四 深淵の囁き
四 深淵の囁き
嵐はまだ収まらなかった。
窓を揺さぶる風音と、軋む梁の唸り。
そのすべてが、不吉な合奏曲のように響いていた。
生徒たちは集会室に固まっていたが、恐怖のあまり誰も眠れない。
椅子に座り、膝を抱え、目を閉じても、耳の奥で─声がする。
─つぎはおまえだ。
─ひとのかたちをしたものは、すべて崩れる。
─わらうな。泣け。叫べ。
囁きは幻聴か、あるいは建物そのものの呻きか。
それを判別する余裕は誰にもなかった。
* * *
「もう、限界だ…」本郷がうわ言のように呟いた。「俺は教師だ…守らなきゃならない…なのに…」
額に汗をにじませ、瞳は虚ろ。
彼の声は、もはや生徒を安心させるものではなかった。
冴子が叫ぶ。
「先生に任せてても意味ないじゃない!三人も死んでるのよ!」
その瞬間、均衡は崩れた。
叫び声が飛び交い、机が倒され、椅子が乱暴に蹴り上げられた。
全員が互いを疑い、互いを罵り、恐怖を押し付け合う。
* * *
茉莉香の肩が震える。
目が冷たく光り、唇がゆっくりと歪んだ。
「愚かね」
莉理香が現れた。
その声は嵐の轟音よりも鮮烈に室内を支配した。
「争っても無駄です。ここはすでに閉じた舞台。観客席も出口もない。あるのは、役者と犠牲者だけ」
彼女の冷笑に、誰も反論できなかった。
否応なく全員が「犠牲者」という言葉を自分に重ね、息を呑んだからだ。
* * *
影山が立ち上がった。
「…じゃあ、どうすればいい。俺たちはただ待つだけなのか?」
莉理香は彼を見据える。
「観察することです。境界の揺らぎを、よく見る。次の犠牲がどこで生まれるか、それを見届ける」
「見届ける…?止めるんじゃなくて?」
影山の声は震え、唇が蒼白になっていた。それを受け、莉理香が、
「止めるには、まず仕組みを知らなければならない。犠牲は、そのための代償」
影山は絶句した。
正義感も理屈も、この言葉の冷酷さの前には意味を持たなかった。
* * *
そのとき花森が笑った。
「やっぱりそうだよね。遊園地なんだ。アトラクションなんだ。順番に殺されるの、きっと演出なんだよ」
「やめろ!」冴子が泣きながら叫ぶ。「ふざけないでよ!あんたおかしい!」
花森は首を傾げた。
「おかしいのは世界の方だよ。…あたしたちはもう、とっくにこっち側に飲み込まれてるんだよ」
その言葉に、誰も笑えなかった。
* * *
─そのときだった。
部屋の天井がミシリと鳴り、窓ガラスがビリビリ震えた。
嵐の音に紛れて、確かに声が聞こえた。
─つぎは…だれ。
─つぎは…だれ。
子どもたちは耳を塞いだ。だが声は頭蓋骨の内側で鳴り響く。
莉理香は目を細めた。
「…囁きが深淵から漏れ出している。境界の向こう側にいる何かが、呼吸しているのよ」
本郷が震える声を絞り出す。
「…それは、人間なのか…?」
莉理香はゆっくり首を振った。
「いいえ。人間ではない。けれど、人間の形を欲している」
* * *
その説明で、生徒たちの心は完全に崩れた。
泣き叫ぶ者、壁を叩く者、床に丸まる者。
人間の秩序は失われ、残ったのは獣の群れのような混乱だけだった。
「もういやだ…出してくれ…」
「殺される…殺される…!」
「次は俺じゃない…俺じゃない…」
生徒たちの囁きはその恐怖を増幅させる。
─だれ。だれ。つぎは。
* * *
窓際に立ち、嵐を背にした莉理香は、低く独白する。
「これが深淵の囁き。犠牲を重ねさせるための誘惑。…だが、わたしには聞こえている」
莉理香は微笑む。そして、
「次の犠牲が、もう影を落としている」
その声は甘美で残酷。
全員がその言葉に縛られ、未来の死を想像してしまう。
* * *
─ゴウン。
建物全体が大きく揺れた。
床が波打ち、窓が歪み、照明が緑に滲む。
空間が、また動き始めている。
莉理香は静かに笑った。
「深淵が口を開ける。次の囁きは、現実になる」
その瞬間、誰もが息を呑んだ。
闇が、囁きを孕みながら、ゆっくりと近づいてきていた。




