11. イヤイヤ期
――その日、魔王城は朝からざわついていた。
「魔王様の魔力が……朝から揺れている……」
「乳母殿、今日はお気をつけください……」
「イヤイヤ期……というものが、始まったのでは……?」
魔族たちが、震えながら私に報告してくる。
イヤイヤ期……ついに来たか。
私はルシエル様を抱きながら、その小さな顔を覗き込んだ。
「ルシエル様、おはよう」
「……や」
出た、「や」。
昨日までは「みりあ」「すき」しか言わなかったのに、今日は朝から「や」しか言わない。
「じゃあ、抱っこは?」
「や!」
「お着替えしよ?」
「やぁぁぁぁぁ!!」
あ、これは本格的なイヤイヤ期だ。
魔族たちがざわつく。
「魔王様が……乳母殿に反抗を……!?」
「世界が……終わる……」
「乳母殿、どうかご無事で……!」
……いや、ただの成長だから。
いつもながら、大袈裟……
私は、ルシエル様の寝間着を、脱がせようとした。
「ルシエル様、手をあげてー」
「やだ!」
「お洋服着ないと寒いよ?」
「やだぁぁぁぁぁ!!」
ドンッ!!
黒い魔力が爆ぜ、クローゼットの扉が吹き飛んだ。
魔族たちが悲鳴を上げる。
「ぎゃああああ!!」
「魔王様が服を拒否して、城が破壊される!!」
「乳母殿、どうかご無事で!!」
いや、服が嫌なだけだから……!
私はルシエル様を抱きしめた。
「ルシエル様、服が嫌なんじゃなくて……『今は着たくない』んですよね?」
「……っ」
ルシエル様の赤い瞳が揺れる。
「じゃあ、ルシエル様が『着る』って言うまで待ちます」
「……きる」
「はい、上手」
魔力がすっと静まった。
魔族たちが感動で泣く。
「乳母殿……!」
「魔王様のイヤイヤ期を……言葉で鎮めた……!」
「なんという母性……!」
昼食の時間。
私はスプーンを差し出した。
「はい、あーん」
「やだ」
「一口だけでも?」
「やだぁぁぁぁぁ!!」
ドォォォン!!
黒い魔力が爆発し、テーブルが真っ二つに割れた。
魔族たちが吹き飛ぶ。
「ぎゃああああ!!」
「魔王様が離乳食を拒否して、世界が割れる!!」
「乳母殿、避難を!!」
避難しないでよ!
私は、ルシエル様の前にしゃがんだ。
「ルシエル様、ご飯が嫌なんじゃなくて……遊びたいんですよね?」
ルシエル様は、涙目で頷いた。
「……あそぶ……」
「じゃあ、一口食べたら遊びましょう」
「……ひとくち……?」
「そう、一口だけ」
ルシエル様は、スプーンをじっと見つめ――
ぱくっ。
魔力が静まった。
魔族たちが崩れ落ちる。
「乳母殿……!」
「魔王様が……交渉に応じられた……!」
「これはもう……母君……!」
午後。
私はルシエルに手を伸ばした。
「抱っこします?」
「や!」
あ、来た……「抱っこイヤ」
でも、ルシエル様は、私の服をぎゅっと掴んでいる。
本当は抱っこしてほしいんだ。
私はしゃがんで、ルシエル様と目線を合わせた。
「ルシエル様。抱っこいやって言ってもいいです。 でも、抱っこしてほしいときは……「みりあ、だっこ」って言ってくださいね」
ルシエル様、は唇を震わせた。
「……だっこ……」
「はい、どうぞ」
私はそっと抱き上げた。
ルシエル様は胸に顔を埋め、小さな声で呟いた。
「……みりあ……すき……」
魔族たちが泣き崩れる。
「乳母殿……!」
「魔王様が……自分の気持ちを言葉に……!」
「これはもう……育児ではなく奇跡……!」
夕方。
突然、ルシエル様が泣き出した。
「みりあぁぁぁぁ!!やだぁぁぁぁぁ!!」
理由はない。
ただ泣きたいだけ。
でも魔王なので――
ドォォォォォォン!!
黒い魔力が暴走し、廊下の壁が吹き飛んだ。
魔族たちが逃げ惑う。
「ぎゃああああ!!」
「魔王様が理由なく泣いて、城が崩壊する!!」
「乳母殿を呼べ!!」
私は、ルシエル様を抱きしめた。
「泣いていいですよ。理由なんていりません」
「……ひっ……ぐ……!」
「泣きたいときは泣いていい。ミリアはずっとそばにいますから」
ルシエル様は私の胸に顔を埋め、泣き疲れて眠った。
魔力が完全に静まる。
魔族たちは、震えながら言った。
「乳母殿……」
「あなたこそ……魔王様の光……」
「魔王軍は永遠にあなたに忠誠を……!」
いや、そこまでは、いらないです……




