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第七章病院という名の檻

時代:1981年~1983年頃

竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。


主な登場人物

主人公:桐生(きりゅう) 直人(なおと)22歳

病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。

しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。

二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。

性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。


ヒロイン:水野(みずの) 美咲(みさき)20歳

看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。

短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。

そこで直人と知り合う。

母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。

「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。

就職先の病院で院長の息子とは何らかの訳あり。

性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。


佐伯 早苗(21歳)

美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。


高瀬 隆一(28歳)

美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。

医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。

水野美咲が高瀬隆一と再会した日から、一週間が過ぎようとしていた。


その間、美咲は一度も原宿へ行かなかった。


仕事が休みの日も、外へ出る気にはなれなかった。


アパートの小さな部屋で、窓の外を眺めて過ごしていた。


佐伯早苗から電話があったのは、土曜日の夕方だった。


『美咲、明日は来られそう?』


「……分からない」


『そっか』


「ごめんね」


『謝らなくていいよ』


電話の向こうで、早苗が少し黙った。


『この前のこと、まだ気になってる?』


美咲は答えなかった。


『桐生さんには、何も話してないからね』


「……うん」


『でも、あの人、心配してたよ』


「そう……」


美咲は受話器を握り直した。


『美咲』


「何?」


『無理して来なくていいから。でも、来たくなったらおいで』


「ありがとう」


電話を切った後、美咲はしばらく受話器を見つめていた。


そして、ゆっくりと部屋の隅に目を向けた。


そこには、青い衣装が畳んで置かれていた。


竹の子族の衣装だった。


初めて着たときは、あまりにも派手で、鏡を見るのも恥ずかしかった。


今では、その衣装を着る日曜日が楽しみになっていた。


しかし、先週の出来事以来、衣装を見るだけで胸が苦しくなることがあった。


高瀬隆一。


あの男が、再び自分の前に現れた。


それだけで、忘れようとしていた記憶が鮮明によみがえってしまった。


◇◇◇◇◇◇


半年前。


昭和五十六年、春。


美咲は、看護婦としての第一歩を踏み出していた。


短大の看護課程を終え、資格を取得し、都内の高瀬病院に就職したのだった。


高瀬病院は、百床を超える病床を持つ私立病院だった。


設備も整っており、地域ではそれなりに評判のよい病院だった。


美咲がその病院を選んだのには、理由があった。


母親の治療費だった。


美咲の母、千鶴は長い間、重い腎臓の病気を患っていた。


入退院を繰り返し、家計は苦しかった。


父親は数年前に亡くなっており、親戚の援助も限られていた。


美咲は学生時代からアルバイトを続け、少しでも家計を支えようとしていた。


桐生病院で看護補助の仕事をしていたのも、そのためだった。


高瀬病院は、就職の際に提示された給与や手当が比較的よかった。


それが決め手になった。


「お母さん、私、ちゃんと看護婦になったよ」


就職が決まった日、美咲は母の病室で報告した。


千鶴は嬉しそうに笑った。


「よかったねえ、美咲」


「これからは、少し楽になるからね」


「無理しちゃ駄目よ」


「分かってる」


美咲は笑った。


「私、看護婦になるのが夢だったんだから」


そのときは、本当にそう思っていた。


自分の仕事で誰かを助けられる。


母の治療費も支えられる。


これから、少しずつ生活がよくなっていく。


そう信じていた。


◇◇◇◇◇◇


高瀬病院での仕事は、想像以上に忙しかった。


朝の申し送り。


患者の体温や血圧の測定。


医師の診察や処置の補助。


薬の確認。


記録の整理。


覚えることは山ほどあった。


新人の美咲は、毎日のように先輩看護婦から注意された。


「水野さん、患者さんの名前は必ず確認して」


「はい、すみません」


「謝るより、次から気をつけて」


「はい」


失敗するたびに落ち込んだ。


しかし、患者から「ありがとう」と言われると、それだけで嬉しかった。


ある日、入院していた老婦人が美咲に言った。


「あなたが来ると、病室が明るくなるわね」


美咲は照れた。


「そんなことないですよ」


「あるわよ。いつも笑ってるもの」


その言葉が嬉しかった。


自分は、この仕事を選んでよかった。


そう思えた。


あの日までは。


◇◇◇◇◇◇


高瀬隆一と初めて顔を合わせたのは、就職して一か月ほど経った頃だった。


院長の高瀬重蔵の息子で、二十八歳。


病院の事務関係の仕事に出入りしていたが、正式な役職が何なのか、美咲にはよく分からなかった。


職員たちは、彼を「若先生」と呼ぶこともあった。


しかし、隆一は医師ではなかった。


それでも、病院内では誰も彼に強く意見しようとしなかった。


院長の息子だからだった。


「君、新人?」


ある日、廊下で隆一に声をかけられた。


「はい。水野美咲と申します」


「へえ、若いね。何歳?」


「二十歳です」


「彼氏は?」


美咲は戸惑った。


「……いません」


「そう。じゃあ、今度食事でもどう?」


「すみません。仕事がありますので」


美咲は頭を下げ、その場を離れた。


それからも、隆一は何度か声をかけてきた。


最初は冗談のような口調だった。


しかし、断るたびに、少しずつ態度が変わっていった。


「院長の息子が誘ってるんだから、少しくらい付き合ってくれてもいいだろ」


ある日、隆一はそう言った。


美咲は困った。


「申し訳ありません」


「君、真面目すぎるんじゃない?」


「……すみません」


「謝ってばかりだな」


隆一は笑った。


美咲は、その笑い方が苦手だった。


◇◇◇◇◇◇


事件が起きたのは、六月の終わりだった。


その日、美咲は遅番の勤務を終えようとしていた。


病棟の書類を整理していると、事務室から連絡があった。


高瀬隆一が、書類を届けてほしいと言っているという。


美咲は少し迷った。


しかし、仕事の用件だと聞かされ、断る理由もなかった。


指定された部屋は、病院の管理棟の奥にあった。


普段、看護婦が立ち入ることの少ない場所だった。


美咲が扉をノックすると、中から声がした。


「入って」


「失礼します」


部屋には隆一が一人でいた。


机の上には書類が散らばっていた。


「書類をお持ちしました」


「ああ、そこに置いて」


美咲は書類を机に置いた。


そのとき、机の引き出しが少し開いていることに気づいた。


中に、黒い金属のようなものが見えた。


最初は何なのか分からなかった。


しかし、隆一が引き出しを閉めようとした瞬間、美咲はそれが拳銃であることに気づいた。


「……それ」


思わず声が出た。


隆一の手が止まった。


「何?」


「今の……拳銃ですか?」


隆一は美咲を見た。


そして、ゆっくり笑った。


「見ちゃった?」


美咲は背筋が冷たくなるのを感じた。


「……本物なんですか?」


「さあ、どうだろうね」


隆一は引き出しを開け、拳銃を取り出した。


美咲は思わず一歩下がった。


「やめてください」


「何を?」


「そんなもの、出さないでください」


隆一は笑った。


「怖い?」


美咲は答えなかった。


隆一は拳銃を手にしたまま、椅子から立ち上がった。


「誰にも言うなよ」


「……はい」


「本当に?」


「言いません」


美咲は扉の方へ下がろうとした。


しかし、隆一はその前に立った。


「そんなに急いで帰らなくてもいいだろ」


「勤務が終わりましたので」


「少しくらい話そうよ」


「すみません。失礼します」


美咲が扉へ向かおうとすると、隆一の声が低くなった。


「待てよ」


美咲は足を止めた。


隆一は拳銃を持ち上げた。


「見なかったことにするって、約束できる?」


「……できます」


「じゃあ、ちゃんとこっちを向けよ」


美咲は振り向いた。


拳銃の銃口が、自分の方を向いていた。


その瞬間、身体が動かなくなった。


隆一は、ゆっくり近づいてきた。


「大声を出すなよ」


美咲は声を出せなかった。


逃げなければ。


そう思った。


しかし、足が動かなかった。


その後に起きたことを、美咲は何度も忘れようとした。


隆一は拳銃で脅し、美咲の意思に反して性的な暴行を加えた。


美咲が何度拒んでも、隆一はやめなかった。


その部屋から出られたとき、美咲は、自分がどこを歩いているのかさえ分からなかった。


◇◇◇◇◇◇


病院を出ると、雨が降っていた。


美咲は傘を持っていなかった。


しかし、傘を取りに戻る気にはなれなかった。


雨の中を歩いた。


制服の上に羽織ったカーディガンが濡れていく。


髪も、靴も、すべて濡れていた。


それでも、何も感じなかった。


駅の近くまで来たところで、ようやく足が止まった。


美咲は道端にしゃがみ込んだ。


涙が出てきた。


声を出さないように、口を押さえた。


しかし、涙は止まらなかった。


なぜ、あの部屋へ行ってしまったのだろう。


なぜ、逃げられなかったのだろう。


なぜ、誰も助けに来てくれなかったのだろう。


何度考えても、答えは出なかった。


自分が悪かったのではないか。


そんな考えまで浮かんだ。


しかし、何も悪いことなどしていなかった。


ただ、仕事をしていただけだった。


◇◇◇◇◇◇


翌日、美咲は仕事を休んだ。


身体が動かなかった。


布団の中で、天井を見つめていた。


電話が鳴っても、出ることができなかった。


昼過ぎになって、ようやく受話器を取った。


相手は病院の事務長だった。


『水野さん、院長がお話ししたいそうです』


美咲は息を呑んだ。


「……何のお話でしょうか」


『昨日の件についてです』


美咲は受話器を握りしめた。


『できれば、今日中に病院へ来ていただきたいのですが』


「……分かりました」


断ることができなかった。


◇◇◇◇◇◇


院長室には、高瀬重蔵がいた。


六十一歳。


白髪交じりの髪をきちんと整え、落ち着いた口調で話す男だった。


病院では、職員から尊敬されている院長だった。


「水野さん、座りなさい」


美咲は椅子に座った。


重蔵はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「息子から話は聞いた」


美咲は顔を上げた。


「……では」


「大変な思いをさせたようだね」


重蔵は頭を下げた。


「父親として、申し訳なく思っている」


美咲は何も言えなかった。


謝罪されれば、少しは気持ちが楽になると思っていた。


しかし、実際には何も変わらなかった。


「ただね、水野さん」


重蔵は続けた。


「この件が表に出れば、病院全体が大きな影響を受ける」


美咲は重蔵を見た。


「……どういうことですか」


「多くの患者さんがいる。職員もいる。病院の信用が失われれば、困る人が大勢出るんだ」


美咲は黙っていた。


「もちろん、君のことを軽く考えているわけではない」


重蔵は机の上に一枚の書類を置いた。


「君のお母さんが、長く入院しているそうだね」


美咲の身体が強張った。


「……はい」


「治療費も、かなり大変だと聞いている」


美咲は何も答えなかった。


なぜ、そんなことまで知っているのだろう。


重蔵は続けた。


「今後のお母さんの入院費用については、こちらで負担しよう」


美咲は顔を上げた。


「……え?」


「必要な治療を、費用の心配なく受けられるように手配する」


重蔵は穏やかな声で言った。


「それから、君の新しい勤務先も紹介できる。今の病院に残るのは、つらいだろうからね」


美咲は書類を見つめた。


母の治療費。


新しい勤務先。


どちらも、今の自分に必要なものだった。


しかし、重蔵はまだ話を終えていなかった。


「その代わり、この件については、これ以上騒ぎにしないでもらいたい」


美咲は顔を上げた。


「……黙っていろ、ということですか」


重蔵は少し眉をひそめた。


「そういう言い方は適切ではないね」


「でも……」


「君にも、これからの人生があるだろう」


重蔵は静かに言った。


「ここで大きな問題にしてしまえば、君自身も傷つくことになる」


美咲は唇を噛んだ。


重蔵の言葉は、心配しているように聞こえた。


しかし、その実、選択肢を奪っていた。


母の治療費をどうするのか。


仕事をどうするのか。


今後の生活をどうするのか。


美咲には、すぐに答えを出せるだけの余裕がなかった。


「……少し、考えさせてください」


ようやく、それだけ言った。


重蔵は頷いた。


「もちろんだ。ただ、あまり時間をかけない方がいい」


美咲は院長室を出た。


廊下を歩きながら、涙がこぼれた。


ここは病院だった。


人を助けるための場所だった。


そのはずだった。


◇◇◇◇◇◇


美咲は、母の病室を訪ねた。


千鶴はベッドの上で本を読んでいた。


「あら、美咲。今日はお休みじゃなかったの?」


「うん。ちょっと用事があって」


「顔色が悪いわよ」


「大丈夫」


美咲は笑った。


「ちょっと疲れてるだけ」


千鶴は心配そうに娘を見た。


「無理しないでね」


「うん」


「あなたが看護婦になってくれたこと、お母さん、本当に嬉しいのよ」


美咲は俯いた。


「……そう」


「でも、身体を壊すほど頑張らなくていいんだからね」


美咲は頷いた。


母には、何も話せなかった。


話せば、きっと自分のことを心配する。


治療費のことも気にするだろう。


もしかしたら、入院をやめると言い出すかもしれない。


それだけは避けたかった。


美咲は母の手を握った。


「お母さん」


「何?」


「ちゃんと治してね」


千鶴は笑った。


「もちろんよ」


美咲は、その笑顔を見つめた。


そして、心の中で決めた。


母のために、黙っていよう。


自分が我慢すれば、母は治療を続けられる。


そう思うしかなかった。


◇◇◇◇◇◇


数日後、美咲は重蔵の提示した条件を受け入れた。


示談という形で、事件を表沙汰にしないことになった。


母の治療費は、高瀬側が負担することになった。


美咲には、別の病院への就職先が用意された。


それで、すべてが終わったことにされた。


しかし、美咲の中では何も終わっていなかった。


新しい病院で働き始めても、男性職員が近づくと身体が強張ることがあった。


背後から声をかけられると、思わず振り向いた。


突然肩に触れられると、息が詰まった。


夜になると、あの部屋の記憶がよみがえった。


拳銃。


閉じられた扉。


隆一の声。


そして、自分の声が届かなかったこと。


何度も夢に見た。


目が覚めると、汗をかいていた。


それでも、翌朝には仕事へ行った。


患者の前では笑顔を作った。


看護婦として働き続けたかったからだ。


しかし、以前のように、心から笑うことは難しくなっていた。


◇◇◇◇◇◇


そんな美咲の変化に、最初に気づいたのが早苗だった。


二人は短大時代からの友人だった。


早苗も別の病院で看護婦として働いていた。


ある日、久しぶりに会った早苗が言った。


「美咲、何かあった?」


「何もないよ」


「嘘」


早苗は即座に言った。


「顔見れば分かるよ」


美咲は笑おうとした。


しかし、うまく笑えなかった。


早苗はしばらく黙っていた。


そして、静かに言った。


「話したくなかったら、話さなくていいから」


美咲は顔を上げた。


「……うん」


「でも、一人で抱え込まないで」


その言葉を聞いた瞬間、美咲の目から涙がこぼれた。


早苗は何も言わなかった。


ただ、隣に座っていた。


美咲は泣いた。


長い間、声を押し殺して泣いた。


そして、少しずつ、何があったのかを話した。


早苗は最後まで黙って聞いていた。


話が終わると、早苗は静かに言った。


「……ひどい」


美咲は俯いた。


「私、何もできなかった」


「美咲が悪いんじゃないよ」


「でも……」


「悪いのは、あの男だよ」


早苗の声は震えていた。


「それに、院長だっておかしいよ。自分の息子がしたことを、金で黙らせるなんて」


美咲は何も言えなかった。


早苗は続けた。


「警察に相談することもできると思う。今からでも」


美咲は首を振った。


「……怖い」


「うん」


「お母さんの治療費もあるし……」


「分かってる」


早苗は頷いた。


「でも、いつか美咲が何かしたいと思ったら、私も一緒に考えるから」


美咲は早苗を見た。


「……ありがとう」


早苗は微笑んだ。


「当たり前でしょ。友達なんだから」


◇◇◇◇◇◇


それからしばらくして、早苗が美咲を原宿へ誘った。


「竹の子族?」


美咲は驚いた。


「そう。日曜日に踊ってる人たち」


「知ってるけど……」


「一緒にやってみない?」


「無理だよ」


美咲は即座に答えた。


「私、踊りなんかできないし」


「別に上手じゃなくてもいいんだよ」


「でも、あんな派手な格好……」


「大丈夫。最初は見てるだけでもいいから」


早苗は笑った。


「家に閉じこもってるより、少し外へ出ようよ」


美咲は迷った。


大勢の人がいる場所は、少し怖かった。


しかし、早苗と一緒なら大丈夫かもしれない。


そう思った。


最初の日曜日、美咲は普通の服で原宿へ行った。


歩行者天国には、大勢の若者が集まっていた。


音楽が鳴り、色鮮やかな衣装を着た人々が踊っていた。


美咲は、ただ眺めていた。


楽しそうだった。


誰もが笑っていた。


その光景を見ているうちに、少しだけ胸が軽くなった。


次の日曜日、早苗が青い衣装を持ってきた。


「はい、これ」


「何?」


「美咲の分」


「ええっ!」


美咲は驚いた。


「本当に着るの?」


「嫌なら着なくてもいいよ」


早苗は笑った。


「でも、似合うと思うんだ」


美咲は衣装を広げた。


鮮やかな青色だった。


病院の制服とは、まるで違う。


美咲はしばらく眺めていた。


そして、小さく笑った。


「……一回だけね」


早苗は嬉しそうに頷いた。


◇◇◇◇◇◇


初めて踊った日。


美咲は何度も動きを間違えた。


隣の人とぶつかりそうになった。


音楽に遅れた。


それでも、誰も怒らなかった。


早苗が笑った。


仲間たちも笑った。


美咲も、つられて笑った。


気がつくと、夢中になっていた。


音楽に合わせて身体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済んだ。


高瀬隆一のことも。


院長室で言われたことも。


母の治療費のことも。


ほんの少しだけ、頭から消えていた。


曲が終わると、美咲は息を弾ませていた。


「どう?」


早苗が尋ねた。


美咲は笑った。


「……楽しい」


「でしょ?」


「うん」


その笑顔を見て、早苗も笑った。


美咲は、久しぶりに心から笑った気がした。


それから、日曜日になると原宿へ行くようになった。


踊っている間だけは、自分が自由になれた。


病院の中では、いつも誰かの指示に従っていた。


院長の息子には、逆らうことができなかった。


院長からは、黙っているように求められた。


しかし、ここでは違った。


踊るかどうかも。


何を着るかも。


いつ休むかも。


すべて自分で決められた。


それが、美咲には嬉しかった。


◇◇◇◇◇◇


そして、秋。


原宿で、桐生直人と再会した。


最初は驚いた。


まさか、桐生病院の院長の息子が、竹の子族を見に来るとは思わなかった。


しかも、テレビで自分を見つけたという。


美咲は少し恥ずかしかった。


しかし、同時に嬉しかった。


直人は、美咲の踊りを笑わなかった。


変だとも言わなかった。


ただ、楽しそうだと言ってくれた。


そして、毎週のように見に来るようになった。


踊り終わると、一緒に喫茶店へ行った。


演劇の話をした。


大学の話をした。


子供の頃の話をした。


直人は、いつも美咲の話を聞いてくれた。


無理に何かを尋ねることもなかった。


それが、美咲には心地よかった。


しかし、同時に怖くもあった。


直人に、あの事件のことを知られたら。


自分を見る目が変わるのではないか。


同情されるのではないか。


あるいは、気味悪がられるのではないか。


そんなことを考えてしまった。


だから、仕事の話になると曖昧に答えた。


病院を移った理由も話さなかった。


それでも、直人は何も聞かなかった。


ただ、いつものように笑ってくれた。


◇◇◇◇◇◇


そして、あの日。


高瀬隆一が現れた。


美咲は、あの男を見た瞬間、身体が動かなくなった。


忘れようとしていた記憶が、一度に戻ってきた。


拳銃。


閉じられた扉。


逃げられなかった自分。


隆一が肩に手を伸ばしたとき、思わず叫んでいた。


「やめて!」


その声は、自分でも驚くほど大きかった。


直人が間に入ってくれた。


隆一が去った後も、美咲は震えていた。


直人は何も聞かなかった。


肩に触れようとして、手を止めたことにも気づいていた。


そして、少し離れて座ってくれた。


美咲は、そのことが嬉しかった。


しかし、同時に苦しかった。


直人に、何も話せない自分が嫌だった。


◇◇◇◇◇◇


土曜日の夜。


美咲は、青い衣装を手に取った。


明日は日曜日だった。


原宿へ行けば、直人がいるかもしれない。


いつものように、少し離れたところから踊りを見ているかもしれない。


美咲は衣装を胸に抱いた。


直人に会いたい。


そう思った。


しかし、会うのが怖かった。


あの事件のことを話すべきなのだろうか。


話したら、直人はどう思うだろう。


美咲はしばらく考えた。


そして、衣装を丁寧に畳み直した。


「……明日、行こう」


小さく呟いた。


直人にすべてを話せるかどうかは、まだ分からない。


しかし、もう一度、あの場所へ行きたかった。


音楽が流れる場所へ。


誰も自分に命令しない場所へ。


そして、直人が待っているかもしれない場所へ。


美咲は電気を消した。


布団に入ると、目を閉じた。


まだ、あの部屋の記憶は消えていなかった。


きっと、簡単には消えないのだろう。


それでも、明日という日がある。


自分で行くと決めた場所がある。


それだけが、今の美咲には小さな希望だった。

お読みいただきありがとうございます。


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よろしくお願いいたします。

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