が、自分の内側だけに音量最大で響く。

 目の前に伸びているのは、回廊。幅は大人ひとり分、天井は低い。左右の壁は素材を変えながら同じ色を保っている。白。いや、白黒写真の白―情報の欠落を白と呼ぶことにした誰かの都合の白。

 影山がチョークを取り出し、壁に印をつけながら言った。「戻り道のマーカーだ。三歩ごとに」

「無意味になるわ」と、莉理香。

「なぜ」

「壁が呼吸する。チョークは呼吸で汗をかく。汗をかいた粉は壁の毛細管に吸い込まれて、痕跡に変わる。痕跡は模様に吸収される。模様は地図に変換される。地図は、ここでは凶器」

 影山はそれでも印をつけた。意味のない儀式でも、手が覚える帰りたいの形だけは残る。

 歩く。回廊は、まっすぐではない。目で見ると直線だが、歩幅で測ると曲がっている。歩幅が短くなったり長くなったりするたびに、心臓が自分に嘘をつく。

 五十歩。百歩。数は積み重ならない。百の次に九十五が来て、九十五の次に百二が来る。影山の口の中で数が崩れて粉になり、舌に付着する。

 冴子の呼吸が速くなる。「戻ろう。戻れないなら、立ち止まろう。立ち止まって、祈ろう。祈れば―」

「祈りは配管を詰まらせる」と、莉理香が言う。

「配管?」と、冴子は繰り返す。

「この回廊は施設の排気でもある。ここで祈ると、言葉が固形化して管を塞ぐ。塞がれた管は別の管を求め、別の管は別の人体に繋がる。祈りは誰かの肺に流れ込んで窒息させる。…いま立ち止まるなら、静かに」

 冴子は黙って頷いた。彼女の目の奥で、形のある恐怖と形のない恐怖が場所を取り合う。形のあるものは触れることができる。形のないものは、触れたふりをして触れ返される。

「聞こえる?」と、花森が囁く。

 聞こえる。無音の向こう側にある、未生の音。生まれていないのに、すでに懐かしい音。遠いところで雫が落ちる。滴下の間隔が合図になっていて、合図が足音に変わり、足音が息に変わり、息が―名前になる。

 誰かが誰かの名前を呼ぶ。呼ばれた名前は、呼ばれたことを知らない。知らないまま、返事だけが先に回廊を走る。返事はやがて返事自身を返す。

 最初の分岐が来た。

 分岐は三叉。どの道も薄暗い。起点の床に黒い金属板。踏むと、金属が記憶する音がして、足裏が短くしびれた。

「左は短い。右は長い。真ん中は深い」莉理香は言う。「深いは、長いと同義ではない。厚い」

「厚い道を選ぶの?」と、冴子。

「ええ。薄い道は、すぐに破れる」

 真ん中へ。

 空気が冷たくなる。冷たいが、冷たさに温度がある。温度の中に手触りがあり、手触りの端に文字がある。

 壁に、何かの走り書き。指で刻まれた傷。

《め ざ め る な》

 字が幼い。幼いけれど、力がある。力は指の節で作られている。節は階段の段差の数だけ硬くなる。

「誰が?」と、影山。

「ここで眠った人」と、莉理香。「眠って、見た。見て、書いた。書いて、消えた」

 本郷が後ろを何度も振り返る。背後の暗闇が誰かの背中の形に膨らむ。

「戻れるんだろうな」

「戻る先が同じなら」

 莉理香の返答は、慰めの構造を持っていない。事実は冷たい。でも、冷たいからこそ動かせる。温かい事実は柔らかく、握ると指の間から逃げる。

 第二の分岐。今度は四叉。ひとつの道の床に、等間隔の穴。小さな円が並ぶ。吸排気か、呼吸の孔か。

 花森がしゃがんで鼻を近づける。「匂いがする。…お菓子屋さんの、奥の棚の匂い」

「それは人間の糖度が燃えた匂いだよ」と、莉理香はさらりと言う。

 冴子が短く吐く。「やめて」

「やめない。言葉にする。言葉にしておかないと、この匂いは私たちの体内の言葉で説明され直される。それは、もっと危ない」

 右へ。壁の色が僅かに暗くなる。暗くなったというより、白の語彙が減る。

 影山がチョークで印を―付けようとして、やめた。壁の表面にかすかな汗。見えないが、指の腹で確かに感じる。汗は人間のものではない。建物の皮膚が、こちらの体温を真似て蒸散している。

 突然、ひらけた。

 広い。天井は見えない。床に同じ大きさの四角が並ぶ。タイルではない。床面を四角に切って並べたあとの凹凸の記憶。

 部屋の真ん中に、古い機械。表示板は割れて、配線がむき出し。片側からケーブル束が延びて、透明な筒の群れに繋がっている。

 筒の中に、気体。いや、声。視覚化された声。白い泡が湧いては沈み、沈んでは浮く。浮いた泡が内壁に触れると、単語に割れて消える。

《圧》《換》《境》《交》《鎖》…

「記録装置?」影山が唾を飲む。「空間の呼吸を可視化してる?」

「たぶんそう」莉理香はケーブルの一本に指を沿わせる。「ここで呼吸のタイミングを読んでいた。読んで、利用していた」

 本郷が低く呻いた。「誰がだ…誰が、こんなものを…」

「施設」と、莉理香。

「施設は人じゃない」

「人が言い訳に使う単語の中で、施設はいちばん広くて深い。ここでは犯人の仮名にちょうどいい」

 壁際に机。引き出し。引き出しの取っ手は、握ると体温に合わせて柔らかさを変える。開ける。紙束。判子。

 紙の上には実験記録―日時、配置、位相差、対象、結果。読みながら、数字が音に変わる。音が匂いに、匂いが速度に、速度が圧に。

《夜間02:13 廊下B→教室C // 位相差 +0.38 // 対象:豚肉 結果:捻回断裂(微細)》

《夜間04:39 娯楽室 // 位相差 +1.12 // 対象:模型躯体 結果:粉砕(均質)》

《昼前11:57 階段踊り場 // 位相差 +0.93 // 対象:砂袋 結果:圧縮(偏り)》

 ―見覚えのある死に方の語彙が、平然と並んでいる。

 冴子が震え、紙束を押し返した。「読まないで。読んだら、言葉が現実になる」

「もう現実よ」莉理香は紙を重ね、机の端で軽く叩いて揃える。「前史を拾っただけ」

 部屋の隅に、もうひとつの扉。扉の前にロープ。ロープはよくできた比喩だ。越えるな、触れるな、でもこちら側に意味はない。

 本郷がロープを持ち上げる。

「もう戻るべきだ」彼は言う。「ここから先は―」

「ここから先が虚無の回廊の中核」

「わかってる!だから言ってる!」

 本郷の声が割れた。彼の怒声は、自分に向けられていた。

 誰かを守れなかったという過去形が、現在にこびりついて離れない。

 怒りは守れなかった相手の形を取り、守りたかった言葉を使用不可にする。

 冴子が本郷の袖を掴む。

「先生。わたしたち、先生を責めない。先生がこれ以上、自分を責めるのを見たくないだけ」

 本郷は口を開け、閉じ、開け直して、やっと「ありがとう」が探せない代わりに「…息を整えよう」と言った。

 彼は深呼吸を三度。吸って、吐いて、吸って―三度目の吐くが吐けない。空気が喉の奥で固形化している。

 花森が背中を軽く叩いた。すると、固形化した空気は笑いになって出てきた。本郷は自分の笑いに驚いて、目尻に皺を増やした。

「行こう」と言う影山の声は先ほどよりも安定している。彼の中で地図が一枚、形になったのだ。

 莉理香がロープを跨ぐ。冴子も跨ぐ。花森はロープを結び直してから跨いだ。結び目はほどけやすく、ほどけやすい結び目は帰り道に優しい。

 扉の向こうは、細い隙間。壁と壁の間に挟まった帯。人ひとりが横向きで通れる幅。

 通るたびに、背中の骨が壁の語彙を拾う。骨で読んだ語彙は脳に送られず、骨の中で固有名詞になる。名付けられた骨はそこに残ろうとする。残るな。残るな。

 花森がくすくす笑う。「ねえ、骨がしゃべってる」

「聞くな」と、冴子が囁く。「骨と話すと、骨がついてくる」

 帯の先に、再び空間。

 そこは部屋というより、欠落だった。

 四方の壁が、同時に遠い。天井は近い。床は足の裏にあるが、足の裏が床の裏にあるようでもある。

 ここで音は言葉になる前に老いる。

 息をひとつ吐く。吐いた息が白い文字になって、天井に貼りつく。貼りついた文字が、やがて落ちてくる。

 本郷がとっさに手を伸ばして落ちてきた文字を払い落とす。手の甲に「守」の字が転写される。

「やめて」と、莉理香。「貸し借りが生じる」

 欠落の中央に、床の切り欠き。覗くと、斜めに走る更なる回廊。

 斜面に白線。白線はところどころで黒線に変わっている。黒線は白線の記憶を忘れた白。

「ここからが虚無の回廊だ」と、莉理香がはっきりと言う。「今までのは前室。ここから先は、戻るたびに同じ場所に戻らない」

「印は?」と、影山。

「音にする。三歩ごとに歌う。歌詞は無意味がいい。意味のある歌は回廊に食べられる」

「歌うのかよ…」と、本郷が困惑顔になる。

「歌わない大人は、回廊の子ども扱いを受ける」と、莉理香。

 花森が楽しそうに手を叩く。「やった、合唱だ」

 彼らは歌った。

「ららら」「ほほほ」「ぴぴぴ」「すいすい」「ねむねむ」。

 無意味を声音にして、足音と重ねて、歩幅に縫い込む。

 すると、耳の内側で何かがほどける。

 回廊の壁が、歌に興味を失う。興味を失った壁は仕事に戻る。仕事はただの壁でいること。

 斜面を下り、さらに曲がり、さらに下り、時々上る。感覚の上下が、歩幅の前後に混ざる。

 冴子がふっと笑った。「ねえ、前に落ちてるって変じゃない?」

「変じゃない」と、影山が答える。「俺はいま、後ろに登ってる」

 本郷は口を結び、前後左右上下の言葉を封印して歩く。教師である前に目撃者になってしまった自分を、せめて文法で管理しようとしている。

 と、そこで―音。

 前からではない。横からでも、後ろからでもない。斜めの音。

 金属が擦れる。子どもの靴が床を蹴る。息が詰まる瞬間の喉の鳴り。

 誰かがいる。

 いるが、この回廊では過去形でも未来形でもあり得る。

「止まらないで」と、莉理香。

「罠か?」と、影山が短く問う。

「罠は、止まっているものを捕まえる」

 進む。音は追う。いや、先回りする。

 白線が黒線に変わり、黒線が点線になり、点線が点になり、点が穴になる。

 足を踏み外す前に、足が穴の形に合わせて細くなる。細くなった足を元に戻すために、足は言葉を要請する。

「足」と、冴子が言う。

 言った瞬間、足は足として戻ってくる。名付け直しは応急手当だ。

 音が近づく。

 花森がふり返る。笑う。「ねえ、知ってる?追いかけてくる音は、追いかけられてる音なんだよ」

「どういう意味」と、冴子が訊き返す。

「音はひとりでは立てないから。私たちが足音をしたから、向こうの足音も安心して鳴れるの」

 次の隙間に、影。

 影は壁から剥がれて、床の上に落ちて、落ちた影が立ち上がる。

 人の形。だけど、塗り潰しの人。目鼻口のない顔は、見る側の顔を借りる。

 本郷が思わず一歩前に出る。「下がれ」

 影は一歩、こちらに出る。

「対称行動」と、莉理香。「合わせるな。非対称を作る」

 影に対して、彼女は横歩きで近づく。足を交差させる。背骨をわずかにひねる。まっすぐを見るふりをして、まっすぐを避ける。

 影の輪郭がすこし波立つ。

「あなたは空腹でしょう」と、莉理香は影に言う。「でも、わたしは味がしない」

 影は一瞬だけ躊躇する。空腹は味を求める。味のないものは、食事ではない。

「味のある方に行きなさい」

 莉理香は身をずらし、影を抜かせる。影はそのまま斜面を滑り、次の分岐へ吸い込まれて消えた。

 息が戻る。

 本郷が額の汗を拭って、手に貼り付いた「守」の字を見下ろす。字は薄くなっていた。守ることを、少しだけ返した印だ。

 冴子が震える声で笑う。「わたしも味、ないといいな」

「あるよ」と、花森が即答する。

「あるのか…」と、冴子の肩が少し落ちて、でもその落ち方は生き延びた人間の肩の落とし方に似ていた。

 やがて、回廊の気圧が変わる。耳が内側からぽんと鳴る。

 目の前の闇が濃縮され、そこにあるはずのない扉が浮かび上がった。

 扉は木製。金属のノブ。ノブの先に、覗き穴。覗き穴の奥は、こちらを覗いている。

「開ける」と、莉理香。

「待て」と、影山が肩で息をしながら手を伸ばす。「開ける前に、戻り道を―」

「作った」と、莉理香は背後の壁に息を書きつける。白い文字が三つ。「い」「ま」「ここ」。

 花森がくすりと笑う。「あそこの『めざめるな』の子と、友だちになれるかも」

 本郷がノブを回す。ひやりとした金属が、触れられたことで音階を変える。

 扉が開く。

 開いた先は、教室だった。

 見覚えのある黒板。見覚えのある机。窓。カーテン。

 ただし―机の脚が天井に生えている。

 床に黒板。

 壁に窓。

 窓の向こうに海。

 海の上でメリーゴーランドが回っている。音はしない。馬の目は閉じている。

 黒板にはチョークで、反転した文字。

《ま だ め れ ざ》

 冴子が口を押さえる。「嫌だ」

 影山は震える手でノートを開く。ページの行が縦に並ぶ。ペン先が天井に落ちる。

 本郷は笑ってしまう。笑いながら涙がこぼれる。「授業か…授業、できるかな」

 花森は窓辺へ歩き、海の上の回転木馬に手を振る。「いま行くね」

「行かない」と、莉理香が腕を掴む。掴んだ手に、誰かの体温が返ってくる。

 花森の目が、やっと少し湿る。「…うん」

 教室の隅、扉。

 その扉の上に、小さなプレート。

《職員室》

「先生」と、莉理香が呼ぶ。

 本郷は頷く。自分のために作られた罠だとわかっても、行かねばならないところが人にはある。

 彼が扉に手をかける。

 ―その瞬間、教室の天井(つまり床)が、呼吸した。

 天井の机の脚が伸びる。

 脚は針に、針は糸に、糸は文字に変わる。

 針糸文字が絡まり、誰かの名前を縫い始める。

 冴子が叫ぶ。「やめて!」

 影山が走る。花森が笑う。

 莉理香は―見た。

 縫われていく名前。

《あ す か》

《ろ く ろ う》

《だ ま し い》

 死者の名前が、教室に縫い戻される。

 戻されるは戻ってくるではない。

 糸の先が、生者の指先に刺さる。

 本郷の指から血が滲む。

 冴子の爪が割れる。

 影山の手の甲に、見覚えのある「圧」の字。

 花森の掌に、小さな回転木馬が刻印される。

「虚無は空っぽじゃない」と、莉理香が吐き捨てる。「返却口だ」

 彼女は黒板に走り、反転した文字をひっくり返す。

《め ざ め る な》

 チョークが折れる。空気が切り替わる。

 天井の脚がたわみ、糸がほどけ、名前が沈む。

 海のメリーゴーランドが止まる。

 止まったメリーゴーランドの馬の目が開く。

 目はこちらを見ない。斜めを見る。斜めは回廊の方向だ。

 職員室の扉が自動的に開く。

 内側に、机。茶渋のついたマグ。名札。

 名札には、本郷の文字。

 本郷が息を呑む。「これは―」

「ここであなたが何者だったかを教えるための部屋」と、莉理香。「あなたを返却するための窓口」

 机の上に、紙片。

《引率教員 記録係/夜間巡回責任者》

 そこに細い字で追加の書き込み。

《試験夜間 運用 補助》

 さらに別のペンで。

《起動》

 本郷が震える。「俺は知らない。聞いてない。起動なんて―」

「起こしたのよ、何かを。あなたが。たぶん知らないふりのまま」

 と、莉理香が言うと、本郷が、

「ちがう!」

「違っていてもいい。事実は感情に従属しない」

 その冷酷な言葉が、本郷の胸を刺す。刺さったのは言葉ではなく、既視感。

 夜、巡回。

 鍵。

 点検口。

 呼吸するカーテン。

 ―起動。

 手順を踏んだだけの、起動。

 雨脚が一瞬だけ強くなる音が、屋内で鳴る。

 窓の海は消え、黒板が床へ戻り、机の脚が天井へ戻り、教室は教室のふりを始める。

 虚無の回廊は、満足するとふりをする。

 ふりの時間は短い。短い間に、次が来る。

「戻る」と、莉理香が言う。

 誰も反対しない。

 彼らは回廊へ引き返す。歌う。ららら。ねむねむ。ほほほ。

 背中に、職員室のドアが閉まる音。

 閉まる音はまた来いの音だ。

 また来い。返却は終わっていない。

 帰路の分岐は、来るときより少ない。

 少ないのに、遠い。

 壁に貼った「い」「ま」「ここ」の文字は、位置を移動していた。

 戻り、上り、下り、横へ、斜めへ。

 集会室のドアの向こうから、人の声。名前の呼び合い。ロープ。

 本郷はドアを押す。

 集会室―だった部屋が、そこにある。

 人がいる。

 数は合わない。

 いる人数は影の数と合うのに、声の数と合わない。

 声が足りない。

 冴子が駆け寄る。「みんな―」

 花森が手を振る。「ただいま」

 影山が数える。数は合わない。合わないのに、合えと言われている。

 本郷が名簿を掴む。手が震える。名簿の行が縦に歩く。

「誰が―」

 問う前に、誰かが泣く。誰かが笑う。誰かが黙る。

 黙った人の影が、すこし薄い。

 莉理香は、静かに立つ。

 虚無の回廊は、幕間を作った。幕間の時間は、説明を許さない。

「始まるわ」

 誰に言うでもなく、莉理香は告げる。「第四章の本番が」

 窓の外で、雨が止むふりをした。

 止んだように見える雨は、屋根裏で集め直されていた。

 集め直された雨は、次のための水。

 建物は深く息を吸い、吐く準備をする。

 虚無の回廊が、喉を鳴らす。

 そのとき、花森がぽつりと言った。

「ねえ、茉莉香ちゃん。あなたは、どっちの世界の子?」

 問いはやわらかく、刃はやさしく、しかしよく切れた。

 莉理香は、答えない。

 答えは、答える前に代わりに存在してしまうものだから。

 彼女はただ、天井の呼吸を数え始めた。

 次の位置を、聞き分けるために。

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