63.幕間
「口を大きく開けて、あ〜って言ってみろ」
「あ〜……」
ジッと口内の奥を見据え、喉の粘膜まで入念に確認した後、イグニヴァは頬に添えていた両手を離し、椅子の音を響かせながら机に向き直った。
「問題ねぇな。外傷の腫れも殆ど引いてるし、固形の食事も満足に摂れてる。完治で良いだろ」
羊皮紙の上をペン先が滑る乾いた音を響かせつつ事務的な口調で淡々と告げると、並んで座っていたソラとカイリーは顔を見合わせて安堵の笑みを浮かべた。
その光景を視界の端で捉えたイグニヴァも柄にもなく口元を僅かに緩め、満足げに鼻を鳴らす。
「後遺症の兆候もねえし、まぁ明日には元の場所に戻っても問題ないな」
しかし彼女が何気なく放った一言が室内の空気をわずかに凍らせ、先程までの明るい熱量が嘘のように、二人は力なく俯いて表情を曇らせる。
空気の変質に即座に気付いたイグニヴァは眉を寄せ、訝しげに低い声をかけた。
「なんだよ。怪我が治ったのが嬉しくねえのか?」
「ち、違うよ!!ただ……」
即座に否定の声は返るがその先が言葉にならず、カイの視線は行き場を失って宙を彷徨い、隣に立つソラが震える呼吸を小さく吸い込んでゆっくりと顔を上げる。
「傷が治ったら、もうここから出ていかないと行けないんだよね……また、あの元の場所に戻らないと行けないんだよね……?」
縋るような響きを受けて、イグニヴァはようやく理由を悟り、机上に置かれたカルテへと静かに手を伸ばした。
治療の過程で何度もめくられた紙面には、几帳面な筆致で怪我の詳報や回復の速度まで一切の隙なく書き込まれているが、最上段の身寄りの欄だけが不自然なほど白く残されている。
『あの二人は孤児です。恐らくは魔族との戦乱の中で親を失い、安全な壁の内側で住む権利すら与えられず、それでも必死に壁の外で生きてきたのでしょう』
紙面に視線を落としたまま、イグニヴァの脳裏にラヴィスの穏やかで悲痛な声が静かに蘇る。
二人が肩を寄せ合って俯いた理由は、再びあの恐怖が支配する環境へ戻ることへの根源的な恐れと拒絶だった。
ここにいる間、二人には清潔で温かい寝床と食事が保証され、夜通し襲撃の心配をする必要のない安らぎの時間が与えられていた。
だが一歩外に出れば冷え切った地面には魔物による死と隣り合わせの地獄が待っており、まだ小さな掌しか持たぬ二人にとってあまりにも重すぎる現実だ。
大人の暴力から手を差し伸べたのは他でもないイグニヴァ自身であり、治療が終わったからといって何もせず死地へ放り出すのは、どうしても嫌な感覚となって胸に残る。
命を救うという行為はただ傷口を塞いで終わるものではないはずだと、彼女の中の倫理が静かに訴えかけていた。
だが同時に、過剰な干渉をすることを固く禁じられているという現実が、鎖のように彼女の思考を縛りつける。
二つの選択が胸の内で激しくせめぎ合い、出すべき言葉は喉元で止まったまま、イグニヴァはただ苦い沈黙を貫くしかなかった。
●●●
「随分と難しい顔をしていますね、イグニヴァ」
食卓に並んだ料理が白い湯気を立てる中、思考の底に沈むイグニヴァをラヴィスが気遣うように声を掛けた。
「あ〜……ちょっとな」
「あの二人のことで、悩んでいるのでしょう」
核心を容易く言い当てられ、イグニヴァは僅かに眉を歪めて不貞腐れたように唇を尖らせて視線を逸らす。
「なぁんかこのまま放り出すのは、筋が通らねえ気がするんだよな。ここで助けた命が、外に戻した途端にあっさり消えちまったら、どうにも寝覚めが悪ぃっていうかさ」
「ですが、このまま無期限にここで保護するわけにも行きません。彼らの生きるべき世界は、あくまで壁の外の世界なのですから」
「それは分かってんだけどよ……」
やり場のない苛立ちを吐き出し切れぬまま、イグニヴァは頭を抱えて机へと重く身を預けた。
一見すれば冷たく突き放すように聞こえる言葉ではあるが、ラヴィスとて決して無関心なわけではない。
本来ならより重い責を負うべきは、きっかけを作った彼女とも言えるからだ。
互いに正解を見失い、重苦しい沈黙が食卓の空気となって沈み込む中、同席していた一際目を引く美女のオルディナが凛とした声を響かせた。
「リベルから休息を与えられたとはいえ、フラフラと無警戒に世界を観て回るから、そうやって下らない面倒事に巻き込まれるのよ。過干渉は身を滅ぼだけだって、何度も釘を刺したでしょ」
白いナプキンで優雅に口元を拭う仕草と共に放たれた鋭利な刃のように冷たい言葉が、二人の思考の迷いを断ち切る。
イグニヴァとラヴィスは揃って押し黙り、正論という名の圧力を前に返す言葉を失うも、その隣でリベルが頬杖をつきながら、どこか愉しげに薄い口元を歪めていた。
「何よ……」
「いやぁ〜、今のオルディナの正論、ヴィヴィが聞いたらなんて言うかなぁ……なんて、ちょっと思っちゃってさ」
その意外な名を出された瞬間、オルディナの白い頬がわずかに色づき、凍てつくような鋭い視線がリベルへ突き刺さる。
リベルはわざとらしく大袈裟に肩をすくめて見せると、今度は試すような視線を二人へと流した。
「まぁ、オルディナの言う通りだ。これ以上、俺らの方からあの子らに何かを無償で施すのは、流石に許容過干渉だ。どんな影響が起きるか分からない以上、医者としてしてあげられることは、もう全てやり遂げたと思うよ」
はっきりと境界を区切られた言葉は鉄の重みを持って胸に深く沈んでいく。
だが直後、リベルは再び悪戯めいた笑みを浮かべ、わずかに声色を潜めて意味深に続けた。
「───あくまで、俺らから施せるのはそこまでって話だけど」
その含みのある一言に最初は意味を掴みかねて呆然とするも、数瞬遅れて思考の点と線が繋がり、二人は弾かれたように顔を見合わせた。
リベルは満足げに深く頷き、オルディナは額に手を当てて長い溜息を吐き出した。
●●●
「イグニヴァ先生!!ここの薬草の合わせ方を教えて下さい!!」
翌日、窓から柔らかな朝の光が差し込む中、カイリーとソラの二人は正式に身体の完治を告げられた。
本来であればそこで救済の関係は終わりを迎え、二人は再び外の世界へと戻るはずだった。
だがその場で、イグニヴァは僅かに重苦しい間を置き、ぶっきらぼうに一言だけを付け加えた。
「……もし、お前らがこれから生きていくために何か学びたいんだったら、飽きるまで付き合ってやる」
自らの意志で手を差し伸べて保護し続けることは許されない。
リベルが示した意図は明確であり、あくまで『相手から強く求められた場合のみ応じる』という受動的な形を取ることで、一線を越えないための卑怯な理屈を作り出すことだった。
残れとも教えるとも言わず、ただ望むならそこに在ってもいいという僅かな選択肢だけを差し出し、その確かな希望の糸に二人は迷うことなく全力で手を伸ばした。
カイは自分たちを救ったイグニヴァの手腕に心を打たれ、生きるための知識を求めて瞳を輝かせながら次々と問いを重ねていく。
一方のソラはといえば───
「ラヴィスさん!!次はこの野菜を、どんな風に切ったら良いかな?」
包丁がまな板を叩く小気味良いリズムを響かせながら、弾んだ声を上げる。
治療中に口にしたあの温かい料理の香りと味が忘れられず、それを作り出したラヴィスの料理の教えを乞うことを自ら選んだのだ。
実のところリベルは、特にイグニヴァがあの子らを簡単に手放せないことを早い段階で見抜いていた。
そしてソラが自ら何かに縋り付いてでも関わろうとする強い瞳を見た瞬間、この詭弁を成立させるための算段を全て固めていたのだ。
結果として策は見事に嵌り、子供たちは生きる術を学び始めるに至る。
「ふん。私は知らないからね」
その代償としてリベルは不機嫌になったオルディナの機嫌をしばらく取る羽目になったが、それは別の話。
この歪で危うい関係が長くは続かないことは誰の目にも明らかだったが、それでも、いつか二人が再び過酷な外の世界へと戻るその時に、僅かでも自分の命を守り抜ける術を掴めるように。
二人は幼い彼らが投げる無垢な問いに応え続けるのだった。
※後書きです
ども、琥珀です。
久々に登場リベル's
彼らが余りにも登場しないと完全に忘れ去られてしまうと思い、カイとソラのその後も添えて書きました
これで暫くはモチますよね……?
余談ですが、Xの方でマキナとディジーの水着を公開してますので、宜しければ(?)
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