94.迷霧のマリアルザ⑦
霧は完全に消え去り、空には澄んだ青空が広がっているが、三人の周囲にだけは大量の雨が降り頻るという奇妙な光景が広がっていた。
その中心地で、マキナ、ディジー、そしてマリアルザの三名が雨に打たれ、それぞれ全く異なる空気を纏って立ち尽くしていた。
マキナのブラウン色の長髪が雨を吸って重く垂れ下がり、冷え切った頬や白い装甲にじっとりと張り付く。
彼女は張り詰めた緊張の糸を切らすまいと、視界を遮る濡れた前髪を払うことすらせず、ただ鋭い視線を真っ直ぐにマリアルザへと向けていた。
対照的にディジーは、この異常な空間の中心にありながら、まるで散歩中のような余裕を崩さない。
特徴的なブロンド色の髪は雨に濡れてしっとりとした艶を帯びているが、彼女はそれを鬱陶しがるどころか、細い指先で優雅に梳きながら勝者の笑みを浮かべていた。
そして、その二人の視線の先に立つマリアルザの姿は、先程までの妖艶な余裕とは程遠いものだった。
美しく整えられていたはずのアッシュ色の長髪は土砂降りの雨に打たれて無残に肌へ纏わりつき、額の角から滴る冷たい水滴が彼女の苛立ちをさらに煽る。
マリアルザは顔にへばりつく濡れた髪を忌々しげに乱暴に振り払い、怒りと屈辱で肩を震わせていた。
「やってくれましたわね……!幻覚ではなく、『霧』そのものに対処された屈辱を味わうのは初めてですわ……!!」
その瞳はマキナに幻覚で見せていた時と同じ、粘りつくような血の赤に染まっている。
魔族としての余裕は微塵もなく、ただ目の前の敵の息の根を止めてやりたいという本能だけがギラギラと渦巻いていた。
「おや?それは驚きだ。仕掛けさえ見れば至って単純な子供騙しだったけれどね」
ディジーの煽りは留まるところを知らず、マリアルザの妖艶な美貌を醜く歪ませるほどの太い青筋を、こめかみにピキッ!と浮かび上がらせた。
「貴女……一体何者なのですか!?」
殺意に満ちたマリアルザの視線を真っ向から受けながらも、ディジーは張り付いた髪を指先で優雅に梳き流し、まるで世間話でもするかのように軽やかな口調で答えた。
「ただの天才さ。世界を気ままに渡る、浮浪民のね」
それは、マキナが初めてディジーと会った時に言い放った言葉。
だがそのニュアンスは大きく異なる。
マキナに向けた時は、揶揄うような煙に撒くような、それでいて素性を明かせないことに対するどこか申し訳なさを感じさせた。
だがマリアルザには違う。
魔法の極みに近い高位魔族に対して、敢えてただの『天才』と伝えることで、決定的な格の違いを見せつけるような、絶対的な強者のニュアンスが節々から伝わってきた。
「はっ!! 天才!? 随分と大きくでましたわね。人間基準の天才など、私達魔族にとっては路傍の凡夫でしかありませんわ!!」
「その発言に倣うと、君はその凡夫に自分の手品を破られたことになるんだが?」
相手の言葉を逆手に取ったディジーの痛烈な切り返しに、マリアルザは見事に自身の首を絞める結果となり、その表情はますます険しくなる。
「良いでしょう!! ならば今度こそ、魔族の魔法の真髄を見せて差し上げますわ!!」
マリアルザは怒りに身を任せ、鋭い爪を持つ掌を地面に激しく叩きつけた。
地面に染み込んだ自身の水の魔力を媒介にし、下から直接攻撃を仕掛けようと試みたのだ。
「……は?」
しかし、マリアルザの思惑に反して、どれだけ大量の魔力を流し込んでも、一帯の水はチャプチャプと僅かに揺れ動くだけで、それ以上の反応を示すことは無かった。
「ば、バカな!? 何故です!?」
再度実行しても、込める魔力量を限界まで増やしても、結果は全く変わらない。
呼吸が浅くなり、雨の冷たさとは異なる嫌な汗が全身から噴き出していく。
理解不能な事象に体の震えが止まらないマリアルザを、ディジーは呆れたような視線で悠々と見下ろしていた。
「やれやれ……魔族の最高峰、『クイントスクーロ』の一角ともあろうものがこのザマか。一から説明しないといけないかな?ん?」
どこまでもコケにされ、マリアルザは顔を上げ、獣のような形相でディジーを睨みつけた。
しかしその瞬間、ある事実に気がつく。
「(待って……彼女が私の『霧』を無効化して晴らしたのが事実だとして……ならば何故、幻影の奥に隠していた人間どもの骸が姿を現さない!?)」
この拠点にいた人間全てが亡き者となっている事は変えようの無い事実である。
そして先程マキナに見せた骸も紛い物では無く、霧の一部を解除して見せた、本物の白骨化した死体だ。
ディジーが『霧』を晴らしたのであれば、いまこの一帯には、その無惨な骸が広がっているはずなのに、一切姿が見られない。
「まさ……か」
この状況に、マリアルザは一つの可能性を考えつく。
だがそれは、同時に絶対にあってはならない一つの結論にも行き着くことに繋がる。
「まさか……そんな事、できる筈が……!!」
「残念ながら、ボクなら出来ちゃうんだな」
ディジーが再びパチンと指を鳴らすと、マリアルザがどれだけ魔力を込めても無反応であった水が、まるで生き物のように水粒となって浮き上がり出した。
「君が媒介にしていた水に、ボクの魔法式を上書きした。だから君がどれだけ新たに魔力を込めようと、ボクが組み込んだ術式が君の魔力を弾く。これが何を意味するか分かるかい?」
屈辱で歪んでいたマリアルザの表情が、その言葉の意味を理解した瞬間に凍りつく。
長く君臨してきた最高峰の魔族としての絶対的な牙がへし折られ、理解の及ばない怪物を見上げるような眼差しへと変わっていた。
「君の『領域』は、ボクが支配した」
ハッキリと告げられた絶望的な言葉の内容に、マリアルザは驚愕で瞳を揺らす。
人より魔力量も魔法技術も優れる筈の魔族、しかもその頂点に君臨する『クイントスクーロ』である自身が、最も得意とするその水域で完全なる敗北を喫した。
その事実を、プライドの高いマリアルザは受け入れることなど出来ない。
マリアルザは再び全身から白い霧を放ち、あたり一面を強引に覆おうと試みた。
「出しておいた『霧』が操られたからなんなんですっ!? だったら新しい『霧』で覆い直して、掌握される前に仕留めれば良いだけですわ!!」
マリアルザの足掻きのような反撃に、しかしディジーはこれでも余裕の表情を崩さなかった。
「知っているかい、『迷霧』のマリアルザ。水というのはね、縮まないんだ。だから行き場を無くすほど極限まで圧縮されると、どうなると思う?」
初めは怪訝そうにディジーの言葉を聞いていたマリアルザは、ふと足元に気がつく。
降り続いていた大雨は既に止んでおり、辺りは雨でぬかるんでいる。
そのぬかるみが、不自然な速度で一気に乾燥していき、もとの岩砂のような地面に戻っていく光景に。
否、少し違う。
この場所を除く全てが乾燥し、マリアルザの足場のみがぬかるみとして残っており、圧縮されることのない大量の水が、地下で莫大なエネルギーとなって大地を小さく揺らしている。
「答えは簡単。行き場を失くした水は、一番脆いところから激しく溢れ出る。硬く乾燥した地面より、水でぬかるんだ泥場。どっちが溢れやすいだろうね」
「───ッ!?」
マリアルザの赤い目が大きく見開かれる。
その足元では、ズゴゴゴゴという大きな地鳴りとともに、地面が不気味に小さく隆起し始めていた。
ディジーが掌握し、利用したのは、地表に染み込んだマリアルザの『霧』だった水だけではない。
彼女はそれをただの導火線とし、地中深くを流れる膨大な『地下水脈』へと術式を繋いでいたのだ。
脈々と流れる地下水を強固な魔力で包み込み、極限の圧力で一気に圧縮する。
水は縮まない。
だからこそ、逃げ場を失った莫大なエネルギーは最も抵抗の少ない場所───マリアルザの足元に残された唯一の『泥場』へと殺到した。
「ヒッ───!?」
マリアルザの息を呑む音よりも早く、天地を裂くような凄まじい水音と共にぬかるみを突き破り、極限まで圧縮された超高圧の『水柱』が真上へと噴出した。
それは巨大な質量の水が、逃げ場を求めて致死の速度で襲い来る純粋な暴力。
強靭な魔族の肉体であろうと、その激流が叩き出す極限の水圧には到底耐え切れない。
飲み込まれれば最後、全身の骨肉が水圧で圧壊するほどの圧倒的な奔流が、マリアルザの体を真下から容赦なく飲み込んだ。
凄まじい水柱が空間を大きく揺らし、やがて視界を白く塗りつぶすほどの豪雨となって降り注ぎ、ザァザァと降りしきる水飛沫と共に視界が晴れていく。
そこには、下からの凄まじい水圧によってなめらかに抉り取られ、澄んだ水が渦巻く巨大なクレーターだけが残されていた。
まともに食らえば肉片すら残らないであろうその激流の跡に、マリアルザの姿は跡形もなく消え去る。
「……ふむ」
もぬけの殻となった水鏡のようなクレーターを一瞥し、ディジーは興味を失ったようにふっと息を吐き、ゆっくりとマキナの方へと振り返り、歩み寄っていった。
「すまないね、こんなびしょ濡れにさせて」
「い、いやこれくらい別に……っていうかマリアルザは!?倒したの!?」
いつもの『英雄』口調ではなく、完全に私人の口調になっていることにも気付かず、前のめりになって詰め寄るマキナに対し、ディジーはクレーターの方へと視線だけを向ける。
「……残念ながら逃げられたよ。腐っても『クイントスクーロ』。水の魔法を使うだけあって、上手く水の流れを操ったようだ」
ディジーの言葉に、マキナは「そっ……か……」と力なく呟き俯いた。
そんな彼女の心中を慮り、ディジーはそっと冷えた肌にこびりついた髪を優しく撫でながら声をかけた。
「先ずは休もう、マキナ。頭の中の整理も必要だろう。話はそれからだ」
ディジーの優しい口調に、マキナは再び溢れそうになる涙を堪え、震える声で尋ねる。
「どこにも、行かない?」
あの日と同じように、また不意に消えてしまうのではないか。
そんな怯えを微かに滲ませた瞳が、すがるように真っ直ぐディジーを見上げている。
ディジーは一瞬苦笑いを浮かべ、そして直ぐに安心させるような優しい口調で返した。
「いかないさ。ちゃんと、君の側にいる」
その確かな言葉に安堵の表情を浮かべ、マキナは小さく頷いた。
※後書きです
ども、琥珀です。
連休の、霊圧が消えた……
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