第3章 青い火花、100秒の戦場
1.
「笑覇杯」1回戦の会場は、独特の狂気に満ちていた。
東京予選、初日。何百組ものアマチュア、プロ、そして海のものとも山のものともつかない怪しげなコンビが、狭いロビーにひしめき合っている。
ルールは過酷だ。1回戦の制限時間は、わずか「2分(120秒)」。
時間を1秒でも過ぎれば、警告音が鳴り響き、その時点でほぼ失格が決まる。
「……なぁ、蒼。緊張で心臓が口から出そう」
「出したら拾ってツッコミに使ってやるから、安心して吐け」
蒼はそう言ってポーカーフェイスを崩さなかったが、手元にある台本を凝視する目は血走っていた。
2分。この短い時間で、自分たちのキャラクターを伝え、なおかつ3回以上の明確な「爆笑」を起こさなければ、2回戦へは進めない。
これまでのアカハナのネタは、太一の長いフリから始まるストーリー漫才だった。だが、それだと2分ではボケる前に終わってしまう。
「太一、お前の良さは最初の10秒で『なんかバカな奴が出てきた』と思わせる愛嬌だ。設定の説明は全部省く。お前が舞台に出てきた瞬間、もうトラブルが始まってる、そういう構成に変える」
数日前、蒼が血の滲むような分析の末に叩き出した「1回戦突破用ショート漫才」。
太一の直感的な爆発力と、蒼の秒単位のタイムキープ。二人の頭脳と肉体が、今まさに試されようとしていた。
「エントリーナンバー420番、アカハナさん、舞台袖へ」
スタッフの声に、二人は顔を見合わせた。
太一が拳を突き出す。蒼がそこに、自分の拳を静かにぶつけた。
「……おい、太一。お前の電気屋仕込みのスマイル、150%でいけよ」
「任せとけ。世界で一番バカな笑顔見せてやるわ!」
出囃子が鳴る。二人は、光の中へ飛び出した。
2.
「どうもー! アカハナです! よろしくお願いします!」
太一の第一声。地下劇場の時とは違い、声がしっかりと通った。居酒屋のバイトで鍛え直した発声だ。
「いやね、僕、最近『全自動洗濯機』になりたいんですよ!」
「お前は何を言ってるんだ」
間髪入れずに蒼のツッコミが入る。客席から「クスクス」と小さな笑いが起きる。
「洗濯機になったらさ、大好きな女の子の服を、毎日こうやって(体を激しく回転させる)グルグル洗えるでしょ!?」
「ただの変質者じゃねえか! 逮捕しろ!」
太一のキレのある(しかし、最高にアホな)動きに、客席の空気がピクッと動いた。
1回戦の観客は、審査員と、出番を待つ他の芸人たちだ。笑いにシビアなその空間が、太一の「圧倒的な愛嬌」によって少しずつ融解していく。
蒼は脳内でストップウォッチを動かしていた。
(現在45秒。次、最大のボケ。太一、いけ……!)
太一は蒼の視線から、その意図を正確に読み取った。
幼馴染みとして20年以上一緒にいる。蒼が何を求め、どこでツッコみたいのか、太一には感覚でわかった。
「でも、脱水の時はもっと激しいよ!?(顔を高速で震わせる)」
「脱水で顔の原型失ってんじゃねえよ!」
ドカン。
劇場が揺れた。1回戦の会場としては、異例の大きさの爆笑だった。
舞台袖で見ていた他の芸人たちが、一斉にアカハナへ視線を注ぐ。
「もうええわ!」
2分ジャスト。蒼のセリフと同時に、終了を告げるランプが青く灯った。
舞台を降りた瞬間、太一は膝から崩れ落ちた。
「……ウケた、よな? 蒼、俺たち、ウケたよな?」
「あぁ」
蒼は眼鏡を押し上げ、初めてフッと優しい笑みを浮かべた。
「完璧だったよ。お前、一瞬ボケの文言変えたろ」
「へへ、なんか、あの空気ならこっちの言葉の方が刺さる気がして」
「……天才かよ」
数時間後、貼り出された「1回戦通過者リスト」の中に、【アカハナ】の文字が確かにあった。
3.
1回戦を突破し、勢いに乗る二人は、続く2回戦も蒼の徹底的な戦略と太一の爆発力で見事にクリアする。
「プロの卵」から「本物のプロ」がひしめく3回戦へと駒を進めた。
だが、3回戦の会場の楽屋で、二人は再び彼らと遭遇する。
シード権を持ち、3回戦から悠々と登場した、今大会の優勝候補――「アルタイル」だ。
彼らの周りには、すでにテレビ局の関係者や、先輩芸人たちが集まり、華やかな輪ができていた。完全に「未来のスター」の扱いだった。
アルタイルのボケの男、慧が、ふと輪から離れ、自販機の前で缶コーヒーを買っていた。その横を、太一が通りかかる。
すれ違いざま、慧が足を止めた。
「あ、君。アカハナの……ボケの人だよね」
初めて、彼らの視界に入った。太一の心臓がドクンと跳ねる。
「2回戦の動画、ネットで見たよ。君、面白いね。泥臭くて、いかにも『地下芸人』って感じでさ」
慧の言葉は、一見褒めているようだった。しかし、その目には絶対的な強者が持つ「余裕」と、かすかな「侮蔑」が混ざっていた。
「でも、笑覇杯の決勝はさ、そういう『身内のノリ』じゃ勝てないから。洗練されてない笑いは、お茶の間には届かないよ」
慧はフッと微笑むと、太一の返事を待たずに、プロのスタッフたちが待つ輪へと戻っていった。
太一は、買ったばかりの冷たい缶ジュースを強く握りしめた。
悔しかった。だが、同時に慧の言った言葉の「正論さ」も、頭のどこかで理解してしまっていた。自分たちの漫才は、まだ粗削りだ。身内の、幼馴染みのノリの延長線上にある。
楽屋に戻った太一の暗い顔を見て、蒼はすぐに察した。
「太一。アルタイルの奴に、何か言われたか」
「……蒼。俺たちの漫才ってさ、やっぱり『洗練』されてないのかな。ただの幼馴染みの悪ふざけに見えてるのかな」
蒼は太一の前に立ち、その両肩を強く掴んだ。
「当たり前だろ」
「え……」
「俺たちの漫才は、悪ふざけの最高峰だ。あいつらみたいなスマートな漫才、俺たちにできるわけがない。でもな、太一」
蒼の目が、冷たく、しかし青く燃え上がる。
「綺麗な、計算され尽くした漫才だけが正解なら、お笑いなんて必要ない。泥臭くて、不器用で、でも目が離せない――そんな『笑いもの』が奇跡を起こすところを、あいつらに見せてやろうぜ」
太一の目に、再び光が戻る。
「3回戦のネタ、変えるぞ。もっと攻めた、俺たちにしかできない『泥仕合』のネタだ」
何者でもない二人が、ついに「怪物」の牙城に噛み付くための、本当の勝負が始まろうとしていた。




