第五章白衣を着ない日曜日
時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主な登場人物
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
次の日曜日、桐生直人は再び原宿へ向かった。
前の週とは違い、道に迷うこともなかった。
原宿駅を出て、表参道の人混みを抜け、代々木公園に近い歩行者天国へ向かう。
遠くから音楽が聞こえてきた。
直人は、その音を聞いただけで、少し気持ちが軽くなるのを感じた。
大学の講義室では、いつも時計ばかり見ていた。
しかし、ここでは時間を気にする必要がなかった。
何かを覚えなければならないわけでもない。
誰かの期待に応える必要もない。
ただ、踊っている若者たちを眺めていればよかった。
直人は人垣の後ろに立った。
竹の子族の集団が、音楽に合わせて踊っている。
赤い衣装。
黄色い衣装。
青い衣装。
直人は、その中から水野美咲の姿を探した。
すぐに見つかった。
美咲は先週と同じ青い衣装を着て、仲間たちと踊っていた。
腕を大きく振り、足を踏み出す。
ときどき隣の早苗と顔を見合わせ、笑っている。
直人は、その姿を眺めながら思った。
やはり、楽しそうだ。
舞台に立つ役者とは違う。
観客に何かを伝えようとしているわけではない。
ただ、自分たちが楽しむために踊っている。
その自由さが、直人には少し羨ましかった。
◇◇◇◇◇◇
一曲終わると、美咲が直人に気づいた。
「あっ、桐生さん!」
美咲は笑顔で手を振った。
直人も手を振り返した。
美咲は早苗と何か話してから、直人のところへ歩いてきた。
「本当に来てくれたんですね」
「来ちゃった」
「嬉しいです」
美咲はそう言って笑った。
直人は少し照れた。
「邪魔じゃなかった?」
「全然。むしろ、見てくれる人がいると張り切っちゃいます」
「じゃあ、また来ようかな」
「ぜひ」
美咲は楽しそうに頷いた。
そこへ早苗がやってきた。
「桐生さん、また来たんですね」
「うん」
「もう常連さんじゃないですか」
「まだ二回目だよ」
「二回も来れば十分ですよ」
早苗は笑った。
「美咲、よかったね」
「何が?」
「別にぃ」
美咲は早苗の肩を軽く叩いた。
「もう、変なこと言わないで」
直人は二人のやり取りを見ながら笑った。
こういう何気ない会話が、妙に心地よかった。
◇◇◇◇◇◇
その日も、直人は踊りには加わらなかった。
美咲たちが踊る姿を、少し離れたところから眺めていた。
途中、早苗が声をかけてきた。
「桐生さん、本当に踊らないんですか?」
「うん。見てる方が好きだから」
「演劇やってたんでしょう?人前に出るのは平気じゃないですか」
「舞台に立つのと、踊るのは別だよ」
「そういうものですか?」
「そういうもの」
直人は笑った。
早苗は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上誘わなかった。
直人にとって、演劇は自分を表現するためのものだった。
竹の子族の踊りは、美咲たちの表現だった。
それを眺めるだけで、十分に楽しかった。
自分まで同じことをする必要はない。
直人はそう思っていた。
◇◇◇◇◇◇
踊りが終わった後、美咲と直人は二人で喫茶店に入った。
早苗は仲間たちと別の場所へ行くという。
「今日は二人でどうぞ」
早苗は意味ありげに笑っていた。
美咲は少し困った顔をしたが、直人は何も言わなかった。
喫茶店に入ると、窓際の席に案内された。
直人はコーヒーを、美咲は紅茶を注文した。
「桐生さん、大学はどうですか?」
美咲が尋ねた。
「まあ、ぼちぼちかな」
「勉強、大変でしょう?」
「大変だね」
「医学部って、六年間も通うんですよね」
「うん」
「長いですね」
「そうだね」
直人は苦笑した。
六年間。
まだ半年しか経っていない。
それなのに、すでに長く感じていた。
「水野さんは、仕事どう?」
直人が尋ねると、美咲は少し考えた。
「忙しいですよ。でも、だいぶ慣れてきました」
「そうなんだ」
「まだ失敗も多いですけど」
「誰でも最初はそうだよ」
「そうですね」
美咲は微笑んだ。
しかし、直人は気づいた。
仕事の話になると、美咲の笑顔が少し硬くなる。
踊っているときとは、明らかに違っていた。
「……水野さん」
「はい?」
「仕事、嫌になったことない?」
美咲は少し驚いた顔をした。
「ありますよ」
「あるんだ」
「そりゃ、あります」
美咲は笑った。
「看護婦だって人間ですから」
「そうだよね」
「でも、辞めたいと思ったことは……」
そこで、美咲は言葉を止めた。
直人は黙って待った。
美咲は紅茶を一口飲んだ。
「……あります」
小さな声だった。
「そうなんだ」
「でも、今は続けています」
「うん」
直人はそれ以上、尋ねなかった。
美咲は少し安心したように微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇
「桐生さんは、演劇をやってたんですよね」
美咲が話題を変えた。
「うん」
「どうして辞めちゃったんですか?」
直人は少し考えた。
「父さんが亡くなって、医学部を目指すことにしたから」
「でも、医学部に入ってからも演劇はできるんじゃないですか?」
「趣味ならね」
「趣味じゃ駄目なんですか?」
直人はコーヒーカップを置いた。
「俺は、役者になりたかったんだ」
美咲は直人を見つめた。
「高校のとき、本気でそう思ってた。劇団に入って、舞台に立って、いつか芝居だけで食べていけるようになりたかった」
「素敵ですね」
「でも、父さんが亡くなって……」
直人は少し笑った。
「全部、変わっちゃった」
美咲は黙っていた。
直人は続けた。
「父さんの遺言書を読んだとき、医者にならなきゃって思ったんだ。父さんの最後の願いだったから」
「……はい」
「でも、医学部に入ってみたら、周りの連中はみんな、自分なりの理由を持ってるんだよ」
「理由?」
「患者を助けたいとか、研究をしたいとか、病院を経営したいとか」
直人は苦笑した。
「俺だけ、父さんの遺言書なんだ」
美咲は少し考えた。
「それも、立派な理由だと思いますけど」
「そうかな」
「ええ」
美咲は微笑んだ。
「でも、桐生さんが本当にやりたいこととは、違うんですよね」
直人は答えなかった。
美咲は続けた。
「だったら、いつかちゃんと考えた方がいいのかもしれませんね」
「何を?」
「桐生さん自身が、どうしたいのか」
直人は窓の外を見た。
原宿の通りを、若者たちが楽しそうに歩いていた。
誰もが、自分の行きたい場所へ向かっているように見えた。
「……そうだね」
直人は小さく答えた。
◇◇◇◇◇◇
それから、直人は日曜日になると原宿へ通うようになった。
毎週必ずというわけではなかった。
美咲の仕事の都合で会えない週もあったし、直人にも大学の用事があった。
それでも、二人は少しずつ会う回数を増やしていった。
直人は、いつも踊りを眺めていた。
美咲が踊っているときは、少し離れたところから見守った。
踊り終わると、二人で喫茶店へ行った。
ときには、代々木公園を散歩した。
話題は、いつも他愛のないものだった。
好きな映画。
最近読んだ本。
子供の頃の思い出。
食べ物の好み。
直人は、そんな話をするのが楽しかった。
大学では、どうしても医学の話が中心になる。
家族と会えば、病院の話になる。
しかし、美咲といるときは違った。
医者になることも、病院を継ぐことも、忘れていられた。
◇◇◇◇◇◇
ある日曜日、二人は代々木公園のベンチに座っていた。
秋が深まり、木々の葉が少しずつ色づいていた。
美咲は紙袋から缶ジュースを取り出し、直人に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
直人は受け取った。
「水野さん、いつも元気だね」
「そう見えます?」
「うん」
美咲は少し笑った。
「元気じゃない日もありますよ」
「そうなんだ」
「ありますよ、そりゃ」
美咲は缶ジュースを開けた。
「でも、ここに来ると元気になるんです」
「竹の子族?」
「ええ」
美咲は遠くを見た。
歩行者天国の方から、かすかに音楽が聞こえていた。
「踊っているときは、何も考えなくていいから」
直人は頷いた。
「前にも言ってたね」
「そうでしたっけ?」
「うん」
美咲は少し笑った。
「嫌なことがあっても、音楽が鳴ってる間だけは忘れられるんです」
直人は、その言葉を聞いて少し胸が痛んだ。
嫌なこと。
それが何なのか、直人には分からなかった。
しかし、美咲が何かを抱えていることだけは、少しずつ感じ始めていた。
「桐生さんは?」
美咲が尋ねた。
「え?」
「嫌なことがあったとき、どうするんですか?」
直人は少し考えた。
「昔は、芝居をしてたかな」
「芝居?」
「うん。稽古してると、余計なこと考えなくて済んだから」
美咲は微笑んだ。
「じゃあ、私と同じですね」
「そうかもしれない」
「今は?」
直人は答えに詰まった。
今は、何をしているのだろう。
嫌なことがあっても、芝居はしていない。
医学書を開いても、気持ちは晴れない。
大学へ行くのも億劫になっている。
「……今は、何もしてないかな」
直人は正直に答えた。
美咲は少し驚いた顔をした。
「そうなんですか」
「うん」
直人は笑った。
「だから、こうして原宿に来てるのかもしれない」
美咲は直人を見つめた。
そして、少し照れたように笑った。
「じゃあ、私の踊りも、少しは役に立ってるんですね」
「かなりね」
「本当ですか?」
「本当」
美咲は嬉しそうに笑った。
直人も笑った。
その瞬間、二人の間に流れる空気が、少しだけ変わったような気がした。
◇◇◇◇◇◇
十一月に入ると、風が冷たくなってきた。
ある日曜日、直人はいつものように原宿へ向かった。
しかし、その日は美咲の姿が見当たらなかった。
早苗を見つけて尋ねると、彼女は少し困った顔をした。
「美咲、今日は来ないんです」
「仕事?」
「……まあ、そんなところです」
直人は少し気になった。
「何かあったの?」
早苗は一瞬、言葉に詰まった。
「いえ、大したことじゃないですよ」
「そう?」
「ええ。来週は来ると思います」
早苗は笑った。
しかし、その笑顔は少しぎこちなかった。
直人は、それ以上尋ねなかった。
その日はしばらく踊りを眺めてから、早めに帰った。
◇◇◇◇◇◇
翌週の日曜日。
美咲は原宿に来ていた。
いつもの青い衣装を着て、仲間たちと踊っていた。
直人は安心した。
しかし、踊り終わった美咲が近づいてきたとき、少し違和感を覚えた。
「桐生さん、こんにちは」
「こんにちは。先週はいなかったね」
「あ、はい。ちょっと用事があって」
「仕事?」
「ええ、まあ……」
美咲は笑った。
しかし、目の下に少し疲れが見えた。
「大丈夫?」
直人が尋ねると、美咲は驚いた顔をした。
「何がですか?」
「いや、何となく疲れてるみたいだから」
「そんなことないですよ」
美咲は慌てて笑った。
「ちょっと寝不足なだけです」
「そう?」
「はい」
直人は頷いた。
しかし、美咲の様子が気になった。
その日の踊りも、美咲はいつもより少し元気がなかった。
早苗が何度か声をかけていた。
美咲は笑って答えていたが、直人には無理をしているように見えた。
◇◇◇◇◇◇
踊りが終わった後、二人は喫茶店に入った。
美咲は温かい紅茶を注文した。
直人はコーヒーを頼んだ。
しばらく、二人は他愛のない話をしていた。
しかし、直人はどうしても気になっていた。
「水野さん」
「はい?」
「何か、困ってることない?」
美咲は驚いた顔をした。
「どうしてですか?」
「いや、最近ちょっと元気がないように見えるから」
美咲は少し黙った。
そして、微笑んだ。
「桐生さん、優しいですね」
「そんなことないよ」
「ありますよ」
美咲は紅茶を一口飲んだ。
「でも、大丈夫です」
「そう?」
「はい」
直人は頷いた。
それ以上、聞くことはできなかった。
美咲が話したくないのなら、無理に聞くべきではない。
直人はそう思った。
しかし、同時に、何かを隠しているような気もしていた。
◇◇◇◇◇◇
喫茶店を出ると、夕方の原宿はすっかり冷え込んでいた。
美咲はコートの襟を立てた。
「寒くなりましたね」
「そうだね」
「もうすぐ冬ですね」
「うん」
二人は駅へ向かって歩いた。
途中、美咲が立ち止まった。
「桐生さん」
「何?」
「いつも、ありがとうございます」
直人は少し驚いた。
「何が?」
「毎週、見に来てくれて」
「いや、俺が好きで来てるだけだから」
「それでも、嬉しいです」
美咲は微笑んだ。
「私、ここに来るのが楽しみなんです」
「うん」
「最近は、桐生さんとお話しするのも」
直人は思わず美咲を見た。
美咲は少し照れたように笑った。
「変ですね。まだそんなに長い付き合いじゃないのに」
「そんなことないよ」
直人は言った。
「俺も、楽しみにしてる」
美咲は顔を上げた。
「本当ですか?」
「うん」
二人は少しだけ見つめ合った。
そして、どちらからともなく笑った。
◇◇◇◇◇◇
駅の前で別れるとき、美咲は直人に手を振った。
「また来週」
「うん。また来週」
直人は、美咲が人混みの中へ消えていくのを見送った。
その姿を見ながら、ふと思った。
自分は、いつから日曜日をこんなに楽しみにするようになったのだろう。
大学へ行くのは億劫だった。
医学書を開くのも気が重かった。
しかし、日曜日だけは違った。
原宿へ行く。
美咲の踊りを見る。
踊り終わった彼女と話をする。
ただ、それだけのことが、今の直人には何よりも楽しみだった。
直人は駅の改札へ向かった。
そのとき、ふと気づいた。
美咲と話しているとき、自分は医者の息子でも、医学部の学生でもなかった。
ただの桐生直人だった。
誰かの期待に応える必要もない。
何者かになろうとする必要もない。
自分の好きなことを話し、相手の話を聞き、一緒に笑う。
それだけでよかった。
直人は少し笑った。
しかし、同時に気になることもあった。
美咲の笑顔の奥に、ときどき見える影。
仕事の話になると、曖昧になる返事。
そして、何かに怯えているような、一瞬の表情。
彼女は、何を抱えているのだろう。
直人には、まだ分からなかった。
ただ、もし彼女が何かに苦しんでいるのなら、少しでも力になれたらと思った。
医者としてではない。
桐生直人として。
その気持ちが、いつの間にか自分の中に生まれていることに、直人は気づいていた。
電車がホームに入ってきた。
直人は乗り込んだ。
窓の外には、夕暮れの東京が広がっていた。
次の日曜日も、きっと原宿へ行くだろう。
そして、彼女の踊る姿を眺めるのだろう。
直人は、その時間が少しでも長く続けばいいと思った。
お読みいただきありがとうございます。
感想や評価を頂ければと思います。
よろしくお願いいたします。




