9. 魔力暴走
――空気が、変わった。
それは、本当に一瞬のことだった。
いつものように、私はルシエル様を抱いて廊下を歩いていた。
魔王城の黒い窓からは、赤い空が見える。
魔族たちは道をあけ、恭しく頭を下げる。
「みりあ、そと」
ルシエル様が、私の服を引っ張った。
「外に行きますか?」
「……うん」
最近、言葉が少しずつ増えてきた。
「みりあ」「すき」「おそと」「あそぶ」――
どれも、私にとって宝物みたいな言葉だ。
「じゃあ、中庭に行きましょう。お散歩ですね」
「……!」
ルシエル様の赤い瞳が、きらっと光る。
その笑顔を見ているだけで、胸があたたかくなる。
――このときまでは、何の不安もなかった。
中庭は、魔王城の中で、唯一緑がある場所だった。
黒い石畳の隙間から生えた、強い草。
魔力に耐えられるように改良された、暗い色の花。
空は赤いのに、ここだけ少し柔らかい空気が流れている。
私はルシエル様を地面に降ろした。
「ほら、歩いてみますか?」
「……あるく」
よち、よち。
まだ不安定だけど、ちゃんと自分の足で進んでいる。
その一歩一歩が、たまらなく愛おしい。
「すごいね、ルシエル様。上手上手」
「みりあ、みて」
「見てるよ。ちゃんと見てる」
ルシエル様は振り返って、にこっと笑った。
――その瞬間だった。
空気が、びりっと震えた。
「……ん?」
私の腕の産毛が、ぞわりと逆立つ。
……魔力?
ルシエル様の周りの空間が、じわじわと歪み始めていた。
風がないのに、草が揺れる。
花びらが逆方向にめくれ上がる。
空気が重く、熱く、ざらついていく。
「ルシエル様?」
私が呼ぶと、ルシエル様はきょとんとした顔で自分の手を見つめていた。
小さな指先から、黒い霧のような魔力が、ふわりと漏れ出している。
「……あ」
ルシエル様の表情が、初めて見る困惑に変わった。
「みりあ……へんなの、でる……」
まずいっ!
私は一歩、駆け寄ろうとした。
その瞬間――
ドンッ!
地面が爆発した。
「っ……!」
ルシエル様の足元の石畳が砕け、黒い魔力が柱のように噴き上がる。
中庭の花が一瞬で枯れ、空気がさらに重くなる。
遠くで、魔族たちの叫び声が聞こえた。
「魔王様の魔力が暴走している!」
「結界を張れ!急げ!」
「乳母殿をお守りしろ!」
結界なんて張らせたら――この子は閉じ込められたって思う
それだけは、絶対に嫌だった。
私は叫んだ。
「誰も近づかないで!結界も張らないで!」
魔族たちが息を呑む気配がした。
「で、ですが乳母殿――!」
「このままでは中庭が――」
「いいから!この子は、私が止める!」
私は、黒い魔力の柱に向かって走った。
熱い。
痛い。
肌が焼けるような感覚。
でも、怖くなかった。
この子が一番、怖いんだ。
ルシエル様は、黒い魔力の中心で立ち尽くしていた。
赤い瞳が、大きく見開かれている。
その目には、はっきりと恐怖があった。
「……みりあ……」
震える声。
「こわい……」
胸が、締めつけられた。
そうだよね。
自分の中から、こんなものが出てきたら……怖いよね。
私は、黒い魔力の中に飛び込んだ。
「乳母殿――ッ!」
誰かの叫びが聞こえたけど、もう遅い。
視界が黒く染まる。
耳鳴りがする。
体が重い。
でも――
ルシエル様の姿だけは、はっきり見えた。
小さな体が、自分の魔力に飲み込まれそうになっている。
「ルシエル様!」
私は手を伸ばした。
指先が、黒い魔力に触れる。
ビリッ!
電流のような痛みが走る。
皮膚が裂けるような感覚。
骨の奥まで焼かれるような熱。
……っ……!
思わず膝が折れそうになる。
でも、止まらない。
私はさらに一歩踏み込んだ。
「ルシエル様!」
今度は、はっきりと届いた。
ルシエル様の赤い瞳が、私を見た。
「……みりあ……?」
涙で滲んだ目。
助けを求める子どもの目。
私は笑った。
こんな状況なのに、自分でも驚くくらい、自然に笑えた。
「大丈夫。ミリアがいます」
私は、黒い魔力の中で、ルシエル様をぎゅっと抱きしめた。
ドクン。
何かが、繋がる感覚がした。
ルシエル様の魔力と、私の中の何かが、触れ合う。
……ああ、これか。
前から薄々感じていた。
私はただの魔族じゃない。
この世界に呼ばれたとき、何か特別なものを一緒に持ってきている。
それは――
「この子を受け止めるための器」
黒い魔力が、私の体の中に流れ込んでくる。
熱い。
苦しい。
でも、不思議と怖くない。
この子の「怖い」を、私が半分もらうだけ
私は、ルシエル様の背中を優しく撫でた。
「大丈夫、大丈夫。怖いの、ミリアが一緒に持ちますから」
ルシエル様の体が、びくっと震えた。
「……みりあ……」
小さな手が、私の服をぎゅっと掴む。
「こわい……こわいの、やだ……」
「ええ。そうですね。でもひとりで怖がらなくて大丈夫ですよ」
私は耳元で囁いた。
「怖いときは、『みりあ』って呼んでください。何回でも、何回でも」
ルシエル様は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、必死に口を動かした。
「……みりあ……!」
その瞬間――
黒い魔力が、ふっと弱まった。
空気の重さが、少しだけ軽くなる。
私はさらに強く抱きしめた。
「そう、上手。もっと呼んで。怖いときは、ちゃんと『助けて』って言っていいんです」
「みりあ……!みりあ、みりあ、みりあ……!」
ルシエル様の声が、震えながらも、はっきりと響く。
それに呼応するように、暴走していた魔力が、どんどん静まっていく。
黒い霧が薄くなり、柱のように噴き上がっていた魔力が、ただの風に変わっていく。
やがて――
中庭を包んでいた黒い気配は、跡形もなく消えた。
残ったのは、私の腕の中で泣きじゃくる、ひとりの赤ちゃんだけ。
「……ひっ……く……」
ルシエル様は、しゃくりあげながら私にしがみついている。
私は背中をポンポンしながら、ゆっくりと息を吐いた。
……止まった。
勝算ががあったとはいえ、疲れた……
体中が痛い。
頭もくらくらする。
でも――
「よく頑張りました、ルシエル様」
私は、心からそう言えた。
「怖かったでしょう?でも、ちゃんと『みりあ』って呼べた。それだけで、すごいことですよ」
ルシエル様は涙で濡れた顔を上げた。
「……みりあ……」
「うん。ここにいます」
私は笑った。
「ルシエル様が呼んでくれる限り、ミリアは何度でも来ますから」
赤い瞳が、少しだけ安心したように細められる。
「……みりあ……すき……」
胸が、ぎゅっとなった。
「ミリアも、大好きです」
私は、この小さな命を抱きしめながら、はっきりと自覚した。
この子の「闇」は、私が一緒に抱える。
たとえ体が壊れても。
たとえ寿命が削れても。
この子が、ひとりで震えなくていいように。
少し離れた場所で、魔族たちが呆然と立ち尽くしていた。
「……魔力の暴走が……止まった……」
「結界も、封印も、何も使わずに……」
「乳母殿が……抱きしめただけで……」
ゼファードさんは、拳を握りしめながら呟いた。
「ミリアは…… 魔王様の『檻』ではなく……『器』なのかもしれんな……」
大賢者バルドさんは、震える声で言った。
「いや……『器』などという言葉では足りん。あれは……『母』だ」
魔王軍の幹部たちは、誰一人として笑わなかった。
ただ、中庭の中心で小さな魔王を抱きしめる人間の女を、畏敬の眼差しで見つめていた。
――この日を境に。
魔王ルシエルの「暴走」は、ただの災厄ではなくなった。
それは、ミリアとルシエルが「繋がる」ための合図になった。
そして、魔王軍の誰もが理解した。
この子を本当に止められるのは、ただひとり――
乳母ミリアだけだ。




