マイク、切り忘れてますよ
『今日で狼丸、ラストです。短い間でしたが、ありがとうございました』
最後の配信。同時接続、二百八十人。
いつもよりは多い。義理、というやつだ。
俺は努めて明るく喋った。
泣き言は言わない。それだけは決めていた。
思い出話をした。
登録者百人で泣くほど嬉しかったこと。深夜にコメントゼロでも喋り続けたこと。
低音すぎて「電話だと思った」と笑われたこと。
コメントが流れる。
> おつかれ狼丸
> 低音ボイスすこだったのに
> 朝までいるよ
> ねこまんま姉さん:最後まで見届けるよ!
ねこまんま姉さんのコメントに、少しだけ救われた。
こんな底辺配信でも、見てくれている人がいる。それだけで、十分だった。
二時間ほど雑談して、配信を締めた。
『それじゃ、みんな、元気で。狼丸でした』
配信終了ボタンを押した――つもりだった。
実際には、押せていなかった。
配信ソフトはまだ生きていて、マイクは音を拾い続けていた。
画面には小さく「LIVE」の赤い文字。俺は気づいていない。
椅子の背にもたれて、俺は大きく息を吐いた。
「……はー。終わったな」
ひとり言が、そのまま全世界に流れていた。
「クビかぁ。まあ、しょうがないよな。声、変えられないし」
キッチンへ向かう足音。冷蔵庫を開ける音。
「あー、今日のご飯ももやし炒めかぁ」
じゅう、というフライパンの音。
「……お姉さん達に、美味しいご飯作ってあげたいなぁ」
ぽつり、と。
誰に聞かせるでもない、本当の本音だった。
「ねこまんま姉さんとか、ちゃんと飯食ってんのかな。あの人、いつも夜中に来るからさ。ちゃんと寝ろよって、いつも思ってんだよ」
もやしを炒める音。
「俺の声で、ちょっとでも、誰かが落ち着いて寝てくれてたなら……それで、よかったのかもなぁ」
俺は気づいていなかった。
コメント欄が、もう静かにざわつき始めていたことに。
> え、まだ配信ついてる
> マイク切り忘れてますよ狼丸さん!!!
> 待って、今の独り言なに
皿に盛る音。
椅子に座って、ひとりで「いただきます」と呟く声。
「売れる声じゃなくても、さ。誰かのことを、ちゃんと思って喋ってたつもりなんだけどな」
> いや切らないで
> 今の声、心臓に悪い
> ねこまんま姉さん:私のこと、心配してくれてたの……?
箸を置く、小さな音。
「……まあ、いいか。お疲れ、俺」
――その独り言を最後に、配信のコメント欄が、爆発した。
数字が、おかしな速度で増えていた。
二百八十人。
五百。千。
> 拡散します
> 「もやし炒めかぁ」が尊すぎる
> 低音でこの素朴さは反則
> このギャップで売れないわけないだろ事務所何見てた
> #狼丸の本音 がトレンド入りしてる
> 海外ニキも来てて草 翻訳されてる
切り抜きアカウントが、もう動き出していた。
「【神回】底辺VTuberがマイク切り忘れた結果」というタイトルの動画が、投稿されてわずか数分で、リポスト一万件を超えていく。
俺はまだ、台所にいた。
もやしを炒めながら、まだ何も知らない。
スマホの通知が、止まらない。震えっぱなしだ。
何事かと配信画面に戻った瞬間――息が止まった。
同時接続、四万八千人。
コメントが、滝のように流れて読めない。
そして画面の右端を、見たことのない色が埋め尽くしていた。
赤。
真っ赤な、スーパーチャット。
> ¥10,000 ねこまんま姉さん:ちゃんと寝てるよ。あなたの声のおかげで。
> ¥50,000 もやし炒め食べたい姉さん:ご飯作ってあげたい?こっちのセリフよ!!
> ¥30,000 夜勤明け姉さん:低音ASMRより効く本音だった
> ¥20,000 三十路独身姉さん:この人の前でだけ、肩の力が抜ける
> ¥10,000 こっそり既婚姉さん:もやし炒め、私が習いたい
俺は呆然と、その色を見ていた。
何が起きているのか、まるで理解できなかった。
ついさっきまで、二百八十人だったのに。
ただ、流れていく名前の中に、見覚えのあるものが、いくつもあった。
いつも静かに、最後まで残ってくれていた、あの常連たちだった。
通知欄に、知らない名前が一件。
篠塚から、十七件の着信。
画面の隅で、赤が、雪崩のように降り続けていた。




