第二十二話 蹴鞠の少年
八月下旬あたりだろうか、酔芙蓉の花々があちこちの野道に咲き暑さもおさまりをみせてきた。小彩が朝から乾燥した鮎やフナなどの魚を麻布に丁寧にくるんでいる。その他にもねぎや大根、小さな梨もある。干し柿を片手に持ち少し悩んだあと、それを上手に隙間につめこむと満足げに言った。
「燈花様、明日は多武峰にある寺に用がありますので行って参ります」
「多武峰の寺?」
「はい、ここから一里半ほど歩いた山の上に寺とお屋敷があるのです。食材をお届けしようと思って…」
小彩は荷物に手を置くと微かに微笑んだ。ピクニックにでも行くかのようにはしゃぎたいのをグッとこらえているようにも見えた。多武峰といえば談山神社しか思い浮かばないが、そこへ向かうのだろうか?
「そう…誰かお付きの者はいるのでしょう?」
一里半とは現代で言えば恐らく6キロ位で、徒歩で2時間弱くらいだろう。この時代に6キロの山道を歩くのはさほど大変な事ではないかもしれないが、一人でこの荷物を運ぶには無謀すぎる。
「いえ、一人で運ぶつもりです。個人的な用なので…」
小彩はそう言うと下を向いた。彼女が役所から頼まれた仕事以外で遠出するのは珍しい。むしろ初耳かもしれない。今まで、彼女のプライベートな話を聞いた事がない。くだらない話はもちろんするが、少し深い話になるといつも話をごまかしたり濁らせたりした。
そんなつれない彼女の態度に私も最初のうちはふてくされたが、よくよく考えてみると私にも秘密があるのだからおあいこだとだと思って、いつしか聞くのをやめた。
「では私も共に行くわ。もう完全に足首も治ったし、久しぶりに遠出して気分転換したいのよ」
「しかしなかなか険しい道のりですよ?」
小彩が疑いの眼差しを向けた。
「大丈夫よ、こう見えて意外と体力はあるのよ…それに正直、宮の中だけでは気持ちも滅入ってしまって…」
「まぁ、確かにそうですね。多武峰のお屋敷でしたら、燈花様を知る方もいらっしゃらないと思いますし、問題なさそうですね…うんうん」
小彩は腕を組みながら、ぶつぶつと独り言のようにつぶやいた後大きく手をパチンと叩きこちらを見て言った。
「では燈花様、明日一緒に参りましょう」
「良かった。楽しみだわ」
翌日、私達は予定通り朝早くに橘宮を出発した。荷物を肩から斜めにかけると草鞋を入念にチェックした。まるで小学校の遠足にでも行くようでウキウキした。
「燈花様と共に行くので荷物が半分に減りました」
小彩が申し訳なさそうに私を見て言った。いくら体力のある彼女といえども7キロ弱の山道をこの荷を持って一人歩くのはしんどいに違いない。もちろん力になりたいと思って申し出た事だが、それよりも彼女の個人的な用が何なのかを知りたかった。
「でも何故こんなに沢山の食材を持っていくの?」
いつも必要最低限の物しか買わない質素な小彩が珍しく大量の物を欲張って詰め込んだ気がしていたのだ。
「実は近江より皇子様がお戻りになり、しばらく多武峰の寺に滞在するようなのです。昨年大唐より帰国されました先生の下で儒学を学ばれるとかで…」
「そう…」
近江からの皇子さま…か…。始めは二人で他愛もない会話をしながら山道を歩いていたが、忠告された通りの険しい山道に入ると途中何度も足が止まった。
それでも何とか歩みを進めていくと木々の奥に寺の瓦屋根らしきものが少し見えた。あと少し、あと少しと自分を励ましやっとの思いで登り終えると寺の境内らしき場所に出た。あたりはシーンとしていて人の気配はなく、寺からは線香の白い煙と白檀の香りが漂っていた。
やっと着いた…荷物を降ろし曲がった腰を伸ばした。びっしょりかいた額の汗をぬぐうと山から涼しい風が吹いてきた。ひんやりとした風が気持ちいい。あらためて辺りを見回すと寺の境内を囲むように青々とした青紅葉が茂っている。
「燈花様、ありがとうございました。とても助かりました」
先に登り終わっていた小彩が寺の奥から顔を出し、慌てて走ってきて言った。
「小彩、あなたの言う通り険しい道のりだったわ。疲れたけどとても気持ちがいいわ」
私は上がった息を整えながら言った。
「それを聞いて安心しました。私、残りの荷物をこの先にある屋敷に運びますので、燈花様はここで待っていて下さい」
「え?この先にも屋敷があるの?」
私がっくりと肩を落として言ったのがおかしかったらしく、小彩はクスクスと笑ったあと残りの荷を手に取った。
「悪いけど、私はここで待っているわ、限界よ…」
その場にしゃがみこみ力なく答えた。
「もちろんでございます。そうだ燈花様、そこの藪の中に見える小道を少し行った先に、山の麓を見渡せる小さな場所があるのです。天気もいいですし、もしかしたら飛鳥の都が見えるかもしれません」
「そうなの⁈なら、行ってみるわ!」
まるで高山の登頂に成功したかのような満足感が湧き上がり、疲れが吹き飛んだ。
私は小彩を見送ると、教えてもらった小道を木々をかきわけながら進んだ。言われた通り少し行くと目の前が開け眼下に青々とした山々が広がった。
圧巻の景色だ。山々の奥に小さく朱色の建物が見えた。きっと飛鳥の都に違いない。
空はどこまでも青く澄み渡り真っ白なうろこ雲がぷかぷかと浮いている。ちょうど都の頭上にかかった白い雲が大空を駆け巡る白龍のように見えた。その姿を眺めているうちに山代王を思い出した。
きっと彼もこの雲の龍のように朝廷の中を高く高く昇っていったのだろう…。
喜ばしいことなのに胸がきゅんと痛んだ。
ガサガサ、ガサガサ
「毬や~どこに行った~」
突然背後から草をかき分ける音と共に男の声が聞こえた。大人の男というよりはまだあどけさなが残る少年のようなかすれた声だ。辺りを見渡すと生い茂った藪の中に人影が見えた。
「あっ、あった!もう少し…」
人影は木によじ登ると少し高い場所にある枝に手を伸ばしている。何かひっかかった物でも取ろうとしているようだった。ガサガサ、ガサガサと葉が擦れる音がしたあとバキバキバキッと枝が折れる音と共にドスンと大きな音が聞こえた。
「イタっ…うぅ…」
すぐにうめき声が聞こえた。私は急いで藪の中の木々をかきわけ近寄った。見ると十四、五才くらいの少年が草むらの中でうずくまっている。苦痛の表情をし血がポタポタと滴る手首を押さえていた。
「た、大変!」
私はすぐに少年の隣に座り腕の袖をめくり傷口を確認した。木から落ちた時に運悪く枝で手首を切ったのだろう、血が溢れ出ている。私は急いで手巾を取り出し傷口に当て上から強く押えた。見た目よりも傷口が深いらしくすぐに手巾に血が滲んだ。
この布だけで止血できるだろうか…確か茜の葉には止血作用があったはず…この藪の中だったら見つかるかも…。
「そのまま腕を高くして。今止血できる薬草を探してくるから、このまま強く上から押えておいて」
私はそう少年に伝えると、急いで草むらの中の茜の葉を探しはじめた。よく子供の頃、母と共に土手や雑木林に入っては様々な野草の種類を教わった。茜の葉も例外ではなく何度も目にしたことがあった。田舎の農家で生まれ育った母が与えてくれた知識に大いに感謝した。
運良く探しはじめてすぐに藪の中で十字のハート型の茜の葉を見つけた。私は急いで葉をかき集めると少年のもとに戻った。正しい処置の仕方はわからないが、とにかく集めた茜の葉をもみほぐした後傷口に押し当てもう一度手巾で強く縛り直した。
「これで止血できるといいのだけど、傷口が深そうだから後で必ず医官に診てもらって」
「わかった」
少年が真っすぐな瞳で答えた。よく見ると少年は美しい薄水色の衣をまとい、髪もきれいに頭上高く結われていて翡翠の簪がキラリと光っている。見るからに身分が高そうだ…。でも今はそんな事を考えている場合ではない。
「立てる?」
少年は軽く頷いたあとゆっくりと起き上がるとボソリと言った。
「そこに、毬があるのだ…」
「毬?」
少年が指さした先の藪の中に山吹色の毬が見えた。
「その毬を探しに、山の中に入ったのだ」
「そう…」
私は毬を拾い上げると少年の体を支えながら来た道に戻った。ちょうど寺の境内に戻ると石の上で座っていた大柄な男が私達の姿を見て飛んできた。
「わ、若様!お、お怪我を⁈」
男はあたふたと近寄ると眉間にシワを寄せ不安気に少年の顔を覗き込んだ。そしてすぐに私を見ると勇ましい顔で怒鳴った。
「そなたが、若様に傷を負わせたのか?なんたることを!」
そして腰に刺してあった剣の柄に手をかけた。
「違うのだ、落ち着け鎌足。この者は何も悪くない、私を助けてくれたのだ」
少年が男を諌めるように言った。
「まことでございますか若様?」
男はまだ疑わし気に私を見ている。
「そうだ、私がこっそり境内で蹴鞠の練習をしていたのだ。そなたを負かしたくてな…でも、毬を強く蹴ってしまい運悪くそこの藪の奥に飛んでいってしまった。毬を探している最中に誤って傷を負ったのだ。本当だ鎌足、この者は何も悪くない」
「さ、さようですか…」
男はバツが悪そうにそう答えたあと、再びキッと鋭い目で私を睨みつけ言った。
「なれど、皇子様に何かあればそなたも生きてはおられぬからな。じきに天下を治められる高貴なお方であるのだぞ」
「よさぬか鎌足、軽い怪我くらいでそうムキになるな」
少年は苦笑いをし私をちらっと見た後、男と共に寺の奥へと消えて行った。
私は小さくなる二人の後ろ姿を見ていたが、
私の中の時間は完全に止まっていた。
ちょっと待って…今、確かに少年の口から鎌足という名を聞いた…しかも二回、まさか…まさか、あの中臣鎌足だろうか…もし仮にそうだとしたら、あの少年は…皇子と言っていた…そう、思い出した、近江から来た皇子…あの少年は…中大兄皇子…後の天智天皇…しかも二人は飛鳥寺の蹴鞠会で出会っている…。
何故なのか底知れぬ恐怖に足がガクガクと震えはじめ指先が冷たくなっていくのがわかった。漠然とした不安が襲い掛かった。とても動揺している。確実に何かが動き出した気がした。
「燈花様~!」
小彩が大きく手を振りながら寺の奥から走ってきた。
「ハァハァ…燈花様、お待たせしてすみません。奥の厨房で今晩出す夕食の手伝いをしていて…燈花様?」
小彩が立ちすくむ私の顔を覗き込んだ。
「燈花様?大丈夫ですか?どうかされ…あっ、お袖に血がついております!どこか怪我をされたのですか!?」
小彩はパニックだ。
「大丈夫。大丈夫よ、怪我などしていないわ」
私は静かに答えた。
「では一体誰がお怪我を⁈」
「とにかく用が済んだのならもう宮に帰りましょう」
この寺を訪れた本来の目的の事などはすっかり忘れていた。むしろそれどころではなかった。橘宮までの帰り道、小彩にさっき起こった出来事を話した。
「皇子様がお怪我を?大丈夫でしょうか…」
小彩は驚いた後、顔をしかめながら心配そうに呟いた。
「あの子がやはり皇子なのね。でも皇子であればきっと立派な医官が付いているだろうし、大丈夫よ。あと忠実な臣下もいるようだし…」
私に難癖をつけてきた大男の事を思い出していた。やっかいな人物ではあるが皇子にとってはかけがいのない忠実な臣下なのだろう。
「か、…鎌足様の事でございますか?」
小彩が少し驚きながら言った。
「そうよ、知っているの?」
「はい…以前に何度かお会いしたことがあって…」
「そう…」
そこから、なぜか小彩が口をつぐんでしまった。私の心の中も穏やかではなかった。もし彼らが中大兄皇子と中臣鎌足だとすると645年乙巳の変で蘇我氏親子を滅ぼしている。
所説あり真偽のほどはわからないが、この大化の改新後も二人は政権を守るために多くの人物に謀反の罪をきせ殺害したとういう文書を読んだ事がある。これらの歴史の事件が現実となり目の前に突き付けられた気がして急に怖くなった。同時に底知れぬ深い穴の中に落ちていくような感覚にも襲われた。
私達は会話少なく宮への帰路を急いだ。宮に戻ってからもしばらく気が塞ぐ日々が続いた。中庭には小さな赤紫色の萩の花が咲き、いつのまにか秋を迎えていた。




