アンブロワーズ「私、生まれて初めてですよ、平手打ちなんて頂いたの」
トライダーさんの誤解も解けて一安心!
良かった良かった。これで今回の冒険もおしまいですよ!
それから私はリトルマリー号の跳ね上げブリッジの所に戻る。風紀兵団は一人、仁王立ちで桟橋とブリッジの間に立ちはだかっていた。
「こちらは異常ありません、団長」
なんとも心苦しい。風紀兵団は張り切っているが、このブリッジを死守する理由はたった今無くなってしまった。
私は水運組合のボートに舫い綱を掛けられゆっくりと曳かれて行く、リトルマリー号のボートをじっと見つめる。重要なのはタイミングだ。気が逸る……我慢、我慢。
「……トライダーさんは、何か食べに行ったんですね?」
「ええ。すっかり安心したみたいです、もう逃げ出したりしないと思いますよ」
安心? どういう事だろう……いや、申し訳ないが私には今やらなきゃならない事がある。
ボートの行き先、波止場の広さ、水運組合の施設、橋と道……私は自分が走らなきゃならない距離と、ボートの速さを計算する。
「あの……団長、いえ、マリーさん……トライダーさんの事なのですが」
複雑な暗算をしている私に、風紀兵団が声を掛けて来る。何か言い辛い事を切り出そうとしている様子だが。
「ちょっと待って下さい」
私は頭の中で混線しだした計算をやめ、風紀兵団に向き直る。
「いい加減聞こうとは思ってたんですけど、何であなた方は私を団長呼ばわりするんですか」
「えっ……ああ、それは風紀兵団独自の、画期的な人事規則なのです!」
風紀兵団はそう言って胸を張る。それは何か自慢に思う事なのだろうか。
「風紀兵団には階級制度はありません、全員が平等です。ですが現場では指揮系統がきちんとしていないと物事が進みませんので、職掌として、隊長や団長という呼称があります」
「それが私と何の……」
「隊長は数人の分隊を指揮する役で、団長はそれらの分隊を統率する役になります。隊長も団長も、隊員達の意志によってのみ選ばれます。分隊の隊員が隊長と呼んだ者が隊長となり、皆が団長と呼んだ者が団長なのです」
「それが私と何の関係があるんですか! 私は風紀兵団じゃありませんよ!」
頭の中の計算結果が、波に洗われた砂の城のように崩れて消える。私はその風紀兵団に詰め寄る。
「その点も御心配なく、風紀兵団になるには王都の会場で実技と筆記の試験を受けなくてはならないんですが、現役隊員十名以上の推薦のある者はそれが免除されます、正式な隊員になるにはそれとは別に適性検査もクリアしないといけないのですが、マリーさんならそちらは合格間違いありません」
「知りませんよ! 何で私が風紀兵団なんですか!」
「いやいや、マリーさん程強い気持ちで風紀ある市井を守る為戦う事の出来る方はなかなか居ません、貴女こそ風紀兵団を指揮する為に生まれた方だと、我々は確信しております! ハハハ」
「恐ろしい事を平然と言わないで下さいよ!! ハハハじゃないよ何笑ってるんですか真面目に聞いて下さい!」
ちょっと待て! ボートは? ボート……ああっ!? 思ったよりも早く目的地に近づきつつある!?
「ああもうっ! ここは海軍がセルジョ・ラッセン船長を連れて来たら引き渡してあげて下さい、私は今用事が出来ましたッ!」
私はブリッジを駆け下り、波止場を走り出す。
波止場、倉庫街、水路。港には陸海軍の兵士や衛兵がたくさん居る。どうしよう。だけどこれ以外のアイデアは思いつかなかった。
何食わぬ顔で、私は街中を駆け抜ける。どうか呼び止められませんように。
やがて、あの水運組合の役人さんのボートが見えて来る……ボートは港湾を渡りきり、水路へと入ろうとしてる所だった。うわっ、計算は出来なかったけどタイミングはピッタリだよ。
私は走る速度を落とし、小走りでボートの方に駆け寄る。
「すみません役人さん、私、樽を間違えたかもしれませーん」
「えーっ?」
役人さんはボートを水路の岸に寄せてくれる。私はリトルマリー号の方のボートに飛び乗る。
「ああー、やっぱり樽を間違えてました、ごめんなさい、この樽は私が持って戻ります、後でちゃんとした樽をうちの水夫に持って行かせます」
「は? はあ……じゃあ、補給所でお待ちしていていいんですか?」
「はい、お騒がせしてすみませんでした!」
役人さんはかなり訝しげな顔をするが、黙って舫い綱を解いてくれた。
この手順、やる意味あったのかしら……だけど私にはこの樽を自分でここまで曳いて来る度胸は無かった。絶対挙動不審になって臨検を受けたと思う。
私はボートをゆっくりと港湾の方に向けて漕ぎ、水路に掛かる橋の下でそっと岸に寄せ、中の人とちょっと相談するつもりで、樽の蓋を開ける。
「あの、シュゼットさん」
しかし樽の中にいたシュゼットお姉さんはまるで猫のように音も無く樽から這い出し、次の瞬間にはもう岸壁に上がってしまっていた。
「待って下さい、ちょっと予想してたのよりずっと、町を走り回ってる兵隊さんが多いんです」
「いいわ。ここまで来れば後は自分でやるから。有難う、マリーちゃん」
シュゼットお姉さんはそう言うと、黒いドレスの背中の紐を解き出し、おもむろに肩をはだける!? ちょっと、いくら橋の下とはいえ街中ですよ、風紀ある市井が……
―― バサッ……!
次の瞬間、シュゼットは黒いドレスを脱ぎ捨てた!? と、思いきや……翻ったドレスは一瞬にして深い紫色の修道服へと姿を変え、彼女の身を包んでいた。
「わあ……」
彼女が最後に長く美しい赤毛を隠す頭巾を整えると、たった今まで目の前に居たはずの黒いドレスの華やかな淑女は完全に姿を消した。そこに居るのはどこからどう見ても、慎み深い修道女さんである。
「貴女も早く船に戻りなさい。誰かに見つかったら怪しまれるわよ」
「ちょ……ちょっと待って下さい」
私はボートの上から小声で詰め寄る。
「や、約束ですよ、逃げるのに協力する代わりに、ち、父と何があったのか教えてくれるって……シュゼットさん……」
私は震え声で言った。
「あら、ジゼルって呼んでよ、私もマリーちゃんって呼んでるのに、余所余所しいわねぇ」
「ジゼルさん、御願いします」
「んー……そうねえ……マリーちゃんって、お父さんの事好きでしょ?」
「い、今そんなの関係無いでしょう! べべ、別に好きじゃないですよ、ほとんど家に帰って来ない父でしたし、最近ずっと会ってませんから」
「あら、そぉう? おかしいわねえ、私の思い違いかしら」
「ジゼルさん!」
ジゼルは、意味深に唇に指を当てて視線を逸らす……なんで約束したのに話してくれないんだよ! だけどやっぱり聞くのが怖いし何ならこのまま黙ってていただいても……私の精神が、その話に耐えられるという保証も無いし……
「……やめておきましょ」
「な……何を言い出すんですか! 話してくれるって、約束……」
「だって貴女やっぱりあの男の事大好きみたいなんだもの。それに貴女とはまたどこかで会えそうな気がするの。だけど今話しちゃったら貴女、もう私と遊んでくれなくなるかもしれないじゃない? そんなの、寂しいわ」
私はジゼルの腕を捕まえようと手を伸ばしたが、ジゼルはヒラリと身を翻してそれを避け、橋の下から飛び出してしまった。
「こんなんじゃ余計気になりますよ! 約束したじゃないですか、教えて下さいよ!」
「シーッ、声が大きいわ。じゃあね、あの男の娘さん。またね」
ジゼルはそう言って笑顔で手を振り、岸壁から堂々と水路沿いの道の方に上がり、静々と歩み去って行く。
彼女と一緒に居る所まで誰かに見られたくない私は、ボートの中に踏み止まるしかなかった。
私はジゼルを樽に乗せてリトルマリー号から運び出し、別の場所で開封してレブナンの市街へと放してしまった。彼女と父の間に何があったのかは解らずじまいである。