第三話 やること違うだろ
翌日。
朝の光が教室の窓から斜めに差し込み、机の上に長い影を落としていた。ガラス越しに見える空はやけに青くて、何もかもがいつも通りの日常に見える。
けれど。
(なんか、引っかかるな)
環は頬杖をつきながら、ぼんやりと自分の右手を見ていた。
昨日の帰り道。
焔の炎が、自分の指に触れそうになった一瞬だけ消えた。
あのときの感覚。
触れたと思った瞬間に、熱も光も、まるで『最初からそこに存在しなかった』かのように、すっと空間から削り取られた感覚。
(気のせい……だよな)
そう思い込もうとした、そのときだった。
「なあ」
低く、ひどく冷たい声が、教室の入り口から響いた。
ざわ、と空気が揺れる。
何人かの生徒が振り返り、すぐに小さな、しかし明確な怯えを含んだざわめきが広がった。
「あれ、剣崎じゃね?」
「なんでわざわざこっちのクラスに……?」
剣崎雷斗
隣のクラスの生徒であり、この学年でも知らない者はいない、極めて強力な雷属性の生得魔法士だ。
短く整えられた髪。
鋭い目つき。
その視線は迷いなくまっすぐ環を捉えていた。
雷斗はゆっくりと教室に入り、重い足音を鳴らして環の机の前まで歩いてくる。
トンと机に手をついた。
「昨日の授業」
雷斗は軽く首を傾け、見下ろすように言った。
「お前スペルギア、1ミリも反応なかったんだって?」
周囲から取り巻きと思われる生徒のくすくすという嘲笑が漏れる。
環は何も言わずただ雷斗に視線を向けると雷斗の口元がわずかに歪む。
「魔法もない」
「スペルギアも使えない」
一拍。
ほんのわずかな、しかしひどく重たい沈黙。
そして____
「お前なんで生きてんの?」
その言葉が落ちた瞬間。
教室の空気がぴたりと凍りついた。
笑い声もざわめきもすべて消える。
あまりにも直截的な侮蔑に、誰も何も言えなくなる。
そのとき___
ガンッ!!
教室のドアが、蹴り飛ばされたように勢いよく開いた。全員の視線がそちらに向く。
「いい加減にしろよ」
焔だった。
肩で息をしながら鋭い目で雷斗を睨みつけている。
雷斗がゆっくりと振り返る。
「何怒ってんだよ。お前、蔦焔だろ? 魔法持ちのくせに、なんで無能力者の肩なんて持つ意味あんの?」
焔の拳が強く握られる。
指の骨がきしむ音が聞こえそうなほどに。
「……お前には関係ねぇだろ」
「いや、関係あるだろ」
雷斗は鼻で笑った。
「魔法持ちは上、無能力者はゴミ。それがこの世界の当たり前のルールだろ」
焔が一歩踏み出す。
床を踏む音が、やけに大きく響いた。
「くだらねぇ」
その一言で空気が限界まで張り詰めたその瞬間
バチッ!!
空気が裂けるような轟音。
雷斗の右腕に、眩い青白い雷が走った。
閃光が教室の壁を照らし、生徒たちが悲鳴を上げて後ずさる。雷は一気に手元へ収束し鋭い『雷剣』の形を成した。
「はっやってみろよ、動物使い」
呼応するように焔も同時にポケットから毛を取り出した。
ぼうっ!と空気を揺らして炎が生まれ、熱はないのに周囲の空間が震える。炎は瞬時に形を変え、四足の獣____炎狼へと変わる。
低く唸るように炎が揺れ二つの強大な力が、今まさに狭い教室で激突しようとした。
その瞬間。
「やめろ!」
環が間に割って入り、焔の前に立った。
「どけ環! そいつぶっ飛ばす!」
「違うだろ、焔」
焔の怒号を制し、環は雷斗を見た。
逃げない。まっすぐに。
「剣崎くんさ」
雷斗の目が不快そうに細くなる。
「なんだよ、無能力者が」
「お前将来『魔法治安組織』に入りたいんだろ?」
教室がざわめく。
エリート中のエリートしか入れない組織だ。
雷斗が顎を引いて短く答える。
「だったらなんだ」
環の目は逸れない。
「だったら」
環は一歩、雷斗に近づく。
「やること違うだろ」
雷斗の表情が一瞬虚を突かれたように止まる。
環は続けた。
「人を守る組織に入りたい奴が人を見下してどうすんだよ」
静寂。
正論すぎるその言葉に、誰も動けない。
その瞬間____。
雷斗の腕が怒りに任せて動いた。
「調子乗ってんじゃねえぞゴミが!!」
容赦なく振り下ろされる雷剣。
空気を切り裂く音。
魔法を持たない人間がまともに受ければ、ただでは済まない一撃。
環は反射的に自分を庇うように右手を前に突き出した。
雷の刃が環の掌に触れる。
その瞬間。
_________音が、消えた。
光も
熱も
暴力的な魔力の波動も雷が消えた。
弾かれたのでも相殺されたのでもない。
跡形もなくまるで最初から、そこに何も存在しなかったかのように、虚空へと『消失』した。
教室が完全に静まり返る。
雷斗が理解不能なものを見るように目を見開いた。
「…は?」
背後で、焔も動きを止めていた。
そしてその横で____いつの間にか教室に入ってきていた雫が、じっと環の『手』を見ていた。
一瞬も逸らさずに。
焔も、同じ場所を見ていた。
(……今の)
(昨日の炎犬と同じだ)
言葉にしなくても分かる。
これは偶然なんかじゃない。
雷斗が焦ったように再び魔力を集めようとする。
だがうまくまとまらない。
環に触れた右手から、魔力の通り道をごっそり削り取られたような奇妙な感覚。
「…なんだよこれ」
「おい、今の見たか?」
「消えた……?」
「何が起きたんだよ…白井、何もしてねぇぞ…」
ざわめきが一気に広がり始めた、そのとき。
教室のドアが、静かに開いた。
「何してる」
低く、よく通る声。
最近赴任してきた先生だった。
ざわめきが一瞬で止まる。
先生の鋭い視線が教室をなぞる。
倒れた机。
固まった生徒たち。
そして環と、その右手。
ほんの一瞬。
先生の目が、獲物を見つけた鷹のように鋭く細まった。




