3. 寝返り
魔王城の一室。
私は赤ちゃん魔王ルシエルを抱きながら、ふかふかの黒い絨毯の上に座っていた。
「はい、ルシエル様。今日は寝返りの練習しようね」
「……ぁ?」
ルシエル様は赤い瞳をぱちぱちさせ、私の顔をじっと見つめる。
かわいい……
魔王軍の幹部たちは、部屋の隅で固まっていた。
「乳母殿……魔王様に寝返りとは……?」
「魔王様は寝返りなどしなくても強くなられるのでは……?」
「そもそも魔王様に練習という概念が……?」
いや、赤ちゃんなんだから必要でしょ。
私は微笑んで、ルシエル様をうつ伏せに寝かせた。
「ほら、手をこうやって……」
ルシエルは小さな手をじたばた動かし、必死に体をひねろうとする。
「……ん……ぁ……!」
「がんばれ、ルシエル様!」
その瞬間――
ルシエル様の体がふわっと浮いた。
「ちょ、魔力で浮いちゃだめー!」
ふう……危なかった……
私は慌てて手を添えた。
魔族たちがざわつく。
「魔王様……寝返りの代わりに浮遊魔法を……!?」
「なんという天才……!」
「いや、違う! 乳母殿が驚いておられる!」
さすが、魔王。
寝返りより先に魔法を使うなんて。
私は苦笑した。
「ルシエル様、魔法じゃなくて体を使うの。ほら、こうやって……」
私は自分の体を使って見本を見せた。
ルシエル様はじっと見つめ――
「……ぁ!」
ころん。
見事に寝返り成功。
「できたぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
私は思わず抱きしめた。
ルシエル様は嬉しそうに笑う。
「……きゃ……!」
その笑顔に、魔族たちが全員崩れ落ちた。
「魔王様が……笑われた……!」
「なんという尊さ……!」
「世界が救われる……!」
いや、寝返りしただけなんだけど。
ちょっと、大袈裟じゃない?
次はミルクの時間。
私は温度を確かめながら、小さな角の生えた哺乳瓶を用意した。
「はい、ルシエル様。ミルクだよ」
「……ぁ!」
ルシエルは嬉しそうに手を伸ばす。
私は抱っこして哺乳瓶を口元に当てた。
ちゅく、ちゅく、ちゅく。
……天使?
なにこれ……天使ですか?
ここは、天国ですか?
魔族たちは息を呑んで見守る。
「乳母殿……魔王様が……ミルクを……」
「なんという平和な光景……」
「戦場より尊い……!」
ゼファードは震える声で言った。
「ミリア…… なぜ魔王様は、お前にだけ……こんなに懐かれるのか……?」
私はルシエル様の頭を撫でながら答えた。
「赤ちゃんはね、安心できる人をちゃんと選ぶんですよ」
ルシエル様はミルクを飲みながら、私の指をぎゅっと掴んだ。
きっと、ずっと寂しかったんだ。
寂しくて、どうしていいかわからなくて。
ずっと、1人で……
胸がじんと熱くなる。
私はそっと囁いた。
「大丈夫。もうひとりにしないからね」
ルシエル様は、満足そうに目を細めた。
その瞬間――
魔族たちが全員、涙を流した。
「乳母殿……!」
「あなたこそ……魔王軍の光……!」
「魔王様が闇落ちしない未来が……見える……!」
私は苦笑しながら、ルシエル様の背中を優しくポンポンした。
「さあ、げっぷしようね」
「……ぁ」
ぽふっ。
小さなげっぷが出た。
魔族たちがまた崩れ落ちた。
「げっぷまで尊い……!」
いや、普通の赤ちゃんだから。
でも――
私は確信した。
この子をちゃんと育てれば、未来は変えられる。
魔王の闇落ちも、世界の滅亡も、全部、回避できる。
私はルシエル様を抱きしめた。
「一緒に、幸せになろうね」
ルシエル様は私の胸で、安心しきったように眠った。




