10. 離乳食
――その日、魔王城の厨房は異様な緊張に包まれていた。
「乳母殿……!」
「魔王様の離乳食が……ついに……!」
「我ら魔族の未来がかかっております……!」
いや、ただの離乳食なんだけど……
私は苦笑しながら、小さな椅子に座るルシエル様の前に立った。
ルシエル様は、黒いハイチェアにちょこんと座り、赤い瞳をきらきらさせている。
「……みりあ……?」
「うん、今日は、ルシエル様の初めての離乳食ですよ」
「……りにゅ……?」
かわいい。
魔族たちは壁際で震えている。
「魔王様が……初めての食事を……!」
「乳母殿、どうかご無事で……!」
いや、そんな危険じゃないから……たぶん。
私は、スプーンを見せた。
「ほら、これで食べます」
ルシエル様は、じーっとスプーンを見つめ――
「……つん」
指でつついた。
スプーンがカランと揺れる。
その瞬間、魔族たちが叫んだ。
「魔王様が……スプーンに触れられた……!」
「なんという神聖な儀式……!」
いや、ただ触っただけ。
ルシエル様はスプーンを掴み、自分の口に持っていこうとする。
「そうそう、上手ですよ」
「……ん……」
でも、スプーンは口の横に当たる。
「……んんんんんっ……!」
かわいい……
私はそっと手を添えた。
「こうですよ、ルシエル様」
ルシエル様は私の手をじっと見て、真似しようとする。
「……みりあ……すごい……」
褒められた……かわいい……
私は小さなスプーンに、魔族用に調整した魔力に耐えるおかゆをすくった。
「はい、あーん」
ルシエル様は、口を開ける。
「……あ……」
ぱくっ。
その瞬間――
ルシエル様の赤い瞳が、ぱあっと輝いた。
「……おいしい……!」
言った……!おいしいって言った……!
魔族たちが崩れ落ちる。
「乳母殿……!」
「魔王様が……おいしいと……!」
「これはもう……乳母殿の料理が世界を救う……!」
いや、ただのおかゆなんだけど。
ルシエル様は、嬉しそうに手を伸ばした。
「……もっと……!」
「はいはい、どうぞ」
ぱくっ。
「……おいしい……!」
天使……いや魔王だけど……
しかし――
3口目で事件は起きた。
ルシエル様がスプーンを掴もうとして、手が滑った。
スプーンが床に落ちる。
カラン。
「……!」
ルシエル様の表情が曇る。
「……みりあ……たべれない……」
あ、これは……
ルシエル様の目に、涙が溜まる。
「……たべたい……のに……できない……!」
ドンッ!!
黒い魔力が爆ぜた。
床がひび割れ、食器が宙に浮く。
魔族たちが悲鳴を上げる。
「ぎゃああああ!!」
「魔王様が、食べられないだけで世界が割れる!!」
「乳母殿、退避を!!」
いや、退避しないから!
私は、ルシエル様の前にしゃがんだ。
「ルシエル様。『できない』って言っていいんですよ」
「……できない……やだ……!」
「じゃあ、『みりあ、てつだって』っては、言えますか?」
ルシエル様は、涙をぽろぽろこぼしながら言った。
「……みりあ……てつだって……!」
その瞬間――
黒い魔力がふっと消えた。
私はスプーンを拾い、ルシエル様の手にそっと添えた。
「はい、一緒にやりましょう」
ルシエル様は私の手をぎゅっと握り、スプーンを口に運んだ。
ぱくっ。
「……できた……!」
「はい、できました」
ルシエル様は、嬉しそうに笑った。
「みりあ……すき……!」
かわいすぎて無理……!!
食べ終わったルシエル様は、私の胸に顔をすり寄せた。
「……おなか……ぽかぽか……」
「よかったです」
「……みりあ……たべさせてくれて……ありがと……」
私はそっと抱きしめた。
「どういたしまして。ルシエル様の初めてを一緒にできて嬉しく思います」
ルシエル様は、満足そうに目を閉じた。
「……みりあ……すき……」
魔族たちは、涙を流しながらひざまずいた。
「乳母殿……!」
「魔王様の離乳食を成功させた……!」
「これはもう……母君を超えて……聖母……!」
いや、ただの離乳食なんだけど……




