第十章兄弟会議
時代:1981年~1983年頃
竹の子族が社会現象となった原宿・代々木公園を中心に、医学部のキャンパス、病院、小劇場が主な舞台となります。
主人公:桐生 直人22歳
病院を経営する桐生家の三男。幼い頃から芝居が好きで、高校では演劇部に所属。役者になることを夢見ていた。
しかし高校3年のとき、父が急逝。遺書にあった「直人も医者になり、兄弟で病院を守ってほしい」という言葉に心を動かされ、医学部受験を決意する。
二浪の末に医学部へ入学するが、医学への情熱を持てない自分に気づき、苦悩している。
性格: 真面目で優しいが、自分の気持ちより他人の期待を優先してしまう。
ヒロイン:水野 美咲20歳
看護科の短大を卒業し、看護婦として働き始めた女性。
短大時代、直人の父が経営する桐生病院で看護補助のアルバイトをしていた。
そこで直人と知り合う。
母親が長期入院しており、経済的に苦しい家庭で育った。
「病気の人を支えられる看護婦になりたい」という強い信念を持っている。
就職先の病院で院長の息子から性暴力を受け、病院側から示談を持ちかけられる。
母の治療費を負担するという条件のため、拒否できなかった。
その後、友人に誘われて竹の子族に参加する。
性格: 明るく勝ち気で、弱音を吐くことを嫌う。しかし内面には深い傷を抱えている。
桐生家の人々
人物設定・役割
長男・誠一(34歳) :桐生病院の院長。父の後継者。厳格だが弟思い
次男・修二(29歳) :外科医。合理主義者で医療経営にも関心が強い
長女・由紀子(26歳):内科医。患者との対話を大切にする。直人の理解者
父・宗一郎(故人) :桐生病院の前院長。遺書が直人の人生を変えた
母・和子(56歳) :亡き夫の願いを大切にするが、息子の変化に気づいている
高瀬 隆一(28歳)
美咲の就職先である高瀬病院の院長の息子。
医師免許を持つが、医療への責任感は乏しく、父の権力を利用している。
違法に拳銃を所持し、それを美咲に発見された際、脅迫して性暴力を加えた。
高瀬 重蔵(61歳)
高瀬病院院長。病院の評判と息子を守るため、美咲に示談を提案する。母親の入院費負担と再就職先の紹介を条件に口外しないよう求める。
佐伯 早苗(21歳)
美咲の短大時代の友人。竹の子族のメンバー。美咲を代々木公園へ誘い、再び笑える場所を与えた人物。
昭和五十六年、十二月二十九日。
東京には、年の瀬の慌ただしさが漂っていた。
商店街では正月用品が売られ、駅のホームには帰省客が増えていた。
桐生直人は、久しぶりに実家へ向かっていた。
手には小さな鞄を持っていた。
中には着替えと、古い台本が一冊入っていた。
『洋館の殺人』
高校時代、演劇部で上演した作品だった。
なぜ持ってきたのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、今日はそれを手元に置いておきたかった。
直人は電車の窓に映る自分の顔を見つめた。
二十一歳。
二年間浪人し、ようやく医学部に入学した。
父の願いを叶えるためだった。
しかし、今日は、その道を降りたいと家族に伝えるつもりだった。
考えれば考えるほど、胃が重くなった。
それでも、もう先延ばしにはできなかった。
◇◇◇◇◇◇
桐生家は、病院から歩いて十分ほどの場所にあった。
二階建ての古い洋風住宅だった。
玄関の扉を開けると、懐かしい匂いがした。
「ただいま」
奥から母の和子が顔を出した。
「あら、直人。お帰りなさい」
「ただいま、母さん」
「寒かったでしょう。早く上がりなさい」
和子は嬉しそうに笑った。
「今日はみんな帰ってくるからね」
「うん」
「お兄さんたちも、由紀子も」
直人は頷いた。
今日は、家族全員が集まる日だった。
正月前の恒例の食事会。
しかし、直人にとっては、それ以上の意味があった。
◇◇◇◇◇◇
夕方になると、兄弟たちが集まった。
長兄の誠一。
三十四歳。
父の死後、桐生病院の院長を引き継いだ。
次兄の修二。
二十九歳。
外科医として病院を支えている。
姉の由紀子。
二十六歳。
内科医として働いていた。
そして、直人。
四人兄弟の末っ子だった。
食卓には、和子が用意した料理が並んでいた。
「直人、少し痩せたんじゃない?」
由紀子が言った。
「そうかな」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「下宿の食事だけじゃ栄養が偏るわよ」
「分かってるって」
直人は苦笑した。
修二が笑った。
「由紀子、お前は弟の母親か」
「だって心配なんだもの」
「直人も、もう二十一だぞ」
「二十一でも心配なものは心配よ」
和子が笑った。
「そうねえ」
誠一も、珍しく少し笑った。
久しぶりに、家族全員が揃った食卓だった。
直人は、その光景を眺めながら思った。
こういう時間を、壊してしまうかもしれない。
しかし、黙っていることもできなかった。
◇◇◇◇◇◇
食事が一段落した頃。
直人は箸を置いた。
「……ちょっと、話があるんだけど」
家族の視線が集まった。
誠一が顔を上げた。
「何だ?」
直人は深く息を吸った。
「大学のことなんだけど」
修二が笑った。
「何だ、留年しそうなのか?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
直人は少し黙った。
そして、ゆっくり言った。
「……医学部を辞めたいと思ってる」
食卓が静まり返った。
和子の手が止まった。
由紀子は直人を見つめた。
修二は笑顔を消した。
誠一は、しばらく何も言わなかった。
そして、低い声で尋ねた。
「……もう一度言ってみろ」
直人は顔を上げた。
「医学部を辞めたい」
誠一の眉が動いた。
「理由は?」
「……役者になりたいから」
沈黙が落ちた。
◇◇◇◇◇◇
最初に口を開いたのは修二だった。
「お前、何言ってるんだ?」
直人は黙っていた。
「二浪して、ようやく医学部に入ったんだぞ」
「分かってる」
「それを一年も経たないうちに辞めるって?」
「……うん」
修二は呆れたように息を吐いた。
「冗談だろ」
「冗談じゃない」
直人は静かに答えた。
誠一が口を開いた。
「直人」
「うん」
「父さんの遺言書を忘れたのか?」
直人は首を振った。
「忘れてない」
「だったら、なぜだ」
誠一の声は厳しかった。
「父さんは、俺たち四人で病院を守ってほしいと言っていた」
「うん」
「お前も、それを分かって医学部を受けたんだろう」
「そうだよ」
「なら、なぜ今さら辞めると言い出す?」
直人は答えに詰まった。
誠一は続けた。
「お前が二年間浪人していた間、母さんがどれだけ心配したと思ってる」
「……分かってる」
「俺たちだって、お前が合格したときは本当に嬉しかった」
「うん」
「それを、役者になりたいから辞める?」
誠一は首を振った。
「そんな話、簡単に認められるわけがない」
◇◇◇◇◇◇
直人は俯いた。
兄の言葉は、どれも正しかった。
二年間浪人した。
家族に心配をかけた。
ようやく医学部に入った。
それを辞めようとしている。
無責任だと言われても仕方がなかった。
しかし、それでも。
「……俺、ずっと考えてたんだ」
直人は顔を上げた。
「父さんが亡くなってから、ずっと」
誠一は黙っていた。
「高校三年の夏だったよね。父さんが急に倒れて」
和子が静かに頷いた。
「うん」
「俺、あのとき、何もできなかった」
直人は続けた。
「医者の家に生まれたのに、父さんを助けられなかった」
誠一の表情が少し変わった。
「だから、父さんの遺言書を読んだとき、医者にならなきゃって思ったんだ」
「……それは分かる」
誠一が言った。
直人は首を振った。
「でも、違ったんだ」
「何が?」
「俺は、医者になりたかったんじゃない」
直人はゆっくり言った。
「父さんを、もう一度喜ばせたかったんだ」
誰も何も言わなかった。
「父さんが生きてたら、俺が医学部に入ったことを喜んでくれると思った」
直人は苦笑した。
「でも、父さんはもういないんだよね」
和子が俯いた。
直人は続けた。
「だから、誰のために勉強してるのか、分からなくなった」
◇◇◇◇◇◇
由紀子が静かに口を開いた。
「直人」
「うん」
「高校の頃、演劇部だったわよね」
「うん」
「文化祭の舞台、覚えてる?」
直人は少し驚いた。
「……覚えてるよ」
「私、見に行ったのよ」
「知ってる」
由紀子は微笑んだ。
「あなた、本当に楽しそうだった」
直人は黙っていた。
「終わった後も、ずっと芝居の話をしてたわね」
「……うん」
「役者になりたいって、言ってた」
直人は頷いた。
由紀子は誠一を見た。
「お兄ちゃん、直人が演劇好きだったこと、知ってた?」
誠一は少し考えた。
「……知ってはいた」
「でも、本気だったことは?」
誠一は答えなかった。
由紀子は続けた。
「私たち、直人が医者になるのが当然だと思ってたのかもしれないわね」
修二が口を挟んだ。
「でも、だからって医学部を辞めるのは別問題だろ」
「それはそうよ」
由紀子は頷いた。
「ただ、直人の気持ちも聞いてあげたいの」
◇◇◇◇◇◇
誠一は腕を組んだ。
「直人」
「うん」
「役者になると言うが、具体的にどうするつもりだ?」
直人は少し考えた。
「小さな劇団に入ろうと思ってる」
「当てはあるのか?」
「まだ、決まってない」
修二が呆れたように言った。
「ほら見ろ」
直人は頷いた。
「分かってる。簡単じゃないことは」
「食っていけるのか?」
「最初は無理だと思う」
「じゃあ、どうする?」
「アルバイトしながら、芝居を続ける」
修二は首を振った。
「お前、医者になれば安定した生活ができるんだぞ」
「うん」
「それを捨てて、売れるかどうかも分からない役者になるって?」
「そうだよ」
直人は、はっきり答えた。
修二は言葉を失った。
直人は続けた。
「売れないかもしれない。ずっとアルバイト生活かもしれない」
そして、少し笑った。
「でも、それでもやってみたいんだ」
◇◇◇◇◇◇
誠一は長い間、黙っていた。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「……父さんはな」
直人は顔を上げた。
「お前のことを、一番心配してたんだ」
「……そうなの?」
「ああ」
誠一は頷いた。
「俺も修二も由紀子も、早くから医者になるつもりだった」
直人は黙って聞いていた。
「でも、お前だけは違った」
「うん」
「芝居が好きで、いつも何か台本を読んでた」
誠一は少し笑った。
「父さんは、それを見てよく言ってたよ」
「何て?」
「直人は、兄弟の中で一番自由だって」
直人は驚いた。
「……父さんが?」
「ああ」
誠一は頷いた。
「ただ、自由すぎて心配だとも言ってた」
直人は苦笑した。
「父さんらしいね」
誠一も少し笑った。
しかし、すぐに真面目な顔になった。
「だから、遺言書にあんなことを書いたのかもしれないな」
直人は黙った。
誠一は続けた。
「自分が死んだ後、お前が困らないように」
和子が静かに頷いた。
「……そうかもしれないわね」
直人は俯いた。
父の遺言書。
それは、命令だったのだろうか。
それとも、息子の将来を心配した父親の願いだったのだろうか。
直人には、もう確かめることはできなかった。
◇◇◇◇◇◇
しばらくして、和子が口を開いた。
「直人」
「うん」
「お母さんね、あなたが医学部に合格したとき、本当に嬉しかったの」
「……うん」
「でも、それは医者になるからだけじゃなかったのよ」
直人は顔を上げた。
「二年間、頑張ってきたでしょう」
和子は微笑んだ。
「その努力が報われたことが嬉しかったの」
直人は黙っていた。
「だから、辞めると聞けば、もちろん残念よ」
「……ごめん」
「でもね」
和子は首を振った。
「あなたが一生、嫌々医者を続けることの方が、お母さんは心配だわ」
直人の目が熱くなった。
「母さん……」
「ただし」
和子は少し厳しい顔になった。
「役者になるなら、ちゃんと自分の力で生きなさい」
直人は頷いた。
「うん」
「もう子供じゃないんだから」
「分かってる」
和子は微笑んだ。
「だったら、いいわ」
◇◇◇◇◇◇
誠一は、まだ黙っていた。
修二も、何も言わなかった。
しばらくして、誠一が立ち上がった。
「……少し、外の空気を吸ってくる」
そう言って、部屋を出ていった。
直人は不安になった。
由紀子が小さく笑った。
「大丈夫よ」
「……そうかな」
「お兄ちゃん、考えてるのよ」
直人は頷いた。
◇◇◇◇◇◇
十分ほどして、誠一が戻ってきた。
手には、父の写真が入った小さな額を持っていた。
それを食卓の端に置いた。
「直人」
「うん」
「俺は、まだ納得してない」
直人は頷いた。
「……分かってる」
「二浪して医学部に入ったんだ。簡単に辞めていいとは思わない」
「うん」
「それに、役者の世界が厳しいことくらい、俺でも分かる」
「……うん」
誠一は直人を見た。
「でも、お前がそこまで言うなら、もう止めても仕方がないんだろうな」
直人は顔を上げた。
「兄さん……」
「ただし、条件がある」
「何?」
「大学を辞める前に、ちゃんと今後の生活を考えろ」
直人は頷いた。
「うん」
「劇団のことも、住む場所も、収入のことも」
「分かった」
「それから、大学の手続きも自分でやれ」
「うん」
誠一は少し息を吐いた。
「俺たちは、もうお前の人生を決められない」
直人は黙っていた。
「ただ、兄として心配することはできる」
誠一は続けた。
「それだけは、覚えておけ」
直人は深く頭を下げた。
「……ありがとう」
◇◇◇◇◇◇
修二が苦笑した。
「まったく、末っ子は得だな」
直人は顔を上げた。
「何が?」
「好き勝手なこと言って、最後はみんなに応援されるんだから」
「そんなことないよ」
「まあ、いいけどな」
修二は笑った。
「ただし、芝居で食えなくなっても、俺に金を借りに来るなよ」
直人も笑った。
「分かってる」
由紀子が言った。
「私は、直人の舞台を見に行くわ」
「まだ劇団にも入ってないよ」
「入ったら教えてね」
「うん」
和子も微笑んだ。
「お母さんも見に行くわ」
直人は少し照れた。
「……ありがとう」
誠一は、そんな家族の様子を黙って見ていた。
そして、小さく笑った。
◇◇◇◇◇◇
その夜。
直人は、久しぶりに実家の自分の部屋で眠ることになった。
部屋には、高校時代の本やノートが残っていた。
机の上には、古い写真立てがあった。
高校の演劇部の集合写真だった。
舞台衣装を着た仲間たちが、笑っている。
その中央に、直人がいた。
直人は写真を手に取った。
あの頃は、何も怖くなかった。
役者になりたい。
ただ、それだけを考えていた。
しかし、父が亡くなり、すべてが変わった。
医者にならなければ。
家族の期待に応えなければ。
そう思っていた。
でも、今日。
ようやく、自分の気持ちを口にできた。
直人は鞄から台本を取り出した。
『洋館の殺人』
表紙は少し擦り切れていた。
何度も読んだ台本だった。
直人はページをめくった。
そして、ゆっくりと台詞を声に出した。
「あなたが隠したかったのは、殺人の証拠じゃない。誰かを愛していたという、たった一つの事実だったんです」
久しぶりに声に出した台詞だった。
少し照れくさかった。
しかし、不思議と気持ちがよかった。
直人は笑った。
やはり、自分は芝居が好きなのだ。
◇◇◇◇◇◇
翌朝。
直人は早く目を覚ました。
窓の外には、冬の青空が広がっていた。
階下から、母の声が聞こえてきた。
「直人、朝ご飯できてるわよ」
「はーい」
直人は返事をした。
そして、机の上の台本を見た。
これから、どうなるのだろう。
劇団に入れるのか。
舞台に立てるのか。
役者として生きていけるのか。
何も分からなかった。
しかし、不思議と怖くなかった。
いや、怖さはあった。
それでも、前へ進みたいと思っていた。
直人は台本を鞄にしまった。
そして、部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇
その日の午後。
直人は下宿へ戻る途中、原宿に立ち寄った。
平日の原宿には、竹の子族の姿はなかった。
歩行者天国もなく、車が通りを走っていた。
直人は、いつも美咲が踊っている場所を眺めた。
日曜日になれば、また音楽が流れる。
美咲が青い衣装で踊る。
そして、自分は少し離れたところから、その姿を眺める。
直人は微笑んだ。
美咲に、話したいことがあった。
家族に、自分の気持ちを伝えたこと。
役者になると決めたこと。
そして、これから新しい道を歩もうとしていること。
彼女が言ってくれた言葉を、思い出した。
『桐生さんが舞台に立ってるところ、見てみたいです』
直人は空を見上げた。
冬の空は、高く澄んでいた。
もうすぐ、新しい年が来る。
昭和五十七年。
一九八二年。
その年は、自分にとって新しい人生の始まりになるだろう。
直人は、ゆっくり歩き始めた。
まだ、何も成し遂げていない。
しかし、ようやく自分の足で歩き出した気がしていた。
お読みいただきありがとうございます。
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