表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/14

6. 初めての言葉


その日は、朝からなんとなく違和感があった。


魔王城の一室。

私はいつものように、黒い絨毯の上に座り、膝の上にルシエル様を乗せて遊んでいた。


「ルシエル様、これ見て。ほら、コロコロ~」


私は小さな黒いボールを転がして見せる。

ルシエル様は赤い瞳をきらきらさせて、それを目で追った。


「……ぁ」


手を伸ばして、ボールを掴もうとする。

指先がちょん、と触れて、ボールが少し転がる。


「すごいね、ルシエル様。ちゃんと追いかけてますね」


「……ぁ!」


嬉しそうに声をあげる。


最近、声の出し方が変わってきたな。


ただ泣くだけじゃなくて、何かを伝えようとしているような、そんな意味のある声が増えてきた。


部屋の隅では、魔族たちがいつものように見守っている。


「乳母殿、魔王様の魔力は安定しています」


「表情も豊かになられましたな……」


「これもすべて、乳母殿のご尽力……!」


いや、私はただ遊んでるだけなんだけど。


私はボールを拾い上げ、今度は少し遠くに転がした。


「ルシエル様、取ってきてください」


ルシエル様は一瞬きょとんとしたあと、よいしょ、と言わんばかりに体を前に倒した。


ころん。


うつ伏せになって、そこから必死に手と足を動かす。


「……ん……ぁ……!」


じたばた、じたばた。


少しずつ、少しずつ、ボールに近づいていく。


「そうそう、がんばれ!」


私は思わず身を乗り出した。

魔族たちも固唾を飲んで見守る。


「魔王様が……自ら動いておられる……!」


「なんという成長……!」


「乳母殿、これは記録しておくべきでは……!?」


いや、赤ちゃんだから普通なんだけどね。


ルシエル様はようやくボールに手を伸ばし、ちょん、と触れた。


ころん。

ボールが少し転がる。


「……ぁ!」


ルシエル様は嬉しそうに声をあげた。

その顔があまりにも誇らしげで、私は思わず笑ってしまった。


「えらいね、ルシエル様。ちゃんと届きましたね」


ルシエル様は振り返り、私の顔をじっと見つめる。

赤い瞳が、まっすぐに私を捉える。


……あ。


その目に、いつもと違う何かを感じた。

ただ甘えたいだけじゃない。

ただ泣きたいだけじゃない。

――何かを、伝えようとしている目。


私はそっと手を伸ばし、ルシエル様を抱き上げた。


「おいで」


小さな体が、私の胸にすっぽり収まる。

ルシエルは私の顔を見上げたまま、口をぱくぱくと動かした。


「……ぁ……」


……今の、ちょっと違う。


ただの喃語じゃない。

音を、形にしようとしている。


私は息を呑んだ。


「ルシエル様?」


赤い瞳が、揺れずに私だけを見ている。

その視線に、この人に伝えたいという意志が宿っていた。


「……ぁ……」


小さな口が、もう一度動く。


「……み……」


胸が跳ねた。


いま、「み」って……


魔族たちもざわつき始める。


「い、今……!」


「何か仰ったぞ……!?」


「乳母殿の、み、では……!?」


ルシエル様は、私の頬に小さな手を添えた。

その指先が、震えながら私の肌に触れる。


「……み……り……」


喉の奥から、ぎこちなく、でも確かに音が紡がれる。


私は、呼吸を忘れた。


……ルシエル様……


ルシエル様は、一度だけ小さく息を吸い込んで――


「……みりあ……」


はっきりと、そう言った。

世界が、静まり返った。


魔王城の浴場で爆発が起きたときよりも、魔力が暴走したときよりも、ずっと、ずっと静かだった。


誰も動かない。

誰も息をしない。


ただ、赤ちゃんの小さな声だけが、この空間を満たしていた。


「……みりあ」


もう一度。

今度は、さっきよりも少しだけ滑らかに。


私は、堪えきれなかった。


「……ルシエル様ぁ……」


視界が滲む。

頬が熱い。

涙が、ぽろぽろとこぼれた。


「ルシエル様……今……私の名前を……?」


ルシエル様は、私の涙を不思議そうに見つめたあと――


小さな手で、私の頬をぺち、と触れた。


「……みりあ」


その声は、まるで「泣かないで」と言っているみたいで。

私は、笑いながら泣いた。


「うん……ミリアだよ。ミリアだよ、ルシエル様……」


ルシエル様は、私の首にぎゅっと腕を回した。


「みりあ……!」


今度は、はっきりと。

嬉しそうに。

誇らしげに。


その瞬間――

部屋の隅で固まっていた魔族たちが、一斉に崩れ落ちた。


「ま、魔王様が……!」


「初めての御言葉が……乳母殿の名……!」


「これはもう……運命……!」


「乳母殿は……魔王様の母君だ……!」


ゼファードさんは膝をつき、震える声で言った。


「ミリア……魔王様が初めて選ばれた言葉が……お前の名だということ……その意味を、理解しているか……?」


私はルシエル様を抱きしめたまま、静かに頷いた。


「……ええ。この子にとって、最初に呼びたい名前が、私だったってことですよね」


胸が、痛いくらいに嬉しい。

前世で、誰にも必要とされなかった私が。

この世界で、最初に呼ばれた名前になっている。


ルシエルは、私の涙を舐めるように頬をすり寄せて――


「みりあ、すき」


かすれた、小さな、小さな声。

でも、確かにそう聞こえた。

私はもう、堪えられなかった。


「……ルシエル様……!ミリアも、大好き……!」


ぎゅっと抱きしめる。

赤ちゃん魔王の小さな体が、私の腕の中で温かく震えた。


魔族たちは、誰一人として笑わなかった。

全員が、神聖な儀式を見守るような顔で、静かに頭を垂れていた。


――この瞬間。


魔王ルシエル様は、世界で最初に選んだ言葉で、世界で最初に選んだ人を呼んだ。


その名前は――ミリア。


そして私は、このときはっきりと悟った。

この子は、もう二度と孤独にはさせない。


たとえ世界がこの子を恐れても。

たとえ悪いことをしても。


この子が「みりあ」と呼んでくれる限り、私は何度でも、この名前で応える。


「ルシエル様」


私は涙を拭い、笑った。


「呼んでくれて、ありがとう」


赤い瞳が、嬉しそうに細められる。


「……みりあ!」


その声は、魔王城の高い天井に、何度も何度も反響した。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ