第2章 泥をすする日々、そして「怪物」との遭遇
1.
初舞台の惨敗から半年。
太一と蒼の日常は、絵に描いたような「売れない若手芸人」のそれになっていた。
太一は昼間に居酒屋の仕込みバイトを入れ、夜は蒼のアパートに転がり込んでネタを書く。蒼は配送センターの夜勤を続けながら、朦朧とする意識の中で太一のボケにツッコミを入れ続けた。
「違う、太一。そのボケ、3行前と脈絡がない。お前は勢いで誤魔化そうとしてるけど、客は置いてけぼりだ」
「でもさ、ここで俺が変な顔して叫んだら、一発で空気変わるじゃん?」
「それは『お笑い』じゃなくて『びっくり箱』だろ。俺たちがやりたいのは、言葉と関係性で笑わせる漫才だろ」
蒼の指摘は日ごとに鋭くなっていった。分析型の蒼は、売れている芸人の動画を何百本もガラケーやスマホで研究し、なぜその笑いが起きているのかをノートに因数分解していた。
しかし、現実は甘くない。
相変わらず地下ライブの客席は冷たく、時には観客が3人しかいない日もあった。
「お前ら、もうやめちまえよ。25だろ? 人生の損切り、早い方がいいぞ」
楽屋で、先輩芸人からそんな言葉をかけられることも増えていた。
そんなある日、二人は新宿の小さな劇場で、ある漫才コンビの舞台を目撃する。
コンビ名は「アルタイル」。
彼らも二人と同世代、24歳の若手だった。
「どうもー、アルタイルです」
ボケの男が舞台に現れた瞬間、劇場の空気が物理的に変わったのがわかった。
圧倒的な華。そして、一言発するごとに客席がドカン、ドカンと地鳴りのように揺れる。
太一が半年間、血を吐くような思いで考えても出せなかった「爆笑」を、彼らは呼吸をするように簡単に生み出していく。
舞台袖の隙間からその光景を見ていた太一は、言葉を失っていた。
握りしめた拳が、悔しさと、恐怖で震える。
「……なぁ、蒼」
「あぁ」
蒼の顔からも、いつもの皮肉めいた余裕が消えていた。
「あいつらが、今年の『笑覇杯』の優勝候補筆頭らしい」
「アルタイル」が舞台を降りてくる。客席の熱気をそのままに、涼しい顔で歩いてくる二人の姿は、太一たちと同じ泥水をすすっているようには到底見えなかった。
すれ違いざま、アルタイルのツッコミの男が、チラリとアカハナの二人に視線をくれた。ゴミを見るような目ではなかった。それよりも残酷な、「視界にすら入っていない」目だった。
「……行くぞ、太一」
蒼が太一の肩を叩く。
「帰って、ネタ合わせだ。あいつらをぶっ倒すネタを作るぞ」
太一は、小さく、しかし深く頷いた。胸の奥の劣等感が、どす黒い炎となって燃え上がっていた。
2.
芸人になって1年が経とうとする頃、二人の前に「現実」という名の壁が立ちはだかる。
ある週末、蒼は実家に呼び出されていた。
実家のリビングで待っていたのは、父親と、テーブルの上に置かれた1枚のチラシだった。地元のまともな企業の求人票。
「蒼、お前、夜勤の仕事のあとに何やってるんだ。風の噂で聞いたぞ。太一くんと、お笑いなんてやってるらしいな」
厳格な父親の声は低かった。
「太一くんは会社を辞めたそうだが、お前まで巻き込まれることはない。24だ。もう遊びの年齢じゃないだろ。来月からここに行きなさい」
蒼は黙って求人票を見つめた。
安定。安心。親の安心させる顔。
それを手に入れる代わりに、あの深夜二時のコインランドリーで交わした約束を、太一のあの弾けるような笑顔を捨てるのか。
「……断るよ」
蒼は静かに言った。
「俺、太一と、本気でテッペン目指してるんだ。笑覇杯で優勝するまで、やめない」
「お前たちみたいな何者でもない奴らが、テレビに出られるわけがないだろう! 世間はお前らなんて求めてないんだ!」
父親の怒号を背中に浴びながら、蒼は実家を飛び出した。
同じ頃、太一もまた、アパートの自室で頭を抱えていた。
通帳の残高は、ついに3万円を切っていた。
今月の家賃を払えば、来月の食費はない。居酒屋のバイトを増やせば、ネタを作る時間がなくなる。
「人生で一番楽しいのは、人を笑わせてる時だ」
あの日、大見栄を切って家電量販店を辞めた時のセリフが、呪いのように頭をループする。
本当にそうか?
今、俺は楽しいか?
スベり倒して、金もなくて、幼馴染みの蒼の人生まで巻き込んで、俺は何をやってるんだ?
太一は暗い部屋の真ん中で、膝を抱えて動けなくなっていた。
その時、ガタガタと激しくドアがノックされた。
開けると、息を切らせた蒼が立っていた。実家から走ってきたのか、肩が大きく上下している。
「……蒼? どうしたんだよ、そんな汗かいて」
蒼は太一の部屋にズカズカと入り込むと、机の上に1枚のプリントを叩きつけた。
それは、全国漫才コンテスト「笑覇杯」のエントリー用紙だった。
「太一、書け」
「え……でも、俺たち、まだ劇場でもウケてないし、お金も……」
「関係ねえよ」
蒼は太一の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、その目を真っ直ぐに見つめた。いつものクールな蒼からは想像もつかない、剥き出しの情熱がそこにあった。
「俺は親と絶縁する勢いで家を出てきた。お前も仕事を辞めてここにいる。もう後戻りなんてできるかよ。笑いものになるなら、全国民の前で、派手に笑いものになってやろうじゃねえか」
太一の瞳に、ジワリと涙が浮かんだ。だが、すぐにそれを袖でゴシゴシと拭い、最高のニヤリ顔を作った。
「……あったりまえだろ。俺たちの漫才で、全員ひっくり返してやるよ」
太一はペンを取り、力強い筆跡で記入した。
【コンビ名:アカハナ】
何者でもない二人の、命懸けの予選が幕を開ける。




