第九章消えない傷
時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
就職先の病院で院長の息子から性暴力を受け、病院側から示談を持ちかけられる。
母の治療費を負担するという条件のため、拒否できなかった。
その後、友人に誘われて竹の子族に参加する。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
桐生家の人々
人物設定・役割
長男・誠一(34歳) :桐生病院の院長。父の後継者。厳格だが弟思い
次男・修二(29歳) :外科医。合理主義者で医療経営にも関心が強い
長女・由紀子(26歳):内科医。患者との対話を大切にする。直人の理解者
父・宗一郎(故人) :桐生病院の前院長。遺書が直人の人生を変えた
母・和子(56歳) :亡き夫の願いを大切にするが、息子の変化に気づいている
高瀬 隆一(28歳)
美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。
医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。
違法に拳銃を所持し、それを美咲に発見された際、脅迫して性暴力を加えた。
高瀬 重蔵(61歳)
高瀬病院院長。病院の評判と息子を守るため、美咲に示談を提案する。母親の入院費負担と再就職先の紹介を条件に口外しないよう求める。
佐伯 早苗(21歳)
美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
就職先の病院で院長の息子から性暴力を受け、病院側から示談を持ちかけられる。
母の治療費を負担するという条件のため、拒否できなかった。
その後、友人に誘われて竹の子族に参加する。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
桐生家の人々
人物設定・役割
長男・誠一(34歳) :桐生病院の院長。父の後継者。厳格だが弟思い
次男・修二(29歳) :外科医。合理主義者で医療経営にも関心が強い
長女・由紀子(26歳):内科医。患者との対話を大切にする。直人の理解者
父・宗一郎(故人) :桐生病院の前院長。遺書が直人の人生を変えた
母・和子(56歳) :亡き夫の願いを大切にするが、息子の変化に気づいている
高瀬 隆一(28歳)
美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。
医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。
違法に拳銃を所持し、それを美咲に発見された際、脅迫して性暴力を加えた。
高瀬 重蔵(61歳)
高瀬病院院長。病院の評判と息子を守るため、美咲に示談を提案する。母親の入院費負担と再就職先の紹介を条件に口外しないよう求める。
佐伯 早苗(21歳)
美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。
昭和五十六年、十二月。
東京の街は、クリスマスを前に賑わいを増していた。
商店街には赤や緑の飾りが並び、喫茶店からはクリスマスソングが聞こえてくる。
しかし、桐生直人にとって、その年の十二月は例年とは違っていた。
大学の講義には、以前よりも出席するようになっていた。
森田健一から借りたノートを写し、遅れていた勉強にも少しずつ手をつけていた。
だが、それは医者になる決意が固まったからではなかった。
むしろ、逆だった。
自分が本当に医者になりたいのか。
その答えを出すために、大学から逃げるのをやめようと思ったのだ。
講義室に座り、医学の話を聞く。
周囲の学生たちが真剣にノートを取る姿を見る。
その中で、自分の気持ちを確かめる。
医者になりたいのか。
それとも、別の道を歩みたいのか。
答えはまだ出ていなかった。
ただ一つ、以前とは違うことがあった。
直人は、日曜日を待つようになっていた。
◇◇◇◇◇◇
十二月半ばの日曜日。
原宿の歩行者天国には、冷たい風が吹いていた。
それでも、竹の子族の若者たちは元気だった。
厚手の上着を脱ぎ、色鮮やかな衣装で踊っている。
ラジカセから流れる音楽に合わせて、腕を振り、足を踏み出す。
直人は、いつもの場所でその光景を眺めていた。
水野美咲は、青い衣装を着て踊っていた。
先週、彼女から事件の話を聞いた。
高瀬隆一という男に受けた暴行。
院長によって求められた沈黙。
母親の治療費と引き換えに受け入れた示談。
そのすべてを聞いた後でも、美咲は変わらず原宿へ来ていた。
そして、踊っていた。
直人は、その姿を見つめた。
以前は、ただ楽しそうだと思っていた。
しかし、今は違う。
彼女にとって、この場所がどれほど大切なのかを知っていた。
踊ることは、単なる遊びではなかった。
誰にも命令されず、自分の意思で身体を動かすこと。
その自由を取り戻すための、大切な時間だった。
直人は、黙って見守っていた。
◇◇◇◇◇◇
踊りが終わると、美咲が直人のところへやってきた。
「桐生さん、こんにちは」
「こんにちは。寒くない?」
「踊ってると暑いくらいですよ」
美咲は笑った。
その笑顔は、以前より少し自然に見えた。
「今日は調子よさそうだね」
「はい。久しぶりに、ちゃんと踊れた気がします」
「よかった」
直人は微笑んだ。
美咲は少し照れたように笑った。
「先週、話を聞いてもらったからかもしれません」
「そう?」
「ええ」
美咲は頷いた。
「誰かに話すって、思ってたより大事なんですね」
直人は黙っていた。
美咲は続けた。
「話したからって、何かが変わったわけじゃないんですけど」
「うん」
「でも、少しだけ気持ちが軽くなりました」
直人は頷いた。
「それなら、よかった」
美咲は微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇
その日の午後、二人は代々木公園を歩いた。
冬の公園は静かだった。
木々の葉はほとんど落ち、芝生は枯れ色になっていた。
遠くで子供たちが遊んでいる。
二人は並んで歩いた。
しばらくして、美咲が言った。
「桐生さん」
「何?」
「この前の話、聞いてくれてありがとうございました」
「もう何度もお礼を言われたよ」
直人は笑った。
美咲も笑った。
「そうでしたね」
「うん」
少し間が空いた。
美咲は足元の枯れ葉を見つめた。
「……でも、まだ怖いんです」
直人は美咲を見た。
「何が?」
「男の人が急に近づいてくると、身体が動かなくなることがあるんです」
直人は黙って聞いた。
「病院でも、患者さんに肩を叩かれただけで驚いたりして」
「……そうなんだ」
「自分でも、変だなって思うんです」
直人は首を振った。
「変じゃないよ」
美咲は少し笑った。
「桐生さん、いつもそう言ってくれますね」
「本当にそう思ってるから」
美咲は黙った。
そして、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
直人は少し考えてから言った。
「俺には、何が一番いいのか分からないけど」
「はい」
「無理に平気になろうとしなくてもいいんじゃないかな」
美咲は直人を見た。
「怖いなら、怖いままでいいと思う」
直人は続けた。
「それで、水野さんが少しずつ安心できるようになれば」
美咲はしばらく黙っていた。
そして、微笑んだ。
「……そうですね」
◇◇◇◇◇◇
数日後。
直人は久しぶりに桐生病院を訪ねた。
兄の誠一に、大学の近況を報告するためだった。
病院の廊下には、消毒液の匂いが漂っていた。
看護婦たちが忙しそうに行き交い、患者たちが診察室の前で待っていた。
直人は、その光景を眺めながら思った。
ここで、美咲も働いていた。
まだ看護婦になる前、アルバイトとして。
あの頃の彼女は、いつも一生懸命だった。
そして、看護婦になることを心から楽しみにしていた。
直人は少し胸が痛んだ。
◇◇◇◇◇◇
院長室には、誠一がいた。
「直人、久しぶりだな」
「うん」
「大学はどうだ?」
「まあ、何とか」
誠一は少し眉をひそめた。
「何とか、では困るぞ」
「分かってるよ」
「お前は二浪して入ったんだからな。遅れを取り戻すつもりで勉強しないと」
「うん」
直人は頷いた。
誠一は書類を机に置いた。
「母さんも心配してるぞ」
「分かってる」
「だったら、たまには顔を出せ」
「そうする」
直人は少し笑った。
誠一は、相変わらず厳しかった。
しかし、それが弟を心配しているからだということも分かっていた。
◇◇◇◇◇◇
院長室を出ると、廊下で次兄の修二と顔を合わせた。
「おっ、直人じゃないか」
「修二兄さん」
「久しぶりだな。元気か?」
「うん」
修二は白衣のポケットに手を入れた。
「ちょうどいい。ちょっと付き合えよ」
「何?」
「コーヒーでも飲もう」
二人は病院の職員食堂へ向かった。
修二はコーヒーを二つ買い、一つを直人に渡した。
「大学、どうだ?」
「誠一兄さんにも聞かれたよ」
「そりゃ聞くだろ」
修二は笑った。
「まあ、あんまり気負うなよ。医学部なんて、最初はみんな苦労するんだから」
「うん」
直人はコーヒーを飲んだ。
しばらく、二人は他愛のない話をしていた。
そのとき、修二がふと思い出したように言った。
「そういえば、最近ちょっと妙な噂を聞いたな」
「噂?」
「高瀬病院の息子のことだよ」
直人の手が止まった。
「……高瀬?」
「知ってるのか?」
「名前くらいは」
直人は慎重に答えた。
修二は頷いた。
「高瀬隆一って男なんだけどな」
直人は黙っていた。
「どうも、警察に目をつけられてるらしい」
「……何で?」
「拳銃だよ」
直人は息を呑んだ。
「拳銃?」
「ああ。違法に持ってるんじゃないかって話だ」
修二は声を少し落とした。
「まだ噂の段階だけどな。近いうちに逮捕されるんじゃないかって言ってる奴もいる」
直人はコーヒーカップを見つめた。
拳銃。
美咲が話していたものだった。
隆一が彼女を脅すために使ったもの。
「……本当なの?」
「さあな」
修二は肩をすくめた。
「医者仲間の噂話だから、どこまで本当か分からん」
「そうか」
「まあ、あの男は昔から評判がよくなかったからな」
直人は顔を上げた。
「評判?」
「女遊びが派手だとか、金遣いが荒いとか。いろいろ聞くよ」
修二は苦笑した。
「親父さんが院長だから、周りも強く言えないんだろうな」
直人は拳を握った。
しかし、何も言わなかった。
修二は続けた。
「病院の名前を背負ってるってことを、少しは考えてほしいもんだよ」
直人は、その言葉を聞いて複雑な気持ちになった。
病院の名前。
信用。
評判。
それを守るために、美咲は沈黙を求められた。
しかし、隆一はその名前を利用して、好き勝手に振る舞っていた。
直人はコーヒーを飲み干した。
◇◇◇◇◇◇
その夜。
下宿に戻った直人は、机の前に座っていた。
修二から聞いた話が、頭から離れなかった。
高瀬隆一が逮捕されるかもしれない。
しかも、拳銃の不法所持で。
もし本当なら、あの男は罪に問われることになる。
直人は少しだけ安堵した。
しかし、すぐに考え直した。
それで、美咲が受けた傷は消えるのだろうか。
隆一が逮捕されれば、すべて解決するのだろうか。
そんなはずはなかった。
直人は、美咲の言葉を思い出した。
『これ以上、誰かに私の人生を決められたくないんです』
直人は目を閉じた。
自分が勝手に何かをするべきではない。
そう決めたはずだった。
しかし、この話を美咲に伝えるべきかどうか、迷っていた。
◇◇◇◇◇◇
次の日曜日。
直人は原宿へ向かった。
美咲はいつものように踊っていた。
青い衣装。
明るい笑顔。
音楽に合わせて動く姿。
直人は、その姿を見つめながら考えていた。
今日、話すべきだろうか。
それとも、何も言わない方がいいのだろうか。
踊りが終わると、美咲がやってきた。
「桐生さん、こんにちは」
「こんにちは」
「今日は寒いですね」
「そうだね」
美咲は笑った。
「でも、踊ってると平気ですよ」
直人も笑った。
そして、少し迷ってから言った。
「水野さん、今日、少し話したいことがあるんだ」
美咲は直人を見た。
「……何ですか?」
「高瀬隆一のこと」
美咲の表情が変わった。
直人はすぐに続けた。
「無理に聞かなくてもいい。話したくなかったら、やめる」
美咲はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……聞きます」
◇◇◇◇◇◇
二人は代々木公園のベンチに座った。
直人は、修二から聞いた話を伝えた。
高瀬隆一が、拳銃の不法所持で警察に目をつけられているらしいこと。
近いうちに逮捕されるかもしれないという噂があること。
ただし、まだ確かな情報ではないこと。
美咲は黙って聞いていた。
話が終わると、しばらく何も言わなかった。
「……そうですか」
ようやく、それだけ言った。
直人は美咲を見た。
「どう思う?」
美咲は少し考えた。
「……分かりません」
「うん」
「逮捕されたら、少しは安心するのかもしれません」
美咲は俯いた。
「でも……」
直人は黙っていた。
「それで、私がされたことがなくなるわけじゃないですよね」
直人は頷いた。
「そうだね」
「もし逮捕されたとしても、拳銃のことでしょう?」
「うん」
「私のこととは、別の話です」
美咲は静かに言った。
「だから、何かが解決したとは思えないんです」
直人は黙っていた。
美咲は続けた。
「私、あの人が罰を受ければ、気持ちが楽になると思ってたこともあります」
「うん」
「でも、最近は少し違うんです」
直人は顔を上げた。
「どう違うの?」
美咲は少し考えた。
「……あの人のことばかり考えていたくないんです」
直人は黙っていた。
「何をしていても、あの人のことを思い出す。仕事をしていても、家にいても」
美咲は膝の上で手を握った。
「それが、嫌なんです」
直人は頷いた。
「だから、少しずつでも、自分のことを考えたいんです」
「自分のこと?」
「はい」
美咲は微笑んだ。
「仕事のこととか、母のこととか、日曜日のこととか」
そして、少し照れたように続けた。
「……桐生さんのこととか」
直人は思わず美咲を見た。
美咲は顔を赤くした。
「変な意味じゃないですよ」
「いや……」
直人も少し照れた。
「嬉しいよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇◇◇◇
しばらくして、美咲が言った。
「桐生さん」
「何?」
「私、前より少し元気になったと思いません?」
直人は頷いた。
「うん。思うよ」
「自分でも、そう思うんです」
美咲は微笑んだ。
「でも、まだ怖いことはあります」
「うん」
「急に触られると、びっくりするし。夜、眠れないこともあります」
直人は黙って聞いた。
「だから、もう大丈夫って言えるわけじゃないんです」
「そうだね」
「でも……」
美咲は空を見上げた。
「それでも、日曜日は来るんですよね」
直人は微笑んだ。
「うん」
「来週も、その次も」
美咲は続けた。
「私は、踊りたいんです」
直人は頷いた。
「踊ればいいよ」
美咲は笑った。
「桐生さんは?」
「俺?」
「来週も見に来てくれますか?」
直人は笑った。
「もちろん」
美咲は嬉しそうに頷いた。
◇◇◇◇◇◇
その日の帰り道。
二人は原宿駅へ向かって歩いていた。
街にはクリスマスの飾りが増えていた。
店先には小さなツリーが置かれ、若者たちが楽しそうに歩いている。
美咲はショーウインドーの飾りを眺めた。
「もうすぐクリスマスですね」
「そうだね」
「桐生さん、クリスマスは何か予定あります?」
「特にないかな」
「そうなんですか?」
「うん。大学の友達と何かするかもしれないけど」
美咲は少し考えた。
「私も、仕事かもしれません」
「看護婦さんは大変だね」
「仕方ないですよ。病院にクリスマス休暇なんてありませんから」
二人は笑った。
少し歩いたところで、美咲が言った。
「でも、もし休みが合ったら……」
直人は美咲を見た。
「うん?」
「また、どこかでお茶でも飲みませんか?」
直人は微笑んだ。
「もちろん」
美咲は嬉しそうに笑った。
◇◇◇◇◇◇
原宿駅の前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また来週」
美咲が言った。
「うん。また来週」
直人は頷いた。
美咲は改札へ向かった。
しかし、数歩進んだところで振り返った。
「桐生さん!」
「何?」
美咲は少し照れたように笑った。
「私、最近、日曜日が楽しみなんです」
直人は微笑んだ。
「俺もだよ」
美咲は大きく手を振った。
そして、人混みの中へ消えていった。
◇◇◇◇◇◇
帰りの電車。
直人は窓の外を眺めていた。
美咲の言葉が、頭に残っていた。
『あの人のことばかり考えていたくないんです』
それは、簡単なことではないだろう。
彼女が受けた傷は、すぐには消えない。
もしかしたら、一生消えない部分もあるのかもしれない。
しかし、それでも彼女は、自分の人生を取り戻そうとしている。
直人は、その姿を見ていた。
そして、ふと思った。
自分はどうなのだろう。
父の遺言書に従い、医学部に入った。
それは、父を愛していたからだった。
しかし、そのために、自分の夢を諦めた。
父が亡くなってから三年。
自分は、まだ父の願いの中で生きている。
直人は目を閉じた。
美咲は、自分の意思で踊っている。
誰かに命令されたわけではない。
誰かの期待に応えるためでもない。
ただ、自分が踊りたいから踊っている。
では、自分は何をしたいのだろう。
答えは、もう分かっている気がした。
しかし、それを口にする勇気が、まだなかった。
◇◇◇◇◇◇
下宿に戻ると、直人は机の引き出しを開けた。
そこには、高校時代の台本が入っていた。
『洋館の殺人』
直人はそれを取り出した。
ページをめくる。
何度も読んだ台詞。
舞台で演じた場面。
仲間たちの寄せ書き。
直人は、しばらく台本を見つめていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は、役者になりたい」
初めて、その言葉を声に出した。
誰かに聞かせるためではなかった。
自分自身に聞かせるためだった。
直人は台本を閉じた。
そして、机の上に置いた。
明日、大学へ行こう。
そして、もう一度、自分の将来について考えよう。
父の願いではなく。
兄弟の期待でもなく。
自分が、本当に何をしたいのか。
その答えを、今度こそ自分で決めよう。
直人は窓を開けた。
冷たい冬の空気が、部屋に流れ込んできた。
遠くで、電車の走る音が聞こえた。
直人は深く息を吸った。
何かが、少しずつ変わり始めていた。
まだ、何も決まっていない。
しかし、もう以前の自分には戻れない。
直人は、そう感じていた。
お読みいただきありがとうございます。
感想や評価を頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。




