第1章 深夜2時の笑いもの
1.
「……なぁ、蒼。俺たちってさ、何やってんだろうな」
深夜二時。国道沿いのコインランドリーは、蛍光灯の白い光と、乾燥機が回る重低音だけで満たされていた。
実家の洗濯機が壊れたという太一に付き合い、蒼は備え付けのプラスチック椅子に深く腰掛けてスマホを眺めていた。缶コーヒーのアルミが、手の中でじわりと冷たい。
「何って、洗濯。見ればわかるだろ」
「そういうことじゃなくてさ」
太一はパイプ椅子を後ろ前に跨ぎ、背もたれに顎を乗せて退屈そうに足を揺らした。25歳。昼間は家電量販店でプロバイダの勧誘を営業スマイルでこなしている男の顔には、隠しきれない疲弊が張り付いていた。
「今日さ、炊飯器買いに来たおばちゃんに『お兄さん話が面白いからこれにするわ』って言われてさ。嬉しかったんだけど、なんか急に虚しくなったんだよ。俺の人生、このままでいいのかなって。もっとこう、ドカンとさ……」
「お前、また始まった」
蒼はため息混じりに視線をスマホから太一へ移した。
幼馴染みのこの顔は、何か「ろくでもないこと」を思いついた時の顔だ。配送センターで10キロの段ボールをひたすら仕分ける日々を送る蒼にとって、太一のこの突発的なエネルギーは、劇薬であり、同時に少しだけ羨ましいものでもあった。
「お前は昔からそう。高校の時も、急に『バンドやろう』って言って三日でギター飽きたろ」
「あれは指が痛かったから! でも今回は違うって。なぁ、蒼。俺たちの喋りって、昔からみんなを笑わせてたじゃん? 教室の後ろでさ」
「……まぁ、先生にはよく怒られたけどな」
「だろ?」
太一が椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。その目が、コインランドリーの薄暗い空間で異様に輝いている。
「俺、芸人になりたい。……蒼、一緒に漫才やろうぜ」
乾燥機が『ピー、ピー』と、間の抜けた終了音を響かせた。
静寂の中、蒼は冷めきったコーヒーを一口飲み、小さく鼻で笑った。
「馬鹿言え。24と25だぞ。何が漫才だ。『笑いもの』になるだけだろ」
「いいじゃん、笑いもの! 芸人なんだから、笑われてナンボだよ!」
太一は一歩も引かなかった。
「俺たちの名前は『アカハナ』だ。ピエロやトナカイの赤い鼻。笑いものの象徴だけどさ、それって誰もがハッピーになる魔法の鼻だろ?」
蒼は呆れた。コンビ名まで用意しているあたり、こいつは本気だ。
いつもなら「寝言は寝て言え」と一蹴するところだった。だが、蒼の胸の奥で、配送センターの冷たい空気で凍りついていたはずの「何か」が、パチパチと音を立てて爆ぜた。
「……ネタ、書けよ」
「え?」
「ボケるなら、俺が突っ込めるネタを書け。つまんなかったら一瞬で解散だからな」
太一の顔が、一瞬の静止のあと、クシャッと弾けるような笑顔に変わった。
「――おう! 任せとけ!」
これが、のちに「笑覇杯」の歴史を塗り替えることになる、何者でもない二人の始まりの夜だった。
2.
結成から3ヶ月。太一は本当に家電量販店を辞めて退路を断った。
蒼も仕事を続けながら、夜な夜な太一のアパートでネタ合わせを繰り返す日々。
そして迎えた、地下劇場のフリーエントリーライブ。
客席には15人ほどの観客。舞台袖に漂う、他の若手芸人たちのピリついた空気と、独特の「売れてない汗」の匂いに、さしもの太一も顔をこわばらせていた。
「次、アカハナさん、どうぞー」
スタッフの冷淡な声に背中を押され、二人はセンターマイクへ向かった。
眩しい照明。視線の束。
「どうもー! アカハナです! よろしくお願いします!」
太一が声を張る。しかし、緊張のあまり声が上ずり、最初のボケのタイミングが完全にズレた。
(あ、やべえ)という太一の心の声が、蒼には聞こえた気がした。
客席は、静まり返っている。
誰も二人を見ていない。スマホをいじる客、値踏みするように腕を組む同業者。
圧倒的な「拒絶」の空間。
太一の額からタラリと冷や汗が流れた。言葉が詰まる。暴走型のブレーキが壊れ、ただ早口になる太一。
「……おい、早口すぎて何言ってるか全然わかんねえよ。お前は家電量販店のタイムセールか」
蒼の声が、マイクを通して劇場に響いた。
普段通りの、少し低めで、皮肉の効いたトーン。
太一がハッとして蒼を見る。蒼の目は、冷徹に客席と太一を分析していた。
「あ、ごめん、緊張しちゃって……」
「緊張してボケ忘れるなら、その赤い鼻もぎ取って、トマトケチャップにしてやろうか」
「それは痛いから勘弁して!」
太一がいつもの調子を取り戻し、大きくズッコケる。
客席の後ろの方で、小さな「クスッ」という笑い声が聞こえた。
結果は、惨敗。
ウケたのはその一瞬だけで、あとの時間は静寂が支配していた。
だが、楽屋に戻る通路で、蒼は太一の肩をバシッと叩いた。
「蒼、ごめん……俺、トんじゃって」
「気にするな。でも、一つわかった」
蒼は不敵に微笑んだ。
「あのさ、1人だけ笑ってた。ゼロじゃない。……これ、いけるわ」
「笑いもの」から始まった二人の足元に、かすかだが、確かにスポットライトが灯った瞬間だった。




