4.恩返し
跳躍――と呼ぶには、あまりに高く、あまりに遠い。
だが確かに、宙を舞うその姿は「地を蹴り、空を渡る」ものだった。
誰よりも素早く、誰よりも静かに。
あまりの速さに、すぐそばを歩いていた通行人でさえ気づかない。
その身体が一瞬で視界から消えたことに、誰も疑問を抱かなかった。
目立たぬように。
それは彼女が英雄であると知られてしまえば、一瞬で周囲が騒ぎになるとわかっていたから。
それが最悪の事態を招く。騒ぎに乗じて、相手に逃げられてしまうこと。
その「万が一」を避けるために、マキナは素顔を隠す仮面をつけていた。
自身が誰であるか知られること自体は構わない。
しかし、こんな平穏な街の中で無用な混乱を引き起こしたくはなかった。
「(性別、体格、服装……あの背丈なら、まだ遠くへは行っていない。けれど、人気のない裏道を通るだろうから……)」
屋根の上に静かに降り立ったマキナは、辺りを見回す。視線が左右に流れ、やがてピタリと止まる。
「見つけた」
路地裏へと走り去る小さな影――子どもだ。
マキナはその背を目にした瞬間、再び足に力を込めて跳んだ。
直線的で無駄のない軌道。風を切る音すら感じさせないほど、鋭く静かな跳躍。
着地の際には、空中で身体を一度ひねることで、足音はわずかに砂を払うような微かなものに抑えられた。
「うわっ!?な、なんだコイツ!? ていうか、どっから出てきた!?」
不意に目の前に現れた仮面の人物に、少年は跳ねるように身を引いた。
その反応に構わず、マキナは一歩前へ進み、問う。
「キミ、さっきぶつかった瞬間に――財布を抜き取ったよね?」
片膝をついた姿勢から、静かに立ち上がる。その声には圧があった。
追い詰めるのではなく、逃げ道を塞ぐような冷静さが。
「は、はぁ!? 知らないし! メイドの人の勘違いじゃない!?」
口調こそ強気だが、その瞳が泳いでいる。
そして――不用意に吐いたその言葉に、マキナの目が細められる。
「……あれ? 私、一度も『メイドの人』なんて言ってないけど?」
子どもの顔に、明らかな動揺が走り、しまった、という思いが露骨に表情に出てしまっていた。
それを見逃すはずもない。
マキナはこの少年が、確かに財布を盗んだのだと確信する、
「返しなさい。キミのやっていることは泥棒——立派な犯罪だよ」
マキナとしては至極当然の主張だった。
しかしその一言が、少年の何かを激しく刺激してしまったのだろう。
少年は目を見開き、怒りに満ちた形相で叫び返す。
「ふ、ふざけんな!!こっちの事情も知らないくせに!!」
その豹変にマキナはわずかに眉を動かすが、同時に悟る。
もはや彼が盗んだ事実を隠す気がないことに——呆れとともに、小さくため息を吐いた。
「……何か事情があるのは分かった。でも、それを理由にして悪事を正当化はできない。さあ、返して」
「く、くんな!!」
ジリジリと距離を詰めるマキナに対し、少年は警戒しながら一歩、また一歩と後ずさる。
逃走の隙をうかがっているのだ。
このままでは埒が明かない。そう判断したマキナが一歩踏み出し、距離を詰めようとした、その瞬間——
「これでも、くらえ!!」
少年がポケットから何かを取り出し、勢いよく投げつけてきた。
しかし、戦場を幾度となく渡ってきたマキナにとっては、ただの悪あがきにすぎない。
そもそも相手は子ども。その投擲は素人同然、軌道も速度も拙かった。
だが——それが仇となった。
咄嗟に顔を逸らしたマキナの視界で、投げられた小さな物体が、カッと強烈な閃光を放つ。
「えっ……!?」
完全に油断していた。
仮面越しとはいえ、その光は容赦なく視神経を焼き尽くす。
視界が真っ白に染まり、周囲の情報が一切失われた。
「こ、これは……魔道具!? いったいどこでこんなものを……!?」
魔道具——魔力を込めることで発動する簡易的な戦闘補助具。
本来は訓練された術者が戦場で使用するものであり、市場に出回ることなどまずありえない。
警戒の対象にすらなっていなかった。完全な死角。
「(どうしてあの子が、こんな物を持ってるの……!?それより、視界が……!!)」
目を凝らしても、白く濁った視界には何も映らない。焦燥心が広がっていく。
「へっへーん!!油断するからだよ、バーカ!!」
少年の勝ち誇った声が響き、続いて足音——軽やかに、しかし急ぐように遠ざかっていく。
「こ、こら待ちなさい!!」
「捕まるって分かって待つヤツがいるかよ!じゃーな!!」
彼が逃げ込んだ先は、すぐ先にある朝市の人混み。
もし今の状態でそこに飛び込まれてしまえば、追跡はほぼ不可能だ。
しかし、視力が戻るのを待っていれば、それこそ完全に見失う。
迷いが一瞬頭をよぎる。
それでもマキナは覚悟を決め、音だけを頼りにわ白い闇の中へと踏み出そうとした——そのときだった。
「つ〜かま〜えた♡」
「ムグッ!?」
突如として、少年の視界が真っ暗に染まり、全身が何か柔らかく温かなもので包まれた。
「前方不注意ね、少年くん」
何が起きたのか理解できないまま、少年は必死に暴れ続ける。
だがその腕も脚も、まるで優しい絹の網に囚われたように、微動だにしない。
彼を包み込んでいたのはメイド服に身を包んだ一人の女性。
その紫の髪を揺らし、余裕すら漂わせる笑みを浮かべていた。
そして彼女は、少年の両脇に腕をまわし、軽々と持ち上げる。
その顔を自らのすぐそばへと引き寄せたことで、ようやく少年は目の前の女性が先ほど財布を盗んだ相手であることに気づく。
「まったくもう。人のモノを盗んじゃダメでしょう?」
「は、離せよ!!って……うわっ、高ぁ!?」
足をバタつかせて抵抗しようとするも、170cmにのぼる身長の女性に抱き上げられた少年は高所の恐怖に気圧され、あっさりとおとなしくなってしまう。
「少年くん、きっと何か事情があるんでしょうけどね……そのサイフは私のとっても大切な人から託されたものなの。だから、お姉さんに返してくれない?」
優しい声色で語りかけながら、女性は少年の顔へそっと距離を詰める。
その声音には威圧も嘲笑もなく、ただまっすぐな慈愛が込められていた。
少年は一度だけ意地を張るように目をそらす。
しかしその優しさに触れた瞬間、心の糸がほどけたかのようにぽつりと呟いた。
「……わかったよ……」
女性は嬉しそうに微笑み、少年をゆっくりと地面へ下ろす。
解放された少年は、逃げ出す素振りも見せず約束どおり懐から財布を取り出して手渡す。
受け取った女性は、財布に傷がないことを確かめるとそれを胸元にぎゅっと抱きしめ、目線を合わせるように膝をついた。
「ありがとう。返してくれて、本当に嬉しいわ」
心からの感謝を、笑顔と共に少年に伝える。
その優しさに胸を打たれたのか、少年の目元にじわじわと涙が溜まっていく。
「ご……ごめ……んなさ……い!!」
堰を切ったように嗚咽しながら謝る少年の頭を、女性はそっと撫で、優しく問いかけた。
「こうやって悪いことをちゃんと悪いと認めて、謝れるってすごいことよ。でも、その様子だと何か理由があったのよね?」
少年は一瞬口を閉じる。
しかし、急かすことなく待つ彼女のまなざしに背中を押されるように、ぽつりぽつりと語りはじめる。
「……妹に……ご飯を食べさせたかったんだ。ずっと、何日も食べさせてあげられなくて……壁の中なら、食べ物があるから……だから……!」
感極まって状態での言葉に、メイドの女性は僅かに驚いた様子で言葉を遮った。
「壁の中なら……あなた、もしかして国の外から来たの?」
※後書きです
ども、琥珀です。
4月も早くも第二週。早いですね
新生活を送る方はワクワクとドキドキが二分された状態でしょうか
無理はせず、でも自分らしい生活を送れる努力はして、また平日を乗り切りましょう
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は8日の水曜日、朝7時頃を予定しておりますので宜しくお願いします。




