92.迷霧のマリアルザ⑤
「ヘーニオ……さん?」
深い絶望に沈むマキナの視線の先。音もなく霧の帳が割れ、遥か後方の安全圏で待機している筈のヘーニオが姿を現した。
「どうして……ここに?」
先程の奇襲でヘーニオが負った腹部の傷は決して浅くない。応急処置を施したとはいえ、激痛を伴い自力で移動することは困難なはずだ。
ましてやここは、彼が居た岩場から三キロは離れた敵の拠点であり、傷を負った今のヘーニオが短時間で移動できる距離ではない。
予想外のタイミングで現れたヘーニオの姿にマキナは困惑するが、それ以上に深い困惑と警戒心を抱いていたのは、他ならぬマリアルザであった。
「(……おかしいですね。この男は既に私の『領域』に足を踏み入れている……なのに何故、この距離まで私は気付けなかった?)」
マリアルザの作り出す濃密な霧は、魔力だけでなく生物の微かな鼓動や体温すらも探知する。
この霧の中においては、たとえ同族が気配を完全に殺し切ったとしても、彼女の網の目を逃れることは不可能である。
にも関わらず、目の前のヘーニオはマリアルザの霧に侵入してからここまでの間、一切気取られる事なく最深部まで到達しているのだ。
幻覚魔法の使い手が、自らの魔法の事実を疑いたくなる異常な状況に、マリアルザは陥っていた。
対して当の本人であるヘーニオは、警戒するマリアルザを完全に無視し、倒れ込むマキナの側へと迷いなく歩み寄る。
しかし、もはや何が現実かさえ分からない今のマキナには、目の前に立つヘーニオの姿を無条件に信じることができなかった。
もし彼に縋り付いた瞬間に、その姿がおぞましい亡者へと変わってしまったら。そんな悪辣な幻覚の可能性が、彼女の体を硬直させる。
しかし彼はそんなマキナに対してゆっくりと身を屈め、彼女の手をそっと取り、両手で優しく握りしめた。
「大丈夫、偽物ではありません。ここにちゃんといますよ」
発せられたのは、紛れもないヘーニオの落ち着いた声。
どこか先程までとはまとう空気が異なるが、それでも手の先から確かに伝わってくる温もりが、彼が幻覚などでは無いことを力強く伝えていた。
「ヘーニオ……さん……わ、わた……わたし……っ」
その確かな手の温もりが、極限まで張り詰めていたマキナの緊張の糸を解いたのか、強張っていた表情が崩れ、次第に大粒の涙をポロポロと流し始めた。
「わ、わだし……ま、まも、守れな、がっだ……!! 誰一人……助げられな、かっだ……!!」
ヒュー、ヒューと喉が引き攣り、まともに呼吸すらできていない。
英雄としての兜を外したマキナは、ただの子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼし、すがりつくようにヘーニオの手を強く握り返した。
「わだじ……みんなの『英雄』、なのに……ッ!!守らなぐちゃ、いげなかっだ、のに……!!みんな……死んじゃっだッ!!わだし……わだしなんかっ……!!」
しゃくり上げるたびに言葉は途切れ、その悲痛な叫びは血を吐くような嗚咽となって霧の中に溶けていく。
それまで黙って痛みを分かち合うように聞いていたヘーニオが、マキナが己を呪う続きの言葉を口にする前に、彼女の体を強く抱き寄せ、腕で包み込んだ。
「それ以上、先の言葉は言わないで下さい。君からそんな悲しい言葉は聞きたくないんです」
ヘーニオは震えるマキナをソッと抱きしめると、傷ついた子供を宥めるように耳元で優しく囁いた。
「辛いですよね……誰よりも役割を忠実に全うしてきた君だからこそ……」
ヘーニオの口調はどこまでも優しく、温かかった。
マキナの嗚咽と涙こそすぐには止まらなかったが、それでもヘーニオの腕の中で小刻みに震えていた肩は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
マリアルザに植え付けられた深い絶望の海から、彼女の意識がようやく水面へと引き上げられようとしていた。
「少し、ここで休んでいて下さい。今の君に、これ以上の戦いを強いるのは酷ですから」
顔を覆うフルフェイスマスクで素顔の表情は読み取れない。
しかしその奥では、ひだまりのように優しい笑みを浮かべているであろうことを、マキナは確かに感じ取っていた。
「休んでろ?おやおや、まさかとは思いますが……ただの人間である貴方が、『英雄』様の代わりに私と戦うおつもりで?」
これまで警戒して二人に介入してこなかったマリアルザが、再び見下すような表情と冷たい笑みを浮かべて語りかける。
彼女がすぐに攻撃を仕掛けなかったのは、突如現れたヘーニオを意識してのものだった。
彼がここまで到達できた以上、何らかの形で自身の魔法を無効化する未知の術があるのではないかと警戒していたのだ。
そうでなければ、先程マキナが使ったあの魔力を乱す筒のような、出処も原理も知れない異質な魔道具など持ち合わせているはずがないからだ。
「そうですね。どうやらそうするしか無いようです。本当はこんなに早く介入するつもりは無かったんですが……」
ヘーニオはマキナの頬を伝う涙をソッと指で拭うと、ゆっくりと立ち上がり、マリアルザの方へと静かに向き直った。
「彼女の無垢な心をこうも悪趣味に踏み躙る輩が相手じゃ、仕方ありませんね」
ヘーニオの纏う空気が、一瞬にして冷たく鋭く変わり、これまでマキナに向けられてきた友好的で温かいものではない。
声を荒げることすらしないその静けさが、逆に一切の容赦を持たない底知れない怒りの深さを物語っていた。
だが、マリアルザが真に反応し戦慄したのはそこではない。
「(やはりおかしいですね……いま目の前からこれほど明確に刺すような敵意を感じているのに、私の『霧』を介した魔法の知覚からは『何も』感じない……!)」
長い魔族の生涯において、目の前に存在しているのに世界から切り離されているかのような未知の感覚に、マリアルザは極めて慎重な姿勢を見せた。
実体を晒すリスクを無くすべく、再び周囲の霧をより濃く発生させ、自身の姿を完全に隠す。
「へ、ヘーニオさん気を付けて!マリアルザの出す光や音を聞いちゃダメです!」
マキナが声を上げるが、ヘーニオは大丈夫という言葉の代わりに、小さく片手を上げて返した。
程なくして、周囲一帯の霧が異常な発光を見せる。その瞬間、明滅する光に合わせて死角から無数の鋭い刃が出現し、一斉に襲い掛かった。
ヘーニオに対してではなく、後ろで倒れ込んでいるマキナに対して。
「あっ……!?」
この時、マキナは完全に油断していた。
絶望で心を折られかけ、ヘーニオの温もりによってギリギリのところで自我を持ち直したばかりの彼女は、警戒心まで戻すことができていなかったのだ。
マリアルザは、その戦士としての隙を正確に見抜いていた。
故に、得体の知れないヘーニオを直接狙うのではなく、確実に仕留められる弱ったマキナをターゲットにしたのだ。
無数の刃が肉を穿ち突き刺さる音が、霧のなか一帯に生々しく響き渡る。
マキナは全身に走る激痛が襲い掛かるその瞬間を、強く目を瞑って待ち構えていた。
「……?」
だが、その肉を裂かれる瞬間はいつまで経っても訪れ無い。
恐る恐るマキナが目を開くと……
「ヘーニオさん!?」
そこには、マキナに覆い被さるようにして彼女を完全に庇い、その背中や手足の全身に無数の刃が深々と突き刺さったヘーニオの痛々しい姿があった。
「な、なんで!!わ、私は大丈夫だって……!!傷は治るって、言ったのに!!」
マキナは慌てて血を流して崩れ落ちるヘーニオの体を抱き抱え、半狂乱で声をかけるが、ヘーニオからの返答は何も無い。
「……ふふふ、あっはっはっはっは!!」
次の瞬間、マリアルザの歓喜に満ちた笑い声が、霧のどこからともなく反響して聞こえてくる。
「大口叩いて現れるからどんな秘策があるのかと警戒して損しましたわ!!私が弱った『英雄』様を不意打ちするのは完全に予想外でいらっしゃいましたかぁ!!??」
どこまでも下卑た勝利を確信する笑い声が、霧を通して一帯に不快に木霊し、マキナはピクリとも動かないヘーニオの温かい血に塗れた姿に、再び絶望の涙を溢す。
「警戒して損しましたわ。少々ショーを終わらせるのが遅くはなりましたが、改めてこのまま無力な『英雄』様にトドメを……」
周囲の霧がより一層深く冷たくなり、マリアルザの明確な殺意を反映させたかのように、マキナを死の檻で囲うようにして激しく蠢き出す……まさにその時であった。
「まぁまぁ、そう慌てなさんな」
「「!?」」
再び濃い霧の中から、第三者の声が静かに聞こえてくるが、それは腕の中で倒れるヘーニオのものではない。
マキナとマリアルザの二人が、時間を止めたように息を呑んで驚愕するも、両者の驚きの意味合いはまるで異なるものだった。
マリアルザは自らの絶対の領域で気配を感じ取れないまま、またしても声が聞こえてきた事実に戦慄していた。
一方でマキナは、その聞き覚えのある声の響きそのものに驚愕していた。
濃くなった霧の奥から、先程のヘーニオのように一つの人影が歩いてくる。
近付くにつれ、そのシルエットの輪郭が明らかになっていき、次第にマキナの目が大きく見開かれていく。
百六十センチほどの身長に、無駄のない細身のシルエット。洗練された整った顔立ちに、ぱっちりと開いた意思の強い瞳が印象的な堂々たる美貌。
霧の中でも決して色褪せない、二つに結ばれた見事なブロンドヘアーで、大人の落ち着きと少女の可憐さを両立させた髪型。
マキナの前に姿を現した彼女は……
「……ディジー!!」
「やぁマキナ。また会ったね」
プロディジー・マエストロ、その人であった。
後書きです
ども、琥珀です。
SW特別企画の五日目です!!
このまま25日まで連日更新しますので、宜しくお願いします!
連休ももうすぐ終わりかぁ……
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は明日の朝7時頃を予定しておりますので宜しくお願いします。




