第4章 泥濘(ぬかるみ)のジャイアントキリング
1.
3回戦を死に物狂いの「泥仕合漫才」で突破し、続く準々決勝も紙一重で滑り込んだアカハナ。
気がつけば、何千組もいたエントリーは、わずか「30組」にまで絞られていた。
そこは、準決勝。
ここを勝ち抜いた9組だけが、年末に生放送される「笑覇杯」決勝の舞台――すなわち、全国民の前で漫才をする権利を得られる。
彼らを取り巻く環境も、少しずつ変わり始めていた。
「アカハナって泥臭くて面白い」
SNSでそんな口コミが広がり、地下ライブには彼らをお目当てにやってくるファンが数人、十数人と増えていた。出待ちで「準決勝、頑張ってください!」と声をかけられ、手作りの差し入れをもらった夜、太一は嬉しさのあまりアパートの帰り道で泣いた。
しかし、準決勝の壁はこれまでの比ではなかった。
周りは全員、テレビで見る有名芸人や、何年も決勝一歩手前で涙を飲んできた執念のベテランばかり。楽屋の空気は重く、誰も口を利かない。
さらに、追い打ちをかけるように太一のスマホが鳴った。
画面に表示されたのは、かつて働いていた家電量販店の元上司からだった。
「太一、お前、笑覇杯の準決勝まで残ってるんだってな。みんなお店で噂してるぞ」
「え……あ、はい。なんとか」
「あのさ、店長とも話したんだけど……もし今年ダメだったら、いつでも戻ってこい。お前の営業スマイルと人当たりの良さ、うちには必要なんだよ。25だろ? そろそろ『引き際』ってのも考えとけよ」
親切心からの言葉だった。だからこそ、太一の胸に深く刺さった。
戻れる場所があるという安心感は、時に牙を抜く。
(俺は、もし今年ダメだったら、またあの退屈な毎日に戻るのか……?)
太一の心に、小さな「迷い」のノイズが混ざる。
そんな中、ネタ合わせの最中に、蒼が台本を叩きつけた。
「太一、ボケのキレが鈍い。さっきから置きにいってるだろ。スベるのを怖がってる」
「……そんなことないよ」
「嘘を言うな。お前の良さは、先のことを何も考えずに崖から飛び降りるようなバカさ加減だろ。何守りに入ってんだよ!」
蒼の怒声が狭い部屋に響く。
太一は俯いた。
「守りに入りたくもなるよ! 蒼、俺、怖いんだよ。もしここで落ちたら、俺のせいで人生変えちゃった蒼に、なんて謝ればいいんだよ! 居酒屋のバイト代も底をついて、元上司からは戻ってこいって言われて……俺、もうこれ以上、笑いものになるのが怖いよ!」
初めて、太一が本音を爆発させた。いつも明るいムードメーカーの、これが限界だった。
静寂が訪れる。
蒼はしばらく太一を見つめていたが、やがてフッとため息をつき、太一の頭をくしゃくしゃに撫で回した。
「バカ。本当にバカだな、お前は」
「……痛いよ」
「俺がお前の誘いに乗ったのはな、お前に責任を取ってもらうためじゃない。俺が、俺の意志で、配送センターの段ボールより、お前のバカな顔を見てる方が面白いと思ったからだ」
蒼は太一の目を真っ直ぐに見据えた。
「いいか、太一。元上司に言ってやれ。『俺はもう、炊飯器じゃなくて、日本中を沸かせる仕事で忙しくなる』ってな。行くぞ、準決勝。俺たちの25年、全部あのマイクにぶつけるんだ」
太一の瞳から、迷いのノイズが消えた。
「――おう!」
2.
準決勝の制限時間は「4分」。
アカハナの出番は、なんと今大会の優勝候補「アルタイル」のすぐ後、という最悪の快速順だった。
舞台裏のモニター。アルタイルが完璧な、洗練された漫才で会場を大爆笑の渦に巻き込んでいる。慧の言った通り、それはお茶の間にも届く、隙のない「芸術」のような笑いだった。
割れんばかりの拍手の中、アルタイルの二人が舞台袖に戻ってくる。慧と太一の視線が交差した。慧の目は「これを超えられるか?」と問いかけていた。
「続いてのエントリーナンバー、アカハナ」
地鳴りのような余韻が残る舞台へ、二人は歩き出した。
客席の空気は「アルタイルで燃え尽きた」状態。普通の若手なら、この冷めかけた、あるいは満足しきった空気に呑まれて圧死する。
センターマイクの前に立つ。
太一は、客席を見渡した。そして、隣に立つ、20年以上一緒にいる相方の顔を見た。
恐怖はなかった。あるのは、ただ一つの感情だけだ。
(蒼を、この客席を、世界で一番笑わせてやる)
「どうもー! アカハナです! いやね、僕、自分の葬式のシミュレーションをしてきたんですよ!」
不謹慎で、バカバカしくて、泥臭いボケ。
太一の、エンジン全開の暴走が始まった。
「不謹慎なこと言うな! お前の葬式なんか誰も来ねえよ!」
「来るわ! 三途の川で、俺、溺れてるファンの女の子をクロールで助ける予定なんだから!」
「死んでからさらに死にかけるな! 早く渡れ!」
蒼のツッコみが、アルタイルの作った空気を力技で叩き割っていく。
客席から、まず「え、何この力技……」という戸惑いの笑いが起き、それが秒ごとに大きな波へと変わっていく。
太一の動きはキレキレだった。居酒屋の仕込みで培った(?)無駄に引き締まった体で、舞台を狭しと動き回る。
蒼のツッコミは、太一の暴走をただ止めるのではなく、その勢いを加速させて客席に投げ返す、極上のカタパルトになっていた。
「もういいよ! 骨は俺が拾って、家電量販店の下取りに出してやるわ!」
「それポイントつく!?(嬉しそうなバカの顔)」
「つかねえよ! もうええわ!!」
ドォォォォン!!!
アルタイルの時とは違う、劇場の天井が抜けるような、混沌とした、理性を忘れた大爆笑が巻き起こった。
3.
楽屋のモニターの前に、全芸人が集まっていた。
決勝進出者、9組の発表。
Aブロック、Bブロック……次々と名前が呼ばれていく。
当然のように「アルタイル」の名前が呼ばれた。慧は小さくガッツポーズをし、周囲の祝福に応えている。
残る枠は、あと「1組」。
太一は蒼の手を握りしめていた。蒼の手は、冷たかったが、強く握り返してきた。
「最後の1組です。……エントリーナンバー、2045番」
審査員の口から、その名前が発せられた。
「――アカハナ」
「……しゃああっ!!!」
太一が叫び、蒼の体に飛びついた。蒼も、いつもクールな顔を崩し、太一の背中を何度も何度も叩いた。
ふと見ると、少し離れたところで、アルタイルの慧がこちらを見ていた。
その目からは、もう「余裕」は消えていた。
自分たちの完璧なロジックを、泥臭い「悪ふざけ」で破壊し、背中に牙を剥いてきた幼馴染みコンビ。慧は初めて、アカハナを「打倒すべきライバル」として、鋭い眼差しで見つめていた。
「笑覇杯」決勝まで、あと1ヶ月。
「笑いもの」と呼ばれた二人が、ついに日本一のテッペンをかけた舞台へ、登り詰める。




