22.呪い
迫る死を恐れることもなく、老兵はその時をただ、今か今かと静かに待っていた。
しかし、いくら待てども肉体を粉砕するはずの衝撃が走ることはなく、グラッブはゆっくりと閉じていた瞼を開いた。
その瞳に映ったのは、絶望を撥ね退けるあまりにも過酷な光景だった。
「マキナ……様」
全身の鎧の至る箇所がひび割れ、隙間から鮮血を滴らせながらも、『ボルム』の巨大な拳を正面から受け止めている、マキナの背中だった。
「ん、ん、ん゛あ゛ぁ、ぁ、ぁ!!!!」
残された全霊を振り絞るような咆哮が、少女の細い喉から漏れる。
マキナは受け止めた拳を獣じみた力任せに押し返し、巨躯を誇る『ボルム』を無理やり後退させた。
――ピチャリ、ピチャリ、と。
その場から一歩も動いていないはずなのに、滴る血が赤黒い溜まりを作り、地を打つ音だけが不気味に響く。
立っていること自体が奇跡としか思えないほど、彼女の肉体は、見ている者の背筋が凍るほど酷く損壊していた。
その異様な姿のまま、マキナはギチギチと音を立ててゆっくりと振り返る。
その姿はまさに修羅。グラッブの背にも、言いようのない冷たい戦慄が這い登る。
だが、その次の瞬間、彼女が絞り出した言葉によって、その恐怖は音もなく消え去った。
「グラッブさん……ご無事、ですか?」
「……は?」
その声音は、地獄のような惨状とは裏腹に、あまりにも静かで穏やかなものだった。
「もし動けないのであれば、近くの家の陰にでも、隠れていて下さい」
彼女は慈しむようにそう続けた。
大切な皆が住むこの場所にまでは、たとえ自分がどうなろうと、決して被害を届かせない。
その強固な意志だけが、彼女を繋ぎ止めているようだった。
グラッブは目を見開き、ただ驚愕に震える。
目の前に立つマキナは、どう見ても自分より深い重傷を負っている。
いや、そもそも致命傷を幾つも受けてなお、生きて立っていることすら生物として不自然だった。
足を上げる筋力さえ残っていないのか、ズズズ……と鈍い音を立てて足を引きずるたびに、砕けた鎧の破片が乾いた音を立てて崩れ落ちる。
その隙間から覗く傷口は、歴戦の兵ですら目を背けたくなるほどに生々しく、皮膚は裂け、赤い肉が剥き出しになっていた。
だというのに――
彼女は自分の命よりも先に、他人の安否を気遣った。
それはもはや「優しさ」などという生易しい言葉で片付けられるものではなく、一種の狂気、あるいは異常ですらあった。
しかしグラッブはすぐに我に返り、震える声を張り上げる。今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「ま、マキナ様、なりません!! そのお身体でこれ以上戦うなど、正気の沙汰ではない!!」
悲痛な叫びに、マキナはぴたりと歩みを止める。
そしてゆっくりと、壊れた人形のような動作で体を向け直した。
その先に広がる信じがたい光景を目にし、グラッブは思わず息を呑んだ。
「大丈夫です。もう、治ってます」
――さっきまであったはずの無数の、致命的な傷。それらのほとんどが、今この瞬間、跡形もなく消え去っていた。
先程まで見ていた惨状が幻だったのかと錯覚してしまうほど、皮膚は滑らかさを取り戻し、激しかった出血も完全に止まっている。
だが、白銀の鎧にこびりついた大量の返り血と肉片が、確かにあの地獄が現実であったことを無慈悲に物語っていた。
グラッブが言葉を失っていると、マキナはどこか遠くを見つめるような、憂いを帯びた笑みを浮かべて口を開く。
「私の身体は、戦闘に支障が出ると、自動で肉体を修復する魔法が発動します。だから、たとえ手が潰れようが、毒を盛られようが、全身の骨が粉々に砕けようが……ほんの一刻の時間があれば、元通りに治るんです」
兜のせいで表情はハッキリとは分からない。
それでもいま、彼女が寂しげに笑っていることだけは痛いほど伝わってきた。
だがその笑みは、心を通わせるためのものではなく、あまりにも精巧な作り物のようだった。
グラッブの目は老いてなお鋭く、その柔らかな微笑みの裏にある、深淵のような孤独を見逃すほど鈍くはなかった。
「だから私は、ずっと戦えます。勝てないことはあっても、負けることも、終わることもない。だから、大丈夫です」
グラッブは、なす術もなく首を横に振るしかなかった。
「大丈夫」――その虚ろな言葉を口にしたとき、ヒビ割れた兜の奥に、誰にも届かない悲しみを湛えた人の姿が見えた気がした。
声を掛けようとするが、震えた喉から言葉が出るより先に、地響きが辺りを激しく揺らす。
『ボルム』が、再び殺意を宿して動き出したのだ。
「回復する時間は作って貰えた。もう一回……広場へ誘導しなきゃ」
先ほどまで力なく引きずっていた足は、今はしっかりと石畳を蹴っている。
露出した肌からは傷跡一つ消え失せ、足取りも普段と変わらぬ、軽やかな様子だった。
「待っ……!!」
グラッブが縋るように手を伸ばそうとした時にはもう遅く、鋭い跳躍体勢に入ったマキナは、再び弾丸となって宙を舞い、『ボルム』へと接近していた。
入れ替わるように、グラッブの傍へ息を切らして駆け寄る兵士たちの姿があった。
「グラッブ訓練兵長、大丈夫ですか!?」
「あぁ……足を少し痛めはしたが、それだけだ……それだけだと言うのにッ!!」
若い兵士に支えられて立ち上がると、グラッブは憎しみさえ込めて戦場を見やった。
その視線の先には、街の家屋への被害を最小限に留めようと己を盾にしながら、再び『ボルム』と対峙する、小さなマキナの背中があった。
「やっぱり凄いですよ、マキナ様は」
ふと、隣にいた兵士が、心からの感嘆の声を洩らす。
「あれだけボロボロだった傷が一瞬で治って、それでまたすぐに戦ってるんですから、俺たちの誇りですよ」
「あぁ、間違いない……きっと神様か天使様から与えられた祝福だ。魔族を倒すために、特別に授けられた加護ってやつだな」
その若者らしい無垢で残酷な称賛の言葉に、グラッブは静かに、苦渋に満ちた瞼を閉じた。
「そうか。お主らには、あれが天からの祝福に見えるのか……天使がマキナ様を守るために与えた、慈悲深い加護だと」
「え……?」
血を吐き出すように呟いた言葉に、兵士たちは困惑して顔を見合わせた。
「私には到底そうは思えん。いくら肉体が癒えるとはいえ、傷を負った瞬間の絶叫したくなるような痛みまでは決して消えぬはずだ。だが傷が治るという一点のみで、彼女は永遠に『英雄』として戦い続けねばならぬ。それが、我々が、世界が望んできた英雄の姿なのだからな」
語られる静かな言葉に、兵士たちの高揚していた顔が次第に青ざめていく。
「傷つこうとも、骨が粉砕されようとも、すぐに癒えるがゆえに倒れることすら許されぬ。戦いを止める権利さえ、彼女からは奪われているのだ……これを呪いと言わずして、一体何だというのだ」
その震える声には、どこかマキナ自身の悲鳴を代弁しているような、痛切な想いが込められていた。
兵士たちは先ほどとは打って変わった怯えの表情で、『ボルム』と死闘を繰り広げるマキナの姿を見守ることしかできなかった。
一方、再び『ボルム』と相対したマキナは、全身を貫く激痛に意識を焼かれながらも戦い続けていた。
表面的な傷は徐々に癒えていたものの、内部の深部、神経にまで達する回復が追いつかず、動くたびに身体の内側から悲鳴が漏れる。
皮肉なことに、その死の限界を告げる痛みこそが、マキナの意識を必死に繋ぎとめ、非人間的な戦闘の継続を可能にしていた。
「(広場まで、あと少し、守らなきゃ、私が、やらなきゃ……)」
何を考えているのかさえ曖昧な意識の濁流の中で、ただひたすらに、『英雄』としての重すぎる使命感だけが、歯を食いしばる彼女の身体を機械的に動かし続けていた。
そしてついに、四方を堅牢な石壁に囲まれた、周囲に何もない中央広場へとたどり着く。
「(よし……ここでボルムと正面から対峙して、核の位置を把握して……そしたら……)」
目的を達した安心感が、わずかに彼女の極限の集中力を揺らす。
その一瞬、瞬きほどの隙が、『ボルム』が放つ猛烈な反撃のタイミングと重なった。
『ボルム』はここまでの追撃の中で、小回りの効くマキナを直接捉えることは困難だと、本能的な狡猾さで理解していた。
だからこそ遮蔽物のない広場に出た瞬間、『ボルム』は全体重を乗せた両腕を地面へ強烈に叩きつけた。
その一撃は巨大な衝撃波となり、逃げ場のない広場の空間を激しく震わせる。
幸い広場には守るべき建物がほとんどなく、マキナの計算通り、街への被害は最小限に抑えられた。
しかしその殺意に満ちた衝撃波は、マキナが着地する瞬間の硬直と完璧に重なった。
普段なら容易くかわすはずの一撃を、蓄積された疲労と心身の摩耗が容赦なく蝕み、防御の判断を致命的に誤らせた。
「あ……」
着地の瞬間、大地が激しく波打ち、足元が崩れ落ちる。
その直後に下から突き上げるように押し寄せた衝撃波に身体を軽々と持ち上げられ、彼女の小さな体は宙に浮いてしまう。
「しまっ……!!」
己の失態に気づいた刹那、太陽を遮るほどの巨大な影が、頭上から襲いかかった。
それはボルムの、巨大な岩柱のような足。
全体重を乗せた無慈悲な質量が、逃げ場のない空中を狙い、マキナを地表ごと深々と踏み潰した。
※後書きです
ども、琥珀です。
連続投稿、終わったぁ!!
いやぁ、ストックはあったんですけど、投稿に合わせて本文をもう一度見直したり、告知文考えたり、後書き考えたり……
後書きはまぁ……うん
そんなこんなで意外と準備に時間取られてしまって……
改めて、更新頻度の高い方々には頭が下がる思いです……
ここからはまた通常の月・水・金の週三更新に戻りますが、引き続き本作の方を何卒宜しくお願い致します。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次回の更新は金曜日の朝7時頃を予定しておりますので宜しくお願いします。
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