第六章笑顔の裏側
時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主な登場人物
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
就職先の病院で院長の息子とは何らかの訳あり。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
佐伯 早苗(21歳)
美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。
高瀬 隆一(28歳)
美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。
医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。
十一月も終わりに近づいた日曜日。
原宿の歩行者天国には、冷たい風が吹いていた。
それでも、竹の子族の若者たちは元気だった。
色鮮やかな衣装を身にまとい、ラジカセから流れる音楽に合わせて踊っている。
その周囲には、いつものように大勢の見物人が集まっていた。
桐生直人も、その一人だった。
最近では、原宿へ来ることがすっかり習慣になっていた。
大学へは相変わらず休みがちだったが、日曜日だけは違った。
朝になると自然に目が覚め、身支度を整え、電車に乗った。
そして、ここへ来る。
水野美咲が踊っている姿を見るために。
直人は人垣の後ろから、美咲を探した。
青い衣装。
後ろでまとめた長い髪。
そして、音楽に合わせて動く、軽やかな姿。
すぐに見つかった。
美咲は早苗たちと一緒に踊っていた。
直人は少し笑った。
今日は元気そうだ。
先週は疲れた様子だったが、今はいつもの笑顔に戻っている。
直人は安心して、その姿を眺めていた。
◇◇◇◇◇◇
曲が終わると、美咲が直人のところへやってきた。
「桐生さん、こんにちは」
「こんにちは。今日は調子よさそうだね」
「そうですか?」
「うん。先週より元気そう」
美咲は少し照れたように笑った。
「先週は、ちょっと疲れてただけです」
「そっか」
「桐生さんは?大学、ちゃんと行ってます?」
直人は苦笑した。
「痛いところを突くね」
「え?」
「いや、最近ちょっと休みがちで」
美咲は驚いた顔をした。
「そうなんですか?」
「うん」
「体調が悪いんですか?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
直人は言葉を濁した。
美咲はしばらく直人を見つめていた。
そして、静かに言った。
「無理しないでくださいね」
「ありがとう」
「でも、あんまり休むと、勉強についていけなくなっちゃいますよ」
「そうだね」
直人は頷いた。
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
直人も、大学へ行けなくなっている本当の理由を話すことはできなかった。
◇◇◇◇◇◇
しばらくして、早苗がやってきた。
「美咲、次の曲始まるよ」
「あ、うん」
美咲は直人に向き直った。
「じゃあ、また後で」
「うん。見てるよ」
美咲は笑顔で手を振り、踊る集団の中へ戻っていった。
直人はその姿を見送った。
早苗が隣に立った。
「桐生さん」
「何?」
「美咲のこと、どう思ってます?」
直人は驚いた。
「え?」
「だから、美咲のこと」
「どうって……」
早苗は少し笑った。
「毎週見に来てるじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
「美咲も、桐生さんが来るの楽しみにしてるんですよ」
直人は早苗を見た。
「そうなの?」
「ええ。日曜日になると、桐生さん来るかなって、何度も言ってます」
直人は少し照れた。
「そうなんだ」
早苗は笑った。
しかし、すぐに真面目な顔になった。
「……桐生さん」
「何?」
「美咲のこと、あんまり急がないであげてくださいね」
直人は意味が分からなかった。
「急がない?」
「ええ」
「どういうこと?」
早苗は少し迷った。
「……いろいろあったんです」
「いろいろ?」
「でも、私からは話せません」
直人は黙っていた。
早苗は続けた。
「美咲が話したくなったら、聞いてあげてください」
「……分かった」
直人は頷いた。
早苗は少し安心したように笑った。
「ありがとうございます」
そして、美咲たちのところへ戻っていった。
直人は、その後ろ姿を見つめた。
いろいろあった。
その言葉が、胸に残った。
◇◇◇◇◇◇
午後になり、踊りが終わった。
美咲は着替えを済ませ、直人のところへ戻ってきた。
「お待たせしました」
「お疲れさま」
「今日は、いつもの喫茶店でいいですか?」
「うん」
二人は歩行者天国を離れ、原宿の通りを歩き始めた。
休日の街は、相変わらず賑やかだった。
若者たちの笑い声。
店から流れる音楽。
行き交う人々の声。
美咲は楽しそうに、最近見た映画の話をしていた。
直人も笑いながら聞いていた。
そのときだった。
人混みの中から、一人の男が近づいてきた。
派手な柄のシャツに、革の上着。
二十代後半くらいの男だった。
男は、美咲を見つけると、にやりと笑った。
「おや、水野じゃないか」
美咲の足が止まった。
直人は、その変化に気づいた。
美咲の顔から、笑顔が消えていた。
「……高瀬さん」
小さな声だった。
男はゆっくり近づいてきた。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
美咲は答えなかった。
男は直人を見た。
「何だ、彼氏か?」
「違います」
美咲が即座に答えた。
その声は、少し震えていた。
直人は男を見た。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
男は直人を眺めた。
「お前こそ誰だよ」
「桐生直人です」
「桐生?」
男は少し考えた。
「……ああ、桐生病院の?」
直人は驚いた。
「ご存じなんですか?」
「親父から名前くらい聞いたことあるよ」
男は笑った。
「俺は高瀬隆一。高瀬病院の院長の息子だ」
直人は名前を聞いて、少し思い出した。
高瀬病院。
兄の誠一が、以前その病院の話をしていたことがある。
しかし、詳しいことは知らなかった。
「そうですか」
直人は短く答えた。
隆一は美咲に視線を戻した。
「水野、お前、こんなところで遊んでるのか」
美咲は俯いた。
「……休日ですから」
「へえ。ずいぶん楽しそうじゃないか」
隆一は笑った。
しかし、その笑い方には、どこか人を見下すような響きがあった。
「まあ、元気そうで何よりだ」
隆一は美咲の肩に手を伸ばした。
その瞬間だった。
「やめて!」
美咲が叫んだ。
直人は驚いた。
美咲は大きく身を引き、隆一から離れた。
顔が青ざめていた。
周囲の人々が、何事かと振り向いた。
隆一は一瞬、驚いた顔をした。
しかし、すぐに笑った。
「何だよ。そんなに驚くことないだろ」
美咲は何も言わなかった。
ただ、震えていた。
直人は美咲の前に立った。
「すみません。彼女、嫌がってますから」
隆一は直人を見た。
「何だ、お前」
「ですから、やめてください」
直人は静かに言った。
隆一はしばらく直人を睨んでいた。
しかし、やがて鼻で笑った。
「……まあ、いいや」
そして、美咲に向かって言った。
「またな、水野」
その言葉を残し、人混みの中へ消えていった。
◇◇◇◇◇◇
隆一が見えなくなっても、美咲は動かなかった。
直人は振り向いた。
「水野さん、大丈夫?」
美咲は答えなかった。
肩が小さく震えていた。
「水野さん?」
「……大丈夫です」
かすれた声だった。
直人は少し迷った。
肩に手を置こうとした。
しかし、先ほどの美咲の反応を思い出し、手を止めた。
「少し、休もうか」
美咲は小さく頷いた。
二人は近くの公園へ向かった。
ベンチに座ると、美咲は両手を膝の上で握りしめた。
直人は少し離れて座った。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
遠くから、子供たちの声が聞こえていた。
美咲は深く息を吐いた。
「……すみません」
「何が?」
「せっかく楽しくお話ししてたのに」
「そんなこと、気にしなくていいよ」
直人は静かに言った。
美咲は俯いたままだった。
「さっきの人……」
直人が言いかけると、美咲の肩がぴくりと動いた。
直人は言葉を止めた。
美咲は小さく首を振った。
「……今は、話したくないです」
「分かった」
直人はそれ以上、何も聞かなかった。
◇◇◇◇◇◇
しばらくして、美咲が口を開いた。
「桐生さん」
「うん」
「私、変ですよね」
「何が?」
「ちょっと肩に触られそうになっただけで、あんなに大きな声を出して」
直人は首を振った。
「変じゃないよ」
「でも……」
「嫌なものは嫌だろ」
美咲は顔を上げた。
直人は続けた。
「誰だって、触られたくない相手はいるよ」
美咲はしばらく直人を見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
直人は笑った。
「別に、お礼を言われることじゃないよ」
美咲は少しだけ微笑んだ。
しかし、その笑顔はすぐに消えた。
◇◇◇◇◇◇
夕方になり、二人は駅へ向かった。
美咲は、いつもより口数が少なかった。
直人も無理に話しかけなかった。
原宿駅の前まで来ると、美咲が立ち止まった。
「桐生さん」
「何?」
「今日は、ごめんなさい」
「だから、謝らなくていいって」
「でも……」
「また来週、会える?」
直人が尋ねると、美咲は少し驚いた顔をした。
「……来週?」
「うん。いつものように、踊りを見に来てもいいかな」
美咲はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
直人は微笑んだ。
「じゃあ、また来週」
美咲も少し笑った。
「はい。また来週」
二人はそこで別れた。
直人は、美咲が改札の向こうへ消えるまで見送った。
◇◇◇◇◇◇
帰りの電車の中。
直人は、今日の出来事を何度も思い返していた。
高瀬隆一。
高瀬病院の院長の息子。
美咲は、その男を見た瞬間、明らかに怯えていた。
肩に触れられそうになっただけで、悲鳴を上げた。
そして、話したくないと言った。
何があったのだろう。
直人には分からなかった。
しかし、ただの知り合いではないことだけは確かだった。
早苗の言葉が頭に浮かんだ。
『美咲のこと、あんまり急がないであげてくださいね』
『いろいろあったんです』
直人は窓の外を見た。
夕暮れの街が流れていく。
自分は、美咲のことを何も知らない。
看護婦になりたかったこと。
母親が病気だったこと。
竹の子族として踊っていること。
そして、原宿で笑っていること。
知っているのは、それだけだった。
その笑顔の裏側に、何があるのか。
直人には、まだ分からなかった。
◇◇◇◇◇◇
下宿に帰ると、直人は机の前に座った。
医学書が開かれたままになっていた。
しかし、今日はそれを読む気にはなれなかった。
代わりに、机の引き出しから古い台本を取り出した。
『洋館の殺人』
高校時代に演じた推理劇だった。
直人はページをめくった。
探偵が、犯人の秘密を暴こうとする場面。
そこには、こんな台詞があった。
『真実を知ることが、必ずしも人を幸せにするとは限らない』
直人は、その一文を見つめた。
高校時代には、ただ格好いい台詞だと思っていた。
しかし、今は少し違って感じられた。
美咲には、何か秘密がある。
それを知りたいと思う。
しかし、知ることが本当に彼女のためになるのだろうか。
直人は台本を閉じた。
そして、机の上に置いた。
「……話してくれるまで、待とう」
小さく呟いた。
美咲が話したくなったときに、聞けばいい。
無理に聞き出す必要はない。
直人はそう決めた。
しかし、その夜。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
美咲の青ざめた顔が、何度も頭に浮かんだからだ。
踊っているときの笑顔。
喫茶店で笑っていた顔。
そして、隆一を見た瞬間の怯えた表情。
それらが、同じ一人の女性のものだとは、どうしても思えなかった。
直人は天井を見つめた。
美咲は、何を抱えているのだろう。
自分に、何かできることはあるのだろうか。
答えは出なかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
直人は、もう美咲のことを、ただの昔の知り合いとは思えなくなっていた。
彼女の笑顔を、もう一度見たい。
今度は、何かを忘れるためではなく。
心から笑っている顔を。
直人は、そう願いながら目を閉じた。
お読みいただきありがとうございます。
感想や評価を頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。




