第22話 今は、魔王
柔らかな朝日が、魔王城の食堂へ差し込んでいた。
窓から吹き込む風が白いカーテンを揺らし、紅茶の香りが部屋いっぱいに広がる。
「魔王様、お茶が入りました」
クロウは湯気の立つカップをテーブルへ置いた。
「ありがとう」
ルシウスは穏やかに微笑み、カップを手に取り、ふわりと立ち上る香りを楽しむように目を閉じ、口をつけた。
「……今日も美味しいね」
「ありがとうございます」
クロウは微笑むと、向かいへ腰を下ろした。
二人の間には、何百年も変わらない朝の時間が流れていた。
「今日は畑からかな?」
「ええ。トマトも、かぼちゃも順調ですよ」
「よかった」
ルシウスは嬉しそうに笑う。
「収穫したらエルピスにも持って帰ってもらおう」
「……またですか」
「だって育ち盛りだからね」
「魔王城の野菜で勇者を育てる魔王など、あなたくらいです」
「そうかな?」
「そうです」
クロウは呆れた顔をしながら、紅茶を口へ運ぶ、そんな何気ない朝だった。
「魔王ー!……いや、ルシウス?どっちでもいい!」
食堂の扉が突然、エルピスによって開かれた。
「今日は一段と早いね」
日書かれた扉に驚きもせず、ルシウスはにっこりと笑った。
———真実を聞いても、エルピスも変わらないようだ。
クロウはルシウスの穏やかな笑顔を見ながら、静かに立ち上がった。
「今日は戦われますか?」
「うん…」
ルシウスは真剣な顔で頷いた。
「魔剣を」
そのひと言を受け、クロウは黒曜石の間へと静かに向かった。
———ルシウス。
あなたはいつまでもルシウスなのですね。
その背中を見送りながら、ルシウスは紅茶を楽しんだ。
ルシウスの口から”魔剣”という言葉が出て、エルピスは目を丸くしていた。
今日もいつもと同じだと思った。
戦うことはせず、ルシウスは畑の野菜の話や紅茶の話をするのだと思っていたのに、違った。
そして、紅茶の香りを楽しむルシウスのその表情がどこか嬉しげに見えて、エルピスの胸がざわついた。
そして、ルシウスは紅茶のカップからエルピスへと目を向けると柔らかく微笑んだ。
「来てくれて、ありがとうエルピス」
そのルシウスの微笑みがエルピスの胸のざわつきをより際立たせた。
エルピスは息を呑んだ。
目の前にいるルシウスは、昨日までと何も変わらない。
穏やかに笑い、紅茶を飲んで相変わらず畑の話をする。
なのにその笑顔が、どこか遠く感じた。
———何かが、違う。
「……ルシウス?」
「ん?」
「何かあった?」
ルシウスは少しだけ首を傾げると、優しく笑った。
「どうして?」
「いや……」
エルピスは言葉に詰まった。
理由なんて分からない。
ただ何かを隠しているような。
何かを諦めてしまったような、そんな目をしている気がした。
「気のせいじゃない?」
ルシウスはカップをテーブルへ置き、静かに立ち上がる。
ちょうどその時、黒曜石の間の奥からクロウが一本の剣を抱えて戻ってきた。
黒い鞘。
漆黒の柄。
禍々しい魔力を纏う一本の剣だった。
「魔王様」
クロウが静かに差し出すその剣をルシウスはゆっくりと受け取った。
その瞬間エルピスは思わず息を呑んだ。
「その剣……」
魔王が持つには、あまりにも自然だった。
まるで何百年も、その手に握られてきたかのように。
「魔剣」
ルシウスは小さく呟く。
「昔は勇者の剣しか握ったことがなかったんだけどね」
どこか懐かしそうに笑う。
その言葉に、エルピスの胸がまたざわついた。
「……ルシウス」
「ん?」
「本当に、あんたは魔王なのか?」
静寂が落ちた。
クロウは何も言わず目を伏せ、ルシウスもすぐには答えなかった。
やがて魔剣を静かに見つめたまま、小さく笑った。
「そうだね。今は、魔王だよ」
その笑顔は、穏やかだった。
けれどエルピスには、その”今は”という言葉だけが、不思議なほど耳に残った。
———今日の勇者、エルピス。
君は、尊い勇者そのものだ。
そして、どうか———。
幸せに生きてくれ。




