5. 育児講習・ミルク編
「では——本日の育児講習はミルク、始めます」
私がそう告げると、玉座の間の空気がピリッと張り詰めた。
前回の抱っこの練習で、ゼファードさんは鎧を掴まれ、バルドさんは髭を引っ張られ、リリスさんは笑われて涙を流した。
その結果――
今、彼らは全員、真新しい白いエプロンを着け、小さな哺乳瓶を両手で捧げるように持った姿で、整列していた。
「……乳母殿、このエプロン……魔王軍の紋章が、胸元に刺繍されていますが……」
ゼファードさんが、真っ赤な顔で小声で呟く。
そのエプロンには、黒い翼に包まれた赤い星――魔王軍の紋章が、丁寧に金糸で縁取られていた。
「はい。『育児は、戦い以上に神聖な儀式』というお言葉を、ゼファードさんが先週、玉座の前で仰せになったので、全員に支給しました」
「……私はそんな――」
「――『魔王様の笑顔を守るため、我が身を捧げん』と、おっしゃってましたね?」
ゼファードさんは、一瞬、口をぱくぱくさせたあと、深々と頭を下げた。
「……はい。その通りです」
「それでは――」
私は、腕の中のルシエル様をそっと抱き直し、小さな角の生えた黒い哺乳瓶をテーブルに置いた。
「今日は、ミルクの温度・姿勢・飲ませ方・観察の4つのポイントを、実践で学びます」
魔族たちが、息を呑む。
「まず――温度。赤ちゃんの口は、大人よりずっとデリケートです。熱すぎても冷たすぎても、拒否されます」
私は、温度計を哺乳瓶に差し込む。
数字が静かに動く――37.2℃。
「……37.2℃……?」
バルドさんが、魔法の水晶で即座に温度を再計測し、顔を強ばらせる。
「ふむ……人間の体温と一致。だが、魔王様の体温は通常39.8度。なぜ、人間基準……?」
「魔王様は、赤ちゃんだからです」
私は静かに、ルシエル様の小さな手をそっと包んだ。
「魔力の強さは、体温じゃ決まりません。でも、安心できる温度は、誰でも同じ。ルシエル様は、温もりを『信頼』と感じているんです」
魔族たちが、そっと頷く。
「……信頼……」
「はい。だから、まずは温度を測る。そして――」
私は哺乳瓶の先端を、自分の手首の内側にそっと当てた。
「ここが、一番敏感な場所。ミルクが『肌に優しい』と感じられれば、OK」
ゼファードさんが、真剣な眼差しで自分の手首を見つめ、哺乳瓶を当ててみる。
その瞬間、彼の手首から、微かに黒い煙が立ち上った。
「……え?」
「ゼファードさん、あなたの手首、ちょっと魔力過多です」
「……すまぬ。緊張で、魔力が漏れていた」
「大丈夫です。でも、この瞬間が、赤ちゃんに伝わるんです」
私は、ルシエル様の頬にそっと指を添えた。
「赤ちゃんは、温度だけじゃなく――声のトーン・呼吸のリズム・手の震え、全部を感じ取る。だから、『ミルクをあげる』んじゃなくて、『一緒に温まる時間』を作るんです」
魔族たちが、全員、静かに目を閉じた。
戦場の前夜、戦略を練るかのように。
「次――姿勢」
私はルシエル様を抱き上げ、少し前傾姿勢で、背中を優しく支えるように抱いた。
「首と背中を、まっすぐ。顎は少し引いて、喉が開くように。そうすると、ミルクがスムーズに流れるし、むせにくくなります」
「……むせる?」
リリスが、小さく声を震わせた。
「はい。むせたら……」
「むせたら……?」
「魔力が一瞬、暴走します。先週、ルシエル様がむせたとき――」
「……城の北塔が、雲の上まで吹き飛びました……」
バルドさんが、遠い目で空を見上げる。
「だから、むせさせない。それが、今日の最重要目標です」
魔族たちが、一斉に胸の前で手を組んだ。
「……誓います」
「……命をかけて」
「……むせさせません……!」
「では――実践です」
私は、ルシエル様をゼファードさんに渡す。
「ゼファードさん、今日の担当は『観察役』。ミルクをあげるのではなく、ルシエル様の表情・飲み方・呼吸の変化を、目で追ってください」
「……はい!」
ゼファードさんは、ルシエル様の顔をじっと見つめた。
「……あ、魔王様のまつげが……ふるふるしている……」
「……お口の開き具合が、ちょうどいい……」
「……喉が、小さく動いている……!」
その間、私はバルドさんに哺乳瓶を渡した。
「バルドさん、あなたが『あげる役』。でも、魔法は一切禁止。手の力加減、角度、リズム。全部、あなたの感覚で」
「……は、はい……!」
バルドさんは、哺乳瓶を握りしめた。
手の甲から、青い血管が浮き上がる。
「はい、では――スタート」
バルドさんが、そっと哺乳瓶をルシエル様の口元に近づける。
ルシエル様は、ぱちりと赤い瞳を開き、小さな口をふわっと開いた。
ちゅく……
ちゅく……
ちゅく……
静寂。
玉座の間の空気が、途端に甘くなる。
「……飲んでいます……」
「……魔王様の喉が、動いています……!」
「……呼吸が、安定しています……!」
ルシエル様は、小さな手でバルドさんの指を握った。
その瞬間、バルドさんの目から、大粒の涙がぽろりと落ちた。
「……ミリア殿……この感覚は……何だ……?」
「――赤ちゃんが、あなたを信頼した瞬間ですよ」
「……っ……!」
バルドさんは、その涙を拭うこともせず、哺乳瓶を支え続けた。
3分後。
ルシエル様は、満足げに目を細め、ふわっと口から哺乳瓶を離した。
「……ぁ……」
小さなげっぷが出る。
「……げっぷ……!」
「……尊い……!」
「……戦場で受ける傷より、心が震える……!」
私はそっとルシエル様を抱き上げ、背中をポンポンと叩いた。
「さあ、最後のポイント――観察」
「ミルクを飲んだ後、赤ちゃんはこうなります」
私は、ルシエル様の顔をそっと覗き込む。
目がトロンとして、まつげがゆっくりと上下する。
小さな手が、私の服をぎゅっと掴んで、離さない。
ほっぺたが、ほんのり赤く染まっている。
「満足と安心のサインです」
魔族たちが、全員、ルシエル様の顔を凝視する。
「……魔王様のまつげ……今、ゆっくり……」
「……ほっぺたが……赤い……!」
「……服を掴んで……離さない……!」
「……これは……育児の、聖なる証……!」
リリスさんが、震える手でノートを取っていた。
「記録します……『魔王様、満足時、左の手で乳母の衣を3回握り直しました』……!」
「……それ、本当に重要ですか?」
「はい! 乳母殿がおっしゃっていました!『赤ちゃんは、言葉より行動で愛を伝える』と……!」
私は、思わず笑った。
「……そうですね。ルシエル様は、今、私に『ありがとう』って、言ってくれてるんですよ」
ルシエル様は、私の頬に小さな顔をこすりつけ、ふわっと目を閉じた。
ゼファードさんが、ゆっくりと膝をつき、頭を垂れた。
「……乳母殿。我らは、戦い方しか知りませんでした」
バルドさんは、涙を拭いながら呟いた。
「……だが今、『守る』という言葉の重さを、初めて知りました」
リリスさんは小さな手を胸に当て、小さく誓った。
「……私は、魔王様の初めての『お世話』を、絶対に忘れない」
私は、ルシエル様をそっと抱きしめた。
「……はい。私も、忘れません」
ルシエル様は、私の胸の中で、小さく笑った。




