第八章踊る理由
時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主な登場人物
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
就職先の病院で院長の息子とは何らかの訳あり。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
佐伯 早苗(21歳)
美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。
高瀬 隆一(28歳)
美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。
医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。
高瀬 重蔵(61歳)
高瀬病院院長。病院の評判と息子を守るため、美咲に示談を提案する。母親の入院費負担と再就職先の紹介を条件に口外しないよう求める。
十二月最初の日曜日。
原宿の歩行者天国には、冷たい北風が吹いていた。
色づいた街路樹の葉が、舗道の上を転がっていく。
それでも、若者たちの熱気は衰えていなかった。
ラジカセから流れる音楽。
鮮やかな衣装。
踊る若者たちを囲む見物人。
いつもの日曜日だった。
桐生直人は、人垣の少し後ろに立っていた。
先週、水野美咲は原宿へ来なかった。
佐伯早苗によれば、体調がよくないということだった。
直人は心配していた。
高瀬隆一と遭遇したときの、美咲の青ざめた顔が忘れられなかった。
あれから二週間。
彼女はどうしているのだろう。
直人は踊る集団の中に、青い衣装を探した。
しかし、なかなか見つからなかった。
今日は来ないのかもしれない。
そう思い始めたときだった。
「桐生さん」
後ろから声がした。
振り向くと、美咲が立っていた。
青い衣装を着ていた。
しかし、いつものような笑顔ではなかった。
「……久しぶり」
直人は微笑んだ。
「久しぶりですね」
美咲も笑った。
少しぎこちない笑顔だった。
「体調、大丈夫?」
「はい。もう大丈夫です」
「そっか。よかった」
直人は、それ以上尋ねなかった。
美咲は少し黙っていた。
そして、小さな声で言った。
「桐生さん」
「何?」
「今日、踊りが終わったら、少しお話しできますか?」
「もちろん」
「……ちょっと、聞いてほしいことがあるんです」
直人は美咲を見た。
その表情は、いつになく真剣だった。
「分かった」
直人は頷いた。
「待ってるよ」
美咲は少し安心したように笑った。
「ありがとうございます」
そして、踊る仲間たちのところへ戻っていった。
◇◇◇◇◇◇
音楽が流れ始めた。
若者たちが一斉に動き出す。
美咲も踊っていた。
しかし、いつもとは少し違っていた。
動きが小さかった。
何度か足が止まりそうになった。
それでも、最後まで踊り続けた。
直人は、その姿を黙って見つめていた。
以前なら、美咲の踊りを見ているだけで楽しかった。
今は、少し違う。
彼女が何かを抱えていることを知ってしまった。
それが何なのかは、まだ分からない。
しかし、今日の美咲は、何かを決めてここへ来たのだろう。
直人には、そんな気がしていた。
曲が終わると、美咲は深く息を吐いた。
早苗が何か声をかけた。
美咲は頷いた。
そして、直人の方を見た。
直人は小さく手を振った。
美咲も、少しだけ笑った。
◇◇◇◇◇◇
踊りが終わると、美咲は着替えを済ませ、直人のところへ戻ってきた。
「お待たせしました」
「お疲れさま」
「今日は……公園を歩きませんか?」
「いいよ」
二人は歩行者天国を離れ、代々木公園へ向かった。
冬の公園は、少し寂しかった。
木々の葉はほとんど落ち、芝生の上には枯れ葉が散っていた。
散歩する人はいたが、夏や秋ほど多くはなかった。
二人は並んで歩いた。
美咲は、なかなか口を開かなかった。
直人も急かさなかった。
しばらく歩いたところで、美咲が立ち止まった。
「あのベンチ、空いてますね」
「うん」
二人はベンチに座った。
少し間を空けて。
遠くから、子供たちの声が聞こえていた。
美咲は膝の上で手を組んだ。
そして、ゆっくり口を開いた。
「桐生さん」
「うん」
「この前、原宿で会った人……覚えてますか?」
直人は頷いた。
「高瀬隆一って人だね」
「はい」
美咲は俯いた。
「あの人、私が前に勤めていた病院の院長の息子なんです」
「そうだったんだ」
「……私、あの人が怖いんです」
直人は黙って聞いていた。
美咲は続けた。
「怖いっていうより……」
そこで言葉が止まった。
美咲は何度か息を整えた。
「……思い出すだけで、身体が動かなくなるんです」
直人は美咲を見た。
その手が、小さく震えていた。
「無理に話さなくてもいいよ」
直人が言うと、美咲は首を振った。
「……いえ」
そして、少しだけ顔を上げた。
「今日は、話そうと思って来たんです」
直人は頷いた。
「分かった。聞くよ」
◇◇◇◇◇◇
美咲は、ゆっくりと話し始めた。
高瀬病院に就職したこと。
院長の息子に何度も誘われ、断っていたこと。
ある日、仕事の書類を届けるように言われたこと。
そして、その部屋で拳銃を見てしまったこと。
「……本物だったんです」
美咲の声が震えた。
「最初は、何かのおもちゃかと思いました。でも、あの人が私に向けて……」
直人は息を呑んだ。
美咲は膝の上で、手を強く握りしめた。
「逃げようとしたんです。でも、怖くて……」
そこで言葉が止まった。
直人は何も言わなかった。
美咲は何度か深呼吸した。
そして、ようやく続けた。
「……あの人に、無理やり……」
その先は、言葉にならなかった。
美咲の目から涙がこぼれた。
直人は、すぐには理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
しかし、美咲の表情が、すべてを物語っていた。
「……そうだったんだ」
ようやく、それだけ言った。
美咲は俯いたまま頷いた。
「私、何もできなかったんです」
直人は首を振った。
「水野さんが悪いわけじゃない」
「でも、あの部屋に行かなければ……」
「仕事で行ったんだろ?」
「……はい」
「だったら、何も悪くないよ」
美咲は泣いていた。
直人は、その隣で黙っていた。
慰めの言葉を探した。
しかし、簡単な言葉で慰められることではないと思った。
だから、ただ隣にいた。
◇◇◇◇◇◇
しばらくして、美咲は再び話し始めた。
「その後、院長に呼ばれたんです」
直人は顔を上げた。
「高瀬病院の院長に?」
「はい」
美咲は頷いた。
「息子がしたことを知ってたんです」
直人は眉をひそめた。
「それで?」
「謝ってくれました。でも……」
美咲は唇を噛んだ。
「病院の信用がなくなるから、騒ぎにしないでほしいって」
直人は言葉を失った。
「母の治療費を出してくれるって言われました。新しい病院も紹介するって」
「……それで?」
「受け入れました」
美咲は小さく答えた。
「母の入院費が払えなかったから」
直人は拳を握った。
怒りが込み上げてきた。
しかし、美咲の前でそれを爆発させることはできなかった。
美咲は続けた。
「私、看護婦になりたかったんです」
「うん」
「病気の人を助けたかった。母を助けてくれた看護婦さんみたいになりたかった」
美咲の声が震えた。
「でも、病院で、あんなことが起きて……」
直人は黙っていた。
「病院って、人を助ける場所じゃないんですか?」
その問いに、直人は答えられなかった。
医学部に入ってから、何度も聞いてきた言葉が頭に浮かんだ。
『医は仁術』
『医もビジネス』
患者を救うための仕事。
病院を経営するための仕事。
どちらも必要なのだろう。
しかし、目の前の美咲を傷つけたのは、病院の経営者の家族だった。
そして、病院を守るという理由で、彼女は沈黙を求められた。
直人は、初めてその言葉の重さを別の角度から感じていた。
◇◇◇◇◇◇
「……許せないな」
直人は小さく呟いた。
美咲が顔を上げた。
「え?」
「あの男も、院長も」
直人は拳を握りしめた。
「そんなことをしておいて、何もなかったようにしてるなんて」
美咲は黙っていた。
「警察には?」
「……行ってません」
「今からでも、相談できるんじゃないかな」
美咲は俯いた。
「分かりません」
「俺の兄貴も病院をやってるし、何か……」
直人はそこまで言って、口を閉じた。
美咲の表情が変わったからだった。
「……桐生さん」
「うん」
「私のために怒ってくれるのは、嬉しいです」
美咲は静かに言った。
「でも、これ以上、誰かに私の人生を決められたくないんです」
直人は息を呑んだ。
美咲は続けた。
「高瀬さんには、嫌だと言っても聞いてもらえませんでした。院長には、黙っているように言われました」
美咲の声は震えていた。
「私がどうしたいかなんて、誰も聞いてくれなかったんです」
直人は黙っていた。
「だから……」
美咲は涙を拭った。
「これからのことは、自分で決めたいんです」
直人はゆっくり頷いた。
「……ごめん」
美咲は首を振った。
「謝らないでください」
「いや、俺も勝手に何とかしようとしてた」
直人は苦笑した。
「水野さんがどうしたいか、聞いてなかった」
美咲は少し微笑んだ。
「ありがとうございます」
直人は首を振った。
「俺にできることがあったら言って。何もできないかもしれないけど」
美咲は頷いた。
「……はい」
◇◇◇◇◇◇
しばらく、二人は黙って座っていた。
風が吹き、枯れ葉が足元を転がっていった。
美咲は空を見上げた。
「私、竹の子族に入った理由、話しましたっけ?」
「踊ってると嫌なことを忘れられるって」
「そうでしたね」
美咲は少し笑った。
「最初は、早苗に誘われたんです」
「うん」
「でも、踊ってみたら、すごく楽しくて」
直人は頷いた。
「楽しそうだったよ」
「ええ」
美咲は微笑んだ。
「踊ってる間は、誰にも命令されないんです」
直人は美咲を見た。
「踊りたければ踊る。疲れたら休む。間違えても、誰も怒らない」
美咲は続けた。
「全部、自分で決められるんです」
直人は黙って聞いていた。
「病院では、いつも誰かの指示に従っていました。もちろん、仕事だから仕方ないこともあります。でも……」
美咲は少し俯いた。
「私の人生まで、誰かに決められるのは嫌だったんです」
直人はゆっくり頷いた。
その言葉が、胸に残った。
自分の人生を、自分で決める。
美咲は、そう言っていた。
しかし、自分はどうなのだろう。
父の遺言書。
兄弟の期待。
医学部。
そのすべてを、自分で選んだつもりだった。
しかし、本当にそうだったのだろうか。
◇◇◇◇◇◇
「桐生さん」
美咲が言った。
「はい?」
「この前、演劇の話をしてくれましたよね」
「うん」
「本当に楽しそうでした」
直人は少し笑った。
「そうかな」
「ええ」
美咲は直人を見た。
「私、桐生さんの芝居、見てみたいです」
直人は驚いた。
「俺の?」
「はい」
「もう何年もやってないよ」
「それでも」
美咲は微笑んだ。
「桐生さんが舞台に立ってるところ、見てみたいです」
直人は黙った。
高校時代。
舞台に立っていた自分。
照明の熱。
客席の暗闇。
拍手。
そのすべてが、鮮明によみがえった。
「……いつかね」
直人は小さく答えた。
美咲は頷いた。
「楽しみにしてます」
その言葉を聞いて、直人は胸が少し温かくなるのを感じた。
◇◇◇◇◇◇
夕方になった。
二人はベンチを立ち、原宿駅へ向かった。
歩きながら、美咲が言った。
「桐生さん」
「うん」
「今日、話してよかったです」
「そう?」
「はい」
美咲は少し笑った。
「怖かったんです」
「うん」
「話したら、桐生さんが私を見る目が変わるんじゃないかって」
直人は首を振った。
「変わらないよ」
美咲は直人を見た。
「本当ですか?」
「うん」
直人は少し考えた。
「いや、正確には、少し変わったかもしれない」
美咲の表情が強張った。
直人は慌てて続けた。
「悪い意味じゃないよ」
「……はい」
「水野さんが、どんな思いでここに来てたのか、少し分かったから」
美咲は黙っていた。
「今まで、ただ楽しそうだなって見てた。でも、今日話を聞いて……」
直人は言葉を探した。
「ここが、水野さんにとって大事な場所なんだって分かった」
美咲は少し俯いた。
そして、微笑んだ。
「……ありがとうございます」
直人は頷いた。
◇◇◇◇◇◇
原宿駅の前で、二人は立ち止まった。
美咲は直人に向き直った。
「また来週、来ますか?」
「もちろん」
「よかった」
美咲は笑った。
その笑顔は、今日初めて自然に見えた。
「じゃあ、また来週」
「うん。また来週」
美咲は改札へ向かった。
しかし、途中で振り返った。
「桐生さん!」
直人は顔を上げた。
「何?」
「私、来週も踊りますから!」
直人は笑った。
「うん。見てるよ!」
美咲は大きく手を振った。
そして、人混みの中へ消えていった。
◇◇◇◇◇◇
帰りの電車。
直人は窓の外を眺めていた。
今日、美咲から聞いた話が、何度も頭に浮かんだ。
高瀬隆一。
高瀬病院の院長。
拳銃。
示談。
そして、母の治療費。
直人は、怒りを感じていた。
しかし、それ以上に考えていたことがあった。
美咲の言葉だった。
『これ以上、誰かに私の人生を決められたくないんです』
直人は、その言葉を繰り返した。
自分の人生を、自分で決める。
それは、当たり前のことのようで、実は難しいことなのかもしれない。
美咲は、傷つきながらも、それを取り戻そうとしている。
では、自分はどうなのだろう。
父の遺言書に従い、医学部に入った。
それは、自分で決めたことだった。
しかし、その決断を、今も自分の意思として持ち続けているのだろうか。
直人は目を閉じた。
高校時代の舞台が浮かんだ。
そして、今日の美咲の言葉がよみがえった。
『桐生さんが舞台に立ってるところ、見てみたいです』
直人は小さく笑った。
自分も、もう一度舞台に立ちたい。
その気持ちは、まだ消えていなかった。
むしろ、以前よりも強くなっているような気がした。
しかし、すぐに医学部を辞める決心がついたわけではなかった。
父の遺言書。
母の期待。
兄弟たちのこと。
考えなければならないことは、まだたくさんあった。
それでも、直人は思った。
いつか、自分で決めなければならない。
医者になるのか。
役者になるのか。
誰かの願いではなく、自分の意思で。
電車が駅に近づいた。
直人は立ち上がった。
窓に映る自分の顔は、少しだけ以前と違って見えた。
まだ、答えは出ていない。
しかし、答えを探そうという気持ちは生まれていた。
直人は電車を降りた。
冬の冷たい空気が、頬に触れた。
その冷たさが、今は少し心地よかった。
お読みいただきありがとうございます。
感想や評価を頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。




