6. 初めての言葉
その日は、朝からなんとなく違和感があった。
魔王城の一室。
私はいつものように、黒い絨毯の上に座り、膝の上にルシエル様を乗せて遊んでいた。
「ルシエル様、これ見て。ほら、コロコロ~」
私は小さな黒いボールを転がして見せる。
ルシエル様は赤い瞳をきらきらさせて、それを目で追った。
「……ぁ」
手を伸ばして、ボールを掴もうとする。
指先がちょん、と触れて、ボールが少し転がる。
「すごいね、ルシエル様。ちゃんと追いかけてますね」
「……ぁ!」
嬉しそうに声をあげる。
最近、声の出し方が変わってきたな。
ただ泣くだけじゃなくて、何かを伝えようとしているような、そんな意味のある声が増えてきた。
部屋の隅では、魔族たちがいつものように見守っている。
「乳母殿、魔王様の魔力は安定しています」
「表情も豊かになられましたな……」
「これもすべて、乳母殿のご尽力……!」
いや、私はただ遊んでるだけなんだけど。
私はボールを拾い上げ、今度は少し遠くに転がした。
「ルシエル様、取ってきてください」
ルシエル様は一瞬きょとんとしたあと、よいしょ、と言わんばかりに体を前に倒した。
ころん。
うつ伏せになって、そこから必死に手と足を動かす。
「……ん……ぁ……!」
じたばた、じたばた。
少しずつ、少しずつ、ボールに近づいていく。
「そうそう、がんばれ!」
私は思わず身を乗り出した。
魔族たちも固唾を飲んで見守る。
「魔王様が……自ら動いておられる……!」
「なんという成長……!」
「乳母殿、これは記録しておくべきでは……!?」
いや、赤ちゃんだから普通なんだけどね。
ルシエル様はようやくボールに手を伸ばし、ちょん、と触れた。
ころん。
ボールが少し転がる。
「……ぁ!」
ルシエル様は嬉しそうに声をあげた。
その顔があまりにも誇らしげで、私は思わず笑ってしまった。
「えらいね、ルシエル様。ちゃんと届きましたね」
ルシエル様は振り返り、私の顔をじっと見つめる。
赤い瞳が、まっすぐに私を捉える。
……あ。
その目に、いつもと違う何かを感じた。
ただ甘えたいだけじゃない。
ただ泣きたいだけじゃない。
――何かを、伝えようとしている目。
私はそっと手を伸ばし、ルシエル様を抱き上げた。
「おいで」
小さな体が、私の胸にすっぽり収まる。
ルシエルは私の顔を見上げたまま、口をぱくぱくと動かした。
「……ぁ……」
……今の、ちょっと違う。
ただの喃語じゃない。
音を、形にしようとしている。
私は息を呑んだ。
「ルシエル様?」
赤い瞳が、揺れずに私だけを見ている。
その視線に、この人に伝えたいという意志が宿っていた。
「……ぁ……」
小さな口が、もう一度動く。
「……み……」
胸が跳ねた。
いま、「み」って……
魔族たちもざわつき始める。
「い、今……!」
「何か仰ったぞ……!?」
「乳母殿の、み、では……!?」
ルシエル様は、私の頬に小さな手を添えた。
その指先が、震えながら私の肌に触れる。
「……み……り……」
喉の奥から、ぎこちなく、でも確かに音が紡がれる。
私は、呼吸を忘れた。
……ルシエル様……
ルシエル様は、一度だけ小さく息を吸い込んで――
「……みりあ……」
はっきりと、そう言った。
世界が、静まり返った。
魔王城の浴場で爆発が起きたときよりも、魔力が暴走したときよりも、ずっと、ずっと静かだった。
誰も動かない。
誰も息をしない。
ただ、赤ちゃんの小さな声だけが、この空間を満たしていた。
「……みりあ」
もう一度。
今度は、さっきよりも少しだけ滑らかに。
私は、堪えきれなかった。
「……ルシエル様ぁ……」
視界が滲む。
頬が熱い。
涙が、ぽろぽろとこぼれた。
「ルシエル様……今……私の名前を……?」
ルシエル様は、私の涙を不思議そうに見つめたあと――
小さな手で、私の頬をぺち、と触れた。
「……みりあ」
その声は、まるで「泣かないで」と言っているみたいで。
私は、笑いながら泣いた。
「うん……ミリアだよ。ミリアだよ、ルシエル様……」
ルシエル様は、私の首にぎゅっと腕を回した。
「みりあ……!」
今度は、はっきりと。
嬉しそうに。
誇らしげに。
その瞬間――
部屋の隅で固まっていた魔族たちが、一斉に崩れ落ちた。
「ま、魔王様が……!」
「初めての御言葉が……乳母殿の名……!」
「これはもう……運命……!」
「乳母殿は……魔王様の母君だ……!」
ゼファードさんは膝をつき、震える声で言った。
「ミリア……魔王様が初めて選ばれた言葉が……お前の名だということ……その意味を、理解しているか……?」
私はルシエル様を抱きしめたまま、静かに頷いた。
「……ええ。この子にとって、最初に呼びたい名前が、私だったってことですよね」
胸が、痛いくらいに嬉しい。
前世で、誰にも必要とされなかった私が。
この世界で、最初に呼ばれた名前になっている。
ルシエルは、私の涙を舐めるように頬をすり寄せて――
「みりあ、すき」
かすれた、小さな、小さな声。
でも、確かにそう聞こえた。
私はもう、堪えられなかった。
「……ルシエル様……!ミリアも、大好き……!」
ぎゅっと抱きしめる。
赤ちゃん魔王の小さな体が、私の腕の中で温かく震えた。
魔族たちは、誰一人として笑わなかった。
全員が、神聖な儀式を見守るような顔で、静かに頭を垂れていた。
――この瞬間。
魔王ルシエル様は、世界で最初に選んだ言葉で、世界で最初に選んだ人を呼んだ。
その名前は――ミリア。
そして私は、このときはっきりと悟った。
この子は、もう二度と孤独にはさせない。
たとえ世界がこの子を恐れても。
たとえ悪いことをしても。
この子が「みりあ」と呼んでくれる限り、私は何度でも、この名前で応える。
「ルシエル様」
私は涙を拭い、笑った。
「呼んでくれて、ありがとう」
赤い瞳が、嬉しそうに細められる。
「……みりあ!」
その声は、魔王城の高い天井に、何度も何度も反響した。




