5.壁の外
女性の問いに、少年はハッと息を呑み口元を手で塞ぐ。
だが、その後ゆっくりと、確かに頷いた。
国外の者が許可なく壁の中へ入ることは、重大な罪とされている。
それ以上に外の人間は忌避と差別の対象であり、名乗っただけで暴力を受けることもある。
少年はその現実を幾度も経験してきた。
だからこそ、今の発言がどれほど不用意だったかを直感で悟っていた。
おそるおそる女性の表情をうかがう。
だが彼女の目に、怒りも蔑みもなかった。
「そう……それは辛かったわね。毎日、生き延びるだけで精一杯だったんでしょう……」
予想だにしていなかった反応に、少年はただ茫然と立ち尽くすしかなかった。
話を聞き終えた女性は、すぐに二つの袋を取り出した。
一つには、手に持っていた食材籠からいくつかの食材を詰める。
もう一つの小袋には、財布の中身をそのままひっくり返すようにして、無造作に金銭を入れた。
袋の口をきゅっと紐で縛ると、彼女はそれを少年に差し出す。
「はい、どうぞ」
「は……? ……え?」
あまりに自然な一連の流れに、少年は理解が追いつかず手元の袋と目の前の女性とを交互に見比べる。
「え、えっと……これは?」
「お金と食材です」
「うん、だよね……じゃなくて!!な、なんで……?」
まるで事情を知らない赤の他人のような反応を見せる少年に、女性は小首を傾げ、やがてその意図に気づいたようにぽんと手を重ねた。
「私が返して欲しかったのは、この財布だけです。それはもう、ちゃんと返していただきましたから」
彼女は先ほど少年から返された財布を取り出して見せると、柔らかく微笑んだ。
「で、でも……食材だけじゃなくて、お金まで……。お、俺、盗みを働いたのに……」
事情があったとはいえ、やはり悪事を働いてしまった後ろめたさに、少年は戸惑いを隠せない。
そんな彼に、女性は凛とした表情で語りかける。
「確かに、あなたは盗みを働きました。その理由が私利私欲……つまり、自分のためだけであったのなら、私はこんなことしません。私はお人好しではありませんので」
その口調には厳しさがあったが、真っ直ぐに向けられる眼差しは、少年の内面を見据えていた。
「でもあなたは、妹さんを助けたくて、罪悪感を抱きながらも必死に動いた。その想いと勇気は、たとえ手段が間違っていたとしても、尊うべきものだと私は思います」
女性は再び、柔らかな笑みを浮かべた。
「……信じて、くれるの?」
「あら。嘘なんですか?」
彼女の問いに、少年は何度も力強く首を振った。
「ご自身であまり意識していないのですが……私のご主人様も、あなたと同じように、自分以外の誰かのために動かれる方です。その姿勢に貴方を重ねたのでしょうね。だから私もあなたの行動を良しとしています」
女性は一本の指を立て、「ですが」と続ける。
「誰かのためであっても、その誰かを泣かせるようなことをしてはいけません。それは“その人のため”という言い訳でしかなくなってしまうから。妹さんを本当に想うのならば、あなた自身が、妹さんの前で胸を張れるような生き方を目指してください。約束できますか?」
「胸を張れる……生き方……」
その言葉を噛みしめるように呟いた少年は、やがて大きくうなずいた。
女性はそっと彼の頭を撫でる。
「良い子ですね……ではもう一つ、謝らないといけない人がいますよ?」
女性の視線の先に気づいた少年が振り返ると、そこには視力を取り戻しつつあるマキナの姿があった。
彼女は少年の気配に気づくと、ゆっくりと仮面を外す。
まだ焦点は定まっていないようだったが、それでも近づいてくる少年の輪郭を感じ取り、自然と視線を下げた。
「その……ごめんなさい、お姉さん。目、大丈夫?」
「……うん。まだはっきりとは見えないけど、あと数分もすれば元に戻るよ」
マキナの答えに安堵したのか、それでもなお、少年の表情には罪悪感が残る。
「私の言いたいことは、もう全部そこのお姉さんが言ってくれたから。あなたが心から謝ってくれてるのは、私にもちゃんと伝わってるよ。だから、私とも約束して。ちゃんと真っ直ぐに生きていくって」
「……うん。頑張る」
少年の返事は、さっきよりも落ち着いた声だった。
「じゃあ、もう行って。そのお金を大事に使って、妹さんをしっかり守るんだよ」
少年は静かに歩き出し、大通りに差し掛かる手前で一度振り返ると、二人に大きく手を振って去っていった。
マキナと女性も、それに応えるように手を振り返す。
少年の姿が人混みに紛れて完全に見えなくなった頃、マキナは大きく息を吐いた。
「あら、どうされました?」
どこか浮かない表情をしていたマキナに、女性が声をかける。
「いえ……その……詐欺から助けてもらったお礼がしたくて動いたのに、結局全部、貴方に助けられちゃって……なんだか情けなくって」
「そんなことありませんよ」
その言葉を、女性は即座に否定した。
「貴方がすぐに動いてくださったからあの子を捕まえることができましたし、財布を返してもらうこともできました」
手に持った財布を眺め、そして改めてマキナに視線を向ける。
「誰かの、しかも先程会ったばかりの他人のためにそこまで動ける人なんてそうそういません。本当に、ありがとうございます」
女性は膝の前で手を揃えると、丁寧に頭を下げた。
マキナは慌てて彼女を止めようと顔を上げさせるも、自身の頬の緊張はまだ少しだけ残っていた。
「……まだ、何か引っ掛かることが?」
それを鋭く見抜かれ、マキナは言葉に詰まりながらも、ゆっくりと答え始める。
「……私、あの子に何か事情があるって言葉を聞いて、それでも実力行使に出ることしか出来なかったんです。お姉さんはあの子の心情に寄り添って、本心まで聞き出した上で改心させられたのに……」
彼女は知らない。しかし――マキナは、この世界において“英雄”と呼ばれる存在だ。
その実態は、ただひたすらに魔族と戦い続ける孤高の戦士。
血を流し、命を賭して拳を振るうことで、人々の平和を陰から支えている。
だが、一人の力だけで守れるものには限りがある。
それを知っているからこそ、マキナは時折、自ら人と対話し心を通わせることを選んでいた。
本来であればあの少年とも、そうすべきだったのに。
彼女の瞳が伏せられ、唇がわずかに震える。
失われた小さな接点を悔やむように。
そんな彼女の心の揺れを受けて、女性もまたふと表情を曇らせる。
「……確かに私は、あの子に情けをかけて、立ち直るように声を掛けました。ですが――私の言ったような綺麗事だけでは、生きていけない現実もあります」
「え……?」
驚いたように顔を上げたマキナに、女性は淡い憂いをたたえた眼差しで言葉を続ける。
「渡した食糧とお金をやりくりすれば、半月ほどは生き延びられるでしょう。けれど、それは――あくまで“物資”の話です」
「……それって、どういう……?」
マキナが問い返すと、女性はふと視線を逸らし、遠くにそびえる城壁を見上げた。
「あの子は言いました。国外で暮らしている、と。つまり、あの壁の外の世界で生きているということ。そこには魔族もいれば、魔物もいる。武器も持たず、守ってくれる大人もいない子どもにとっては、すべてが命を脅かす存在です」
「……あ」
妹に食事を取らせたい――その願いは、確かにかなえられた。
だが、それは単なる一時しのぎに過ぎない。
命の根本的な危機は今なお解決されてはいないのだ。
マキナは女性の言葉によって、改めてその事実を突きつけられた。
「それだけではありません。あまり差別的なことは言いたくありませんでしたが、身なりも酷く乱れていました。たとえお金を持っていたとしても、外見だけで盗人だと決めつけられる可能性は高い。実際――彼が持っていたものは、一度盗んだものですから」
この『エルゼルク王国』、そして他国も同様に、国民に安全を保証する見返りとして徴税――“徴租”を課している。
その額は決して安くない。
ましてや、子どもだけで支払えるようなものでは到底ない。
だからこそ、安全な国内に住まうことを許されず、壁の外へと追いやられる人々がいる。
マキナは人々を守る剣として生きてきたが、その制度の冷たさを否応なく理解してもいた。
国土は限られ、物資も無限ではない。
故に、国家としては保護対象を絞り込み、維持可能な秩序を保たねばならない。
――「すべての命は救えない」。
それが、この世界の厳然たる現実であり、女性の言葉が放つ重みの源でもあった。
「その場を凌ぐことは出来ても、根本の解決には至っていない……だから、私のしたことも、ただの自己満足なのかもしれません」
「そ、そんなことは……!」
否定の言葉を口にしかけたマキナだったが、女性の瞳に宿る静かな覚悟を見て、言葉を飲み込んだ。
「……また暗い雰囲気になっちゃいましたね。ごめんなさい」
沈黙を破るように、彼女は急に明るい声を上げる。
さっきまでの重苦しさを振り払うように。
「あ、もうこんな時間!そろそろ戻らないと、ご飯の準備に間に合わなくなっちゃいます。私はそろそろ、お暇を……」
「…?どうされました?」
帰り支度をしていた女性の手が、ふと止まる。
マキナが不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、自己紹介してませんでしたね。私、メイドをしております――ラヴィスと申します」
ここまで印象的な出来事を共にしながら、互いに名乗っていなかったことを、今さらながらに思い出す。
マキナも名を返そうとしたが、口を開く直前で逡巡する。
「(……私の名前、名乗っていいのかな)」
『英雄』という名が持つ意味。
それを知る者は驚き、恐れ、あるいは熱狂する。それが恐ろしくて、時に偽名を使うこともあった。
だが、目の前のラヴィスは――そんな表面ではなく、“中身”を見て接してくれるように感じていた。
助けてもらってばかりで、偽るのは違う。
そう思い直し、意を決したように名を告げる。
「わ、私は……マキナ。マキナ・アンジェリカって言います」
言った瞬間、彼女はこわごわとラヴィスの反応を窺った。だが――
「マキナさん!素敵なお名前ですね!」
ラヴィスは、ぽんっと両手を胸の前で重ね、屈託ない笑顔を浮かべていた。
そこに『英雄』への畏怖や狂信は微塵もない。
純粋に、『今ここにいる一人の人間』として言葉をかけてくれていた。
「え、あの……」
「では、マキナさん!今日のお礼は、改めてさせていただきますね!またお会いしましょう!」
「え、は……はい……え!? あのお礼をするのは、私の方……!!」
よほど急いでいたのか、それとも想像以上にせっかちな性格なのか。
ラヴィスはマキナの抗議も聞ききらぬうちに、さっさと背を向け、軽やかな足取りで去っていった。
その背中を、マキナはただ呆然と見つめていた。
けれど――心のどこかに、ぽつりと温かな灯がともる。
彼女の反応は、これまでに出会ってきた誰とも違っていた。
マキナは胸元に手を当て、そっと呟く。
「……あれ?」
ふと、ある疑問が頭をよぎる。
「ラヴィスさん……どうやって、私たちの居るところに追いついたんだろう……?」




