12. 癇癪
――その日は、朝から空気が重かった。
魔王城の廊下を歩くたび、魔族たちがひそひそと囁く。
「魔王様……今日は少し不安定では……?」
「魔力の揺らぎが強い……」
「乳母殿の出番かもしれん……」
私はルシエル様を抱きながら、その小さな顔を覗き込んだ。
「ルシエル様、どうしました?眠いのですか?」
「……や」
短い否定。
でも、その声はいつもより低くて、どこか不機嫌さを含んでいた。
あ、これは……イヤイヤ期の本気モードだ。
私は、優しく頭を撫でた。
「じゃあ、お腹すきました?」
「……や!」
はい、イヤイヤ期確定。
魔族たちがざわつく。
「魔王様が……『や』と……!」
「乳母殿、これは危険では……?」
「魔王様の『や』は世界の終わりの合図……!」
いや、ただのイヤイヤ期だから……
その日の昼食。
私はルシエル様を膝に乗せ、離乳食をスプーンにすくって差し出した。
「はい、あーん」
「……やだ」
「一口だけでも?」
「やだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ドンッ!!
空気が爆ぜた。
黒い魔力がルシエル様の周囲から噴き上がり、テーブルが真っ二つに割れた。
魔族たちが悲鳴を上げる。
「ひぃぃぃぃぃぃ!!」
「魔王様の魔力が暴走している!!」
「避難しろ!!」
「乳母殿を守れ!!」
守らなくていいから!!
私はルシエル様に駆け寄った。
「ルシエル様、どうしました?嫌なことでもありましたか?」
「みりあ……みりあ……!」
ルシエル様は、涙をためて叫んだ。
「みりあ、どっかいった!!やだ!!やだぁぁぁぁ!!」
……あ。
胸が痛くなった。
さっき、ほんの数分だけ席を外した……
それが不安になったんだ。
ルシエル様の魔力が、さらに暴走する。
黒い風が渦を巻き、床がひび割れ、食器が宙に浮く。
「みりあ、いないの、やだ!!こわい!!やだぁぁぁぁ!!」
この子……
「置いていかれた」って思ったんだ。
私は深呼吸して、暴走する魔力の中へ飛び込んだ。
「ルシエル様!」
黒い魔力が肌を焼くように痛い。
でも、止まらない。
私はルシエル様を抱きしめた。
「ごめんなさい。ミリア、ちょっとだけ席を外しちゃいました」
「……ひっ……ぐ……!」
「怖かったですね。でもね、ルシエル様」
私は、耳元で囁いた。
「ミリアは、ルシエル様を置いていったりしませんよ」
ルシエル様の体が、びくっと震えた。
「……ほんと……?」
「本当。ルシエル様が呼んだら、すぐに来ます」
「……みりあ……!」
ルシエル様は、私の服をぎゅうっと掴んだ。
「こわかった……みりあ、いないの……やだ……!」
「はい。『やだ』って言っていいんです」
私は、背中を優しく撫でた。
「怒ってもいいし、泣いてもいい。でも、ルシエル様」
私は、ルシエル様の頬に手を添えた。
「『みりあ、こないで』って怒るんじゃなくて、『みりあ、きて』って言ってくれたら、ミリアはすぐに来ます」
ルシエル様の赤い瞳が揺れた。
「……みりあ……きて……?」
「そう。それを言ってくれたら、ミリアは絶対に来ます」
ルシエル様は涙をぽろぽろこぼしながら、小さな声で言った。
「……みりあ……きて……!」
その瞬間――
黒い魔力が、ふっと消えた。
空気が軽くなり、浮いていた食器が落ち、ひび割れた床が静かになる。
私はルシエル様を抱きしめたまま、優しく微笑んだ。
「上手に言えました。ありがとう、ルシエル様」
ルシエル様は私の胸に顔を埋め、小さな声で呟いた。
「……みりあ……すき……いなくならないで……」
「はい。ルシエル様が呼んでくれる限り、ミリアはどこにも行きません」
部屋の隅で吹き飛ばされていた魔族たちは、涙を流しながら立ち上がった。
「乳母殿……!」
「魔王様の癇癪を……抱きしめて鎮めた……!」
「なんという母性……!」
「乳母殿こそ、魔王軍の真の支柱……!」
ゼファードさんは、震える声で言った。
「……ミリアがいなければ、魔王様は世界を滅ぼしていたかもしれん」
そして、魔王軍の誰もが悟った。
魔王ルシエルの癇癪を止められるのは、世界でただひとり――ミリアだけだ。




