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トランキライザー莉理香 最初の事件 ー亜空間の檻ー  作者: Futahiro Tada
第五章:回廊の心臓

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四 再生の影

四 再生の影


 ―光の渦の中で、茉莉香は漂っていた。

 上下も、前後もない。時間という概念も、言葉の区切りも消え去っている。

 ただ、自分の輪郭がかすかに震えているのがわかる。

 身体があるのかも分からないのに、「自分」という実感だけが確かにそこに残っている。

(ここは…どこ?)

 声を出そうとしたが、音は出なかった。代わりに、空間そのものが彼女の意識を反射して返す。

 ―ここは「内」だ。

 ―おまえが失くした影の再生域。

 耳の奥で、莉理香の声が聞こえた気がした。

 懐かしい、冷たくて美しい声。

 あの声が、茉莉香を「事件」から、「虚無」から、「狂気」から守ってくれた。

(莉理香…?消えたはずじゃ…)

 ―消えたのは形。だが、影は戻る。

 ―影は、光の中に溶けて初めて自由になるのよ。

 そう囁く声が、まるで母親のように優しく、しかし底の方でひどく哀しかった。


* * *


 まぶたが開いた。

 そこは―見慣れた宿舎の部屋だった。

 白いカーテン、木製の机、そして窓の外には朝の光。

 だが、その光にはどこか違和感があった。

 暖かくもなく、冷たくもなく、まるで「誰かの夢の中の光」のような、質感のない明るさ。

 ベッドの隣には冴子が座っていた。

 顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「茉莉香!よかった、やっと目が覚めた…!」

 声を上げた瞬間、冴子の肩が震えた。

 その隣には影山、本郷、楡原、花森―全員がいた。

 ただ、その表情には、それぞれ違う「種類の静けさ」があった。

 本郷は目を閉じて安堵の息を吐き、

 影山は何かを計算するように床を見つめ、

 楡原は光に透けた自分の影を見て微笑んでいた。

 花森だけが、相変わらず楽しそうに茉莉香を覗き込んでいた。

「夢を見てたの?」と、花森が尋ねた。

 茉莉香は一瞬ためらい、首を横に振った。

「夢じゃない。全部…現実だった」


* * *


 起き上がった瞬間、頭の奥で何かが震えた。

 脳のどこかに「亜空間の匂い」が残っている。

 それは鉄錆と血と、焼け焦げたインクの匂い。

 ―莉理香の声が遠くに残響していた。

(事件は終わった。推理も終わった。けれど…)

(終わったのは、何の終わりだったの?)

 茉莉香の脳裏に、莉理香の最後の言葉が蘇る。

 ―「返却規則を返却で壊す」

 その理屈は今でも理解できない。

 でも確かに、あの瞬間、何かが変わった。

 世界の構造そのものが「書き換え」られたのだ。

 窓の外では、鳥の声が聞こえていた。

 あまりにも普通すぎて、怖いくらいに穏やかだった。


* * *


 その日の午後、彼らは校長と地元警察の聴取を受けた。

 林間学校中に発生した「一連の死亡事故」―そう報告されていた。

 だが、その事故の記録には、信じがたい矛盾があった。

 死亡者として報告されている生徒たち―飛鳥、大沼、六郎。

 だが、彼らの遺体は見つからなかった。

 しかも、宿舎の監視カメラには、事件の夜、誰も外へ出入りしていない。

 警察は「集団幻覚」や「ガス中毒」などを疑ったが、確証は得られず。

 報告書は不可解な一件として処理された。

 だが、茉莉香たちは知っていた。

 彼らは死んだのではない。返却されたのだ。

 ただの死ではなく、存在の貸し出しが終わっただけ。

 それがこの事件の本質だった。


* * *


 日常が戻ったように見えたのは、ほんの数日のことだった。

 最初に異変に気づいたのは影山だった。

 ノートに図を書こうとしても、線が歪む。

 ペンを動かしているのに、インクが反対方向に伸びていく。

「…紙が、逃げてる?」

 冴子は鏡の前で立ち尽くしていた。

 自分の影が、鏡の中で遅れて動くのだ。

 微妙に、タイミングがずれている。まるで、もう一人の自分が中で迷っているかのように。

 本郷の机の上には、彼の古い教え子のノートがあった。

 その中の一ページが、ひとりでに開いた。

 開いた先には―返却済の印が押されていた。

 楡原は、自分の足元を見下ろして笑った。

「影が…戻ってきた」

 確かに、彼の影は完全に戻っていた。

 だが、動きがどこか違う。

 まるで、彼自身ではなく、別の何かが影を動かしているように見えた。

 花森だけが変わらなかった。

 ただ静かに笑いながら言った。

「みんな、戻ってきたね。莉理香もきっと、どこかで見てる」


* * *


 その夜、茉莉香は眠れなかった。

 宿舎を離れ、自宅に戻っても、心臓の鼓動が耳の奥で響いている。

 静かな夜。窓の外では、夏の終わりの風が吹いていた。

 カーテンがふわりと揺れた。

 その隙間に、黒い影が立っていた。

 彼女だった。

 莉理香。

 けれど、それは以前のような実体ではない。

 まるで映像の残像のように、透けた姿でそこに立っていた。

「…莉理香?」と、茉莉香。

「おはよう。いや、おやすみかな」

 莉理香の声は柔らかかった。

 しかし、どこか遠い。空間の奥から響いているような、不思議な距離感があった。

「あなた…消えたはずじゃ…」

「ええ。消えたわ。でも、影としてなら、少しだけ戻れた」

「影…?」

「あなたが私を思い出したから」

 莉理香は微笑んだ。

 その笑みは、光の中でわずかに滲んで、崩れていくようだった。

「茉莉香。探偵というのは、推理するために生まれるんじゃない。

 問いを残すために生きる存在なの」

 その言葉が胸に刺さった。


* * *


 朝になった。

 莉理香の姿はもうなかった。

 窓辺には白い花弁が一枚だけ落ちていた。

 茉莉香はそれを拾い上げ、胸のポケットにしまった。

 鏡の中の自分を見つめる。

 少しだけ、瞳の奥が深くなった気がした。

(莉理香…あなたは、消えてなんかいない)

(あなたは、私の中で、影として生きている)

 茉莉香は机の上に一枚の紙を置いた。

 そこには、震える手でこう書かれていた。

 ―「トランキライザー莉理香 第一事件 完」

 そしてその下に、もうひとつの小さな文字が滲んでいた。

 ―「第二事件:屍人の鎮魂歌」

 ペンを置いた瞬間、茉莉香は小さく笑った。

 その笑い方が、どこか莉理香に似ていた。

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