二 崩れる均衡
二 崩れる均衡
六郎ピラミッドの死体は、あまりにも異様だった。
─二次元化した人間。
床と天井の圧に挟まれて薄っぺらに潰れた少年は、もはや死体というより壁に貼られた影のようだった。
その場に居合わせた者たちは、誰も言葉を失った。
ただ、喉の奥で短い嗚咽を噛み殺す音や、息が裏返る音だけが空気を震わせていた。
「…三人目、か」
影山が低く呟いた。だが誰も返さなかった。
これまでの均衡─「まだ大丈夫」「次は起きないかもしれない」─そんな淡い希望は、完全に粉砕された。
* * *
冴子が突然叫んだ。
「もう嫌!もう無理!絶対に誰かが殺してるんだってば!こんなの自然に起きるわけないじゃない!」
涙で顔を濡らしながら彼女は指を振り回した。
「怪しいのは……やっぱり茉莉香よ! だってあんた、さっきから別人みたいな顔して…!あの探偵とか言ってる人格、絶対ヤバいわ!」
その言葉に数人が頷いた。
「そうだ…普通じゃない…」
「さっきも平然と現場を見て…」
「人間じゃない…」
生徒たちのそのざわめきは恐怖を凝縮させ、次第に「茉莉香=犯人」という均衡のない図式を作り上げていった。
* * *
しかしその瞬間、茉莉香の唇が冷たい笑みを形作った。
─莉理香が再び前に出てきたのだ。
「愚かですね」
莉理香のその一言で、ざわめきが凍る。
空気が一変する。さっきまで恐怖にすがり合っていた者たちが、一斉に後ずさった。
「あなたたちの疑いは筋違い。わたしが犯人なら、なぜ自分で自分を追い詰める必要があるの?」
莉理香は薄く笑みを浮かべながら、潰れた死体のそばに立った。そして続けて、
「見なさい。この死体の形。これは人間の力ではあり得ない。ここで使われているのは─空間の圧縮」
言葉は冷たいが、同時に魅了する力を持っていた。
皆がその声に呑み込まれる。
* * *
本郷が顔を歪め、言葉を吐き出す。
「ふざけるな…子どもを守らなきゃならない俺の立場で…こんな…!」
本郷の声は震えていた。怒りではない。恐怖と無力感。
教師としての均衡が崩れ、ただの一人の人間に戻ってしまった男の声だった。
莉理香は彼をまっすぐ見ながら言った。
「先生、あなたも気づいているはずです。昨夜、カーテンが膨らんだのを見たでしょう。廊下の窓、風がないのに」
本郷の表情が硬直する。
否定できない。認めれば常識が崩れる。
その狭間で、男の顔は崩壊していった。
* * *
静寂を破ったのは、花森あゆだった。
「ねえ…もしかして、これ全部、遊園地なのかもよ」
その言葉に、全員が振り向く。
「遊園地?」
と、ある生徒が口を開く。すると花森は、
「だってさ、部屋が回ったり、潰れたり、切り刻んだり…まるでアトラクションでしょ?誰かがわたしたちを招待して、遊んでるんだよ」
無邪気な声。
だが、その笑みは異様に冷たかった。
「…頭がおかしいのか」
冴子が吐き捨てた。
だが心の奥では、誰もが「もしかしたら」と思ってしまう。
* * *
集会室に戻った一行は、すでに均衡を失っていた。
疑い、怒り、無力感。
それらが互いを削り合い、心をバラバラにしていく。
影山は手帳に震える手で線を引き続けていた。
「…時間…ズレ…間隔…」
何かを必死に記録しようとしている。
冴子は椅子に座り込み、爪を噛んでいた。
「絶対…あの子よ…あの子が全部…」
本郷は壁にもたれ、顔を覆っていた。
教師という均衡はもうどこにもない。
そして花森は、ただ無邪気に笑っていた。
「次は誰かな。ね、莉理香ちゃん」
* * *
莉理香は一人、窓際に立ち、嵐の夜を見つめていた。
外では木々が折れ、雷光が森を切り裂いている。
『これで均衡は完全に崩れた。次に死ぬのは、恐怖に呑まれた者。
この檻は、人間の心を潰すための舞台でもあるのよ』
その言葉は、彼女の胸の内で凍りついた鐘のように鳴り響いた。
* * *
─ゴウン。
建物全体が揺れる。
まるで深呼吸する怪物の体内にいるかのような振動。
非常灯が緑色に滲み、影が二重に重なる。
恐怖に支配された子どもたちが、一斉に息を呑む。
莉理香は口元に笑みを浮かべた。
「次の幕は、すぐに開くわ」
その声は嵐の轟きと混じり、誰の耳にも届いたのか届かなかったのか、わからなかった。




